47話【家族】
………
……
…
私が生まれたのは凄く小さな田舎だった。【双葉】って名前は、お母さんが付けてくれたんだ。
小さい頃の記憶にお父さんの事は全く無かった。あの人は育児をずっとお母さん一人に任せて、帰ってくる日が殆どなかったから。そんな酷い環境でも、お母さんはいつも一人で、小さい私を育ててくれた。お母さんは口癖のように言ってた。
『お父さんはね、私達の為に都会で仕事を頑張ってるの。寂しいかもしれないけれど、一緒に帰りを待とうね』
お母さんはお父さんの事が大好きだった。【愛してくれるから】その理由だけで、どんなに置いてかれても、お父さんの事を信じてたみたい。
…でも、私が5歳の時。久々に帰ってきてたお父さんが、お母さんの名前を呼び間違えたのがキッカケで【浮気】が発覚したんだ。それも一人じゃない。多くの人と関係を築いていた。
お父さんの【愛】を信じていたお母さんは怒りのままにお父さんを家から追い出して、そのまま離婚。お母さんは裏切られた事が悲しくて、何日も何日も泣いていたのを今でも覚えている。まだ5歳だった私でも、お父さんがお母さんにしたのは最低な事だって分かった。
それからお母さんの知り合いの人から、市役所で旧名に戻すように勧められたんだけど、お母さんは変えることはなかった。どれだけ最低な仕打ちを受けても、お父さんの事が忘れられなくて、名前だけでも残しておきたかったんだと思う。お母さんは私と同じで、ずっと一人だったから【愛】を求めてたんだ。
本当の一人になった後でも、お母さんはめげずに私を懸命に育ててくれた。必死に地元で仕事をしてお金を稼いでいた。……でも、どれだけお金を貯めようと頑張っても増えなかったんだ。お父さんがまたお母さんの前に現れたから。
お母さんは私が気付いてないと思ってたんだろうけど、私は知っていた。私が学校に行ってる間に、お父さんと過ごしていたのを。その時、お父さんにお金を渡していたのも知ってる。なんでそんな最低な男なんかにお金を渡してたのか正直わからない。
…けど、止めたくても止められなかったんだと思う。お金を渡す事で、お父さんはお母さんに【愛している】と言うから。それが【嘘】だとわかっていても、お母さんの中にある【愛】が満たされたんだと思う。
お金もお父さんに持って行かれて、引き離したくても引き離せない【愛】に悩まされ、お母さんは徐々におかしくなっていった。いつも明るい笑顔で帰ってくる私を迎えてくれるお母さんも、いつしか真顔になっていって、『おかえりなさい』の言葉も言ってくれなくなった。
10歳のある日、テストで良い成績を取れて、嬉しくなった私は家に帰ってお母さんに報告したの。
その時だったな。初めて叩かれたのは。
お母さんは、もう私の知ってるお母さんじゃなかった。
『うるさい。疲れてるから静かにして』
そう言って、さっきまで喜んでいた私を突き放したの。どうして叩かれたのかも分からなくて、私はただ呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。
でも、私なりに考えたんだ。どうしてお母さんが元気を無くしてしまったのか。きっと私がお母さんを困らせてるから、怒ってるんだ。だから、怒られないように頑張れば良いんだって。
その日を境にお母さんは事あるごとに、私の体を叩いた。それも日に日に強さを増して。私は叩かれる度に何がダメだったのか必死に考えて、お母さんの反応をずっと伺った。私が他の人の仕草をよく見て、その人に合わせるように演じていたのも、多分これの影響だと思う。
お母さんは、またあの時の様に戻ってくれるはず。私がお母さんを怒らせない良い子に変わったら、あの頃のようにもう一度【愛】してくれる。どれだけ叩かれても、怒鳴られても、辛い顔を見せずにそれだけを信じて、私なりに頑張り続けた。
その努力が募ったのかな。14歳の頃には、お母さんもあまり怒鳴らなくなってた。代わりに無気力になったというか…でも、叩かれるよりも怒鳴られるよりも、そっちの方が私は少し楽になれた。
…
……
………
…暗い潜水艦のポッド内部。いつも明るい笑顔で楽しく話す双葉と違い、終始少し俯き悲しそうに話す。目の前に座る黒木は、双葉が虐待を受けていた事、なぜ父親が嫌いなのかを理解しながらも困惑していた。
人々から愛され、崇拝される程美しく輝く【パーフェクトモデル】とは大きく異なる残酷な過去。彼女が人々に見せる【偽りの姿】は、両親の愛情がない結果に生まれた哀劇の形であると。
そして、それと同時に一つのある事を思い出す。双葉が人々に見せない背中の火傷…あれはまさかと気付いた黒木は、静かに彼女へ問い掛ける。
黒木
「…双葉さん……もしかして、貴方の背中の火傷というのは……」
黒木は不安気な表情をしている。双葉は苦く笑うと再び語り始める。
双葉
「…うん。あの時の事は忘れもしない。丁度12月に入る前の日……」
………
……
…
PM16:01 11月某日 7年前
とある小さな田舎の町。本格的な冬が始まろうとしている肌寒い今日。白い息を吐きながら、何の変哲もない小さなアパートの階段を駆け上がる学生服の少女がいた。中学3年生の頃の双葉である。アパートの二階、隅の部屋【204号室】の扉を彼女は開ける。
中に入ると静まり返った小さな居間の隅に、無気力に座り込んで動かない女性がいた。魂が抜けたような顔をして、双葉が部屋に入ってきても全く反応しないこの女性こそが、双葉の母【桜井 美花】である。どう見ても【異常】な状態ではあるが、双葉からすればこの状態の母は【正常】なのだ。
双葉
(良かった。今日は機嫌がいいみたい)
双葉
「ただいま!お母さん!喉乾いてない?今日は寒いし温かいお茶でも淹れよっか!」
美花
「……」
笑顔で元気良く話すも、美花はまるで反応がない。それでも双葉は気にすることもなく、台所に置いてあるヤカンを手に取り水を注ぎ、コンロに火をつけてそっとその上へと乗せる。
水が沸騰するまでの間もただじっと待つのではなく、二人分のコップを取り出したり、お茶袋を用意したりとテキパキと熟す。合間の時間を使いこなすのに既に慣れているのだ。美花が気力を無くし、殆ど動かなくなった今、簡潔な料理や家事は双葉が全て言われなくても行っている。
お茶を飲む準備を済ませ、まだ沸騰していないヤカンを確認すると次は朝から干していた洗濯物を取り出しにベランダへと出て行く。
回収を終えて、一つ一つ丁寧に畳み箪笥へと戻して行く最中、ふと視線を感じた彼女は美花の方へと振り返る。いつも俯いたまま殆ど動かない美花が、今は悲し気な顔をして此方を見つめていた。
双葉
「…お母さん?」
美花
「……」
双葉の呼び掛けにも反応せず、美花はじっと悲しい表情のまま見つめ続ける。何故母は自分を見ているのか分からなかったが、久々に目を合わせられた事の方が双葉に嬉しく思い微笑んだ。
双葉
「お風呂、洗ってくるよ。もう少し待っててね、お母さん」
干した衣服を箪笥へ戻し終えると、双葉は美花に軽く手を振り浴室へと向かった。
娘の姿が見えなくなり、美花は再び俯く。双葉は自分に見つめられたのが嬉しかったのか、浴室の方から微かに彼女の鼻歌が聞こえてくる。しかし、美花は決して双葉を見ていたのではなかった。双葉の【瞳】を見ていたのだ。
美花
(………あの瞳が………)
ピィィイイイイ…!
コンロの上で温めていたヤカンが沸騰して笛を鳴らす。その音を耳にした美花は静かに立ち上がり、ヤカンの取っ手を握ってコンロから離した。沸騰した音は突如と消え、浴室で浴槽を洗っている双葉は疑問を感じる。
双葉
(…?音が消えた…?お母さん、火を消してくれたのかな?)
今日、久々に目を合わせてくれた母親は、もしかするといつも以上に機嫌が良いのかもしれない。ヤカンの音が消えたのを確認せず、双葉は浴槽を洗うのに専念する。
自分の後ろには、ヤカンを手に持った母親が立っているとも知らず。
美花
(………その瞳が、私を狂わせる………)
美花はじっと双葉の後ろ姿を見続け、ヤカンのフタを外す。100℃を超える熱湯の湯気が黙々(もくもく)と立っている。
美花
「……その目で……」
双葉
「…?」
ボソッと呟く母親の声が耳に入り、漸く後ろに母親がいる事に気付く。
何か不審に感じて、振り返ろうとした。母親に対する違和感を、後ほんの少し早く気付いていたのであれば、この先の運命は大きく変わっていたのかもしれない。いつも母親の調子を伺っていた双葉なら、この違和感に気付けたのだろう。…だが、久々に目を合わせてくれた事への嬉しさが、彼女の心を油断させたのである。
母親がその手に持つヤカンで、何をしてくるかを理解した。だが、それを理解したところでもう遅かった。
美花
「その目で私を見ないでぇえええっ!!!」
双葉
「アァァァァアアアアアッ!!!!」
美花が振りかけたヤカンの熱湯は、双葉の背中に浴びせられる。地獄の様な灼熱が背中に広がり、彼女は叫び床に倒れ込むと、のたうち回り苦しそうに悶えていた。
双葉
「アァァァッ!!アア…ッ!!アァァアアアアアッ!!!」
娘の聞いたことのない大きな苦痛の叫び声が浴室に響き渡る。何度も何度も起き上がろうとしても、広がっていく火傷の痛みには逆らえず、倒れては転がり込むのを繰り返す。美花はその場にへたり込み、呆然とした姿で双葉を見続ける。
ドンドンドン!!
娘の悲鳴以外の音が耳に入り、美花の体はビクッと反応する。荒々しく叩く音は玄関の扉の方からだ。
?
「桜井さん!?どうしたんですか!?開けてください!!」
扉の先から男性の声が聞こえてくる。この声に聞き覚えがあった。この部屋の隣に住む住人だ。双葉の叫び声は外にまで響いていたのか、双葉とも仲良くしてくれていたこの男が、彼女の悲鳴に駆けつけたのだろう。
きっと、この扉を開けてこの光景を見られてしまえば、警察を呼ばれる事態も免れない。だが、そんなのもどうでもいい。このまま警察に捕まってしまっても構わない。もう、全てがどうでもいい。
ドンドンドン!!ガチャガチャガチャ!!ドンドンドン!!
?
「桜井さん!!居るんですよね!?開けてください!!さっきの双葉ちゃんの悲鳴は何なんですか!?聞こえてるんでしょ!?」
扉を叩くだけでなく、ドアノブも掴んで激しく引いて、扉からの音は更に荒々しくなっていく。このボロいアパートの扉では、乱暴に扱えば直ぐに破れてしまう。一切反応無く俯き座り続ける美花も、扉が破られるのはもうじきだと察していた。
双葉
「〜ッゥゥ!!!」
歯を強く食い縛り、突き刺さる痛みを我慢して、フルフルと体を震わせながら立ち上がる。動かない母親の横を通り過ぎ、双葉はフラフラと壁に寄り掛かりながらも、玄関の扉の方へと向かって行った。
ハァハァと息を吐き、両手でドアノブを強く握って捻る。力を振り絞り扉を開けると、そこには必死になって汗を流す隣人が立っていた。
学生服は濡れて額の汗は止まらない。体勢も崩れかけ、今にも倒れそうになっている。明らかに様子がおかしい双葉の姿を見た男の顔色は一気に青褪める。
男
「ふ、双葉ちゃん!?どうしたんだ!!一体何が…!!」
男は双葉の体を支え、中に入ろうとする。
しかし、双葉は中に入られる事を拒んだ。弱々しくもその手で、部屋の奥へ入らないようにと必死に抑える。
男
「ふ、双葉ちゃん!?何を…!」
双葉
「だ、大丈夫…!!」
美花
「…!」
双葉から発せられた言葉は【大丈夫】
浴室でへたり込んでいた美花にも、玄関からその言葉が聞こえてくると思わず双葉がいる方へと顔を上げる。それと同時に男は【大丈夫】じゃない双葉の発言に足を止めて困惑していた。
男
「な、何を言ってるんだ双葉ちゃん!その体が大丈夫なわけないだろ!?警察にも連絡しないといけないし君の母さんとも話を…!」
双葉
「今お風呂洗ってたんだけどね…!お湯が物凄く熱くて叫んじゃったの…!!ごめんなさい!うるさくしちゃって…!!」
男
「バカな事を言うんじゃない!お風呂のお湯であんなに叫ぶわけが…!!」
双葉
「本当にッ!!大丈夫だから…ッ!!」
男
「…!!」
双葉
「…ッ…だからお願い…誰にも何も言わないで…おじさん…」
必死に抑える双葉は顔を上げて、男に笑顔を見せる。苦痛による汗は止まらず、我慢しているのがお見通しであるギリギリと食い縛った歯。顔は引き攣って見るに耐えないが、それは正しく【笑顔】だった。
何が彼女をここまでして、この最悪の事態を避けようとするのかが男には分からなかった。必死に笑顔を作り続ける双葉に、ただ呆然と立ち尽くし見つめ返すしか出来ない。
だが、このまま立っているだけでは双葉の体が危ない。男は一先ず彼女の安全を確保する為にも、双葉の手を握り半ば強引に外へ連れ出す。
双葉
「お、おじさん…?」
そして、玄関の扉から部屋の中に聞こえるように大声で言った。
男
「聞こえてますか桜井さん!娘さんは火傷を負ってるかもしれません!!手当するんで連れて行きますよ!!」
美花へそう伝えると男は廊下に出て、隣の自室へと双葉を連れ込むのであった。美花は連れ去られた娘を追いかける事もなく、ただ静かに浴室で一人座り込み続けているのであった。
…
……
………
暗い深海に沈む潜水ポッド。ブクブクと泡の音を立て、照明も消えた真っ暗な部屋で双葉は少し俯いて語る。
双葉
「隣のおじさんはね、町で診療所を務めるお医者さんだったんだ。偶々その日は休診日で部屋にいたの。自分の部屋にも医療品が置いてあってさ、私の背中を救急処置をしてくれた」
双葉
「おじさんのおかげで症状が悪化する事は避けられたけど、火傷の跡はもう消えないって言われた。背中を治療してくれてる間、おじさんに何度も警察へ相談するように説得されたんだけど……私にはそれが出来なかった。逆におじさんに何度も誰にも言わないでって頼んじゃった」
黒木
「……どうしてですか?」
双葉
「……それはね……」
………
……
…
双葉が出て行き数時間が過ぎた。すっかり日は沈み真っ暗の部屋で美花は居間に座り込んでいる。電気も付けずにただ一人でじっと。しかし、美花の頭の中では、双葉がその後どうなったのかは気にしていた。
警察に保護されたのか、或いはまだ隣人の部屋にいるのか。一つだけ分かるとするならば、きっと双葉はもう帰ってくる事はないのだろう。あのような残虐な行為を受けて、【ただいま】と言う者が存在するわけがない。
…そう思っていたが、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
双葉
「ただいま!」
元気よく笑って双葉は居間へ入ってくる。娘は母親の予想を打ち破るかのように戻ってきたのだ。彼女は照明を点けて部屋を明るくする。学生服だった服装も、今は男性用のシャツを着用してレジ袋も片手に持っていた。
双葉
「お母さん、まだ何も食べてないよね?おじさんからパン分けてもらえたから一緒に食べようよ」
レジ袋を机に置いて惣菜パンを取り出す。数時間前に熱湯をかけられ激しい痛みに苦しんでいたのに、まるで何事もなかったかのように彼女は振る舞う。
今まで自分がしてきた行いも含め、酷く恨まれてもおかしくないはずなのに、そんな様子をほんの少したりとも見せない双葉に、美花は俯いたまま静かに問い掛けた。
美花
「…どうして…?」
双葉
「…?」
母親の問い掛けに双葉は手を止めて振り返る。美花はゆっくりと顔を上げて、その疲れ切った瞳で双葉を見つめる。
美花
「…どうして…逃げなかったの…?このまま警察に言えば……こんな苦しみからも解放されたはずなのよ…?ねぇ…どうして?」
弱々しく枯れた母親の声。双葉は目線を逸らして少しの間答えられずに黙っていたが、母親の方を見つめ返すと苦く笑った。
双葉
「…お母さんの言う通り。きっと、あの時におじさんに助けを求めたら、全部が終わるんだろうなって思ったよ。……でも」
双葉
「私にはお母さんしかいないから。お母さんの代わりなんて…他にいないんだもん」
美花
「……双葉」
浮かない顔をし続ける母を元気付けようと、双葉は明るく笑う。
双葉
「お腹空いたでしょ、お母さん?一緒にパン食べよ?」
…一夜が明け、新しい朝が来る。空気はヒンヤリと冷え、外は薄い靄が広がる早朝。双葉は自室で目を覚まし、ズキズキとまだ痛む背中を気にしながら服を脱ぐ。
隣人が巻いてくれた包帯を外して、部屋に置いてある鏡台の前に背中を向けて立つと、そこには痛々しく爛れている火傷の跡が広がっていた。熱湯をかけられたあの時は激しく真っ赤に広がっていたが、今はシミの様に黒ずんでいる。母親を責める気はないが、二度とこの跡が消えないと思うと、直視出来ない程、その跡は醜く見えた。包帯を巻き直し、服も着替え終えるとそっと部屋を出る。
双葉
「…あっ」
美花
「……」
居間には既に美花が床に座っていた。何年も点けていなかったテレビからは、朝のニュース番組が流れている。その画面を美花は双葉に背中を向けて、じっと見ているではないか。
いつもならこの時間は母親はまだ部屋で寝ているはずなのに、今日は起きている。そして、二度と点ける事はないと思っていたテレビを見ている。ただでさえ珍しいこの二つの行動に双葉は、思わずその場から動けず暫く母親の背中を見つめていた。
その視線に気付いたのか。美花はゆっくりと双葉の方へと振り向く。黙ったまま見てくる母親に、何か声を掛けねばと焦り、絞り上げるような震え声で声を掛ける。
双葉
「お、おはよう、お母さん。起きてたんだね」
美花
「……」
娘の挨拶に、相変わらず反応がない。ただ唯一、此方をじっと見ている事を除いて。
双葉
「お、お腹空いたよね?食パンも余ってたと思うから一緒に焼くよ」
双葉はその視線から逃げる様に台所へと向かう。
美花
「双葉」
しかし、突然の母親の呼び掛けに足は止まって、自然と美花の方へと振り返った。その声は懐かしく、自分の理想の中で生きていた【母親】の優しい声色だった。そして、振り向いた先で映った美花の表情は、聖母のように優しく微笑んでいた。
美花
「…少し散歩にでも、行かない?」
双葉
「…お母さん?」
…
……
………
スタッフ
『長らくお待たせしました。運転を再開します。大きく揺れる可能性がありますのでご注意ください』
スタッフのアナウンスと同時に潜水ポッドは動き出す。真っ暗な深海を進む中、陽気な船長の声が取り付けられたスピーカーから響く。
【この深海は真っ暗だが、我々調査隊にとっては無限の【希望】に満ちているぞ!】
ポッドの外に取り付けられている照明ライトは稼働しだして、暗い深海に一本の光が続いていく。レバーを動かしてライトを動かし探索をすれば良いのだが、黒木も双葉も握ることはなかった。双葉はアトラクションが再開しても尚、俯いたまま語り続ける。
双葉
「何年も見てなかったお母さんの笑顔……それを見た瞬間、全てが報われたんだって思った。お母さんと誰もいない道を一緒に歩いてさ、会話は殆どなかったけど……必死に話題を弾ませる私を見てずっと優しく相槌を打ってくれていた」
黒木
「……」
双葉
「漸く、遂に、お母さんと分かり合えた。私の知っているお母さんに戻ったんだ。またあの頃のように、私を愛してくれる。…その日は嬉しいことが沢山あって、背中の痛みなんかも忘れさせてくれたよ」
黒木
「…それで、どうなったのですか」
双葉
「その日は日曜日で学校は休み。一日お母さんと一緒にいたけど…様子なんて伺わなくても大丈夫だって思えるぐらい安心して隣にいられた。本当に楽しかった。次の日、学校に行くのも嫌だって思ったけど、お母さんは『いってらっしゃい』って笑顔で言ってくれたんだ」
双葉
「帰ってきたら、またあのお母さんに会える。そう信じて家を出て行った……」
………
……
…
…カァカァと烏が鳴く夕方。双葉はハァハァと息を切らしながらも帰り道を走り続ける。彼女の動力は今、一刻も早く母親に会いたいと願う気持ちだけで動いていた。
アパートに到着して階段を駆け上がる。204号室前に着くと扉を勢いよく開けて、大きく元気な声を出す。
双葉
「ただいま!お母さん!今日ね、先生から模試テストの結果が好調だって言われて…!!」
嬉しそうに報告しながら部屋に入るも、何か部屋の違和感を感じて声が詰まり玄関で足を止めてしまった。
いつもは居間に大人しく床に座る母親がいるだけで物音は殆ど無いのだが、その無音のはずの居間からは、ギィギィと日常で聞いたことのない音が聞こえてくるのだ。
双葉
「…お母さん?」
双葉は恐る恐るゆっくりと、足音を鳴らさず慎重に進む。明らかに居間では良くない事が起きているのだと、彼女の直感はそう感じている。
そして、居間にほんの少しだけ顔を覗かせると、その音の原因が判明して彼女の目は大きく見開いた。
双葉の目に映ったのは、天井から繋がれたロープに首を吊って浮いている美花の姿だった。
…
……
………
黒木
「……」
彼女からの衝撃的な言葉は、黒木を絶句させる。双葉が抱いた【希望】は、一夜にして砕けたのだ。
彼女の話を聞いている内にアトラクションはもう終盤に差し掛かっていた。潜水艦は巨大なクラーケンに襲われていたが、海底からの脱出に成功して水面へと向かっている。
水面の光が差し掛かり、少しずつ船内も明るくなってきていた。暗くてよく見えなかったが、自身の過去を俯き気味で語る彼女の顔は、とても悲しそうにしていた。
双葉
「私はどうすることもできなくて、宙吊りになってるお母さんをずっとそこから見てた…気が付いたら、火傷を心配しに見にきたおじさんが、私の代わりに警察に電話をしてくれていた。…お母さんが死んだって現実を、受け入れる事が出来なかったんだと思う」
双葉
「ただもう一度愛されたかっただけなのに……お母さんは私を見捨てた。それが分かった瞬間、全てがどうでも良くなった」
双葉
「…葬式の日、初めてお爺ちゃんとお婆ちゃんと出会って、私を引き受けてくれたけれど…正直お互いに良い関係とは呼べなかったんだ。…心を閉ざしてる子を引き取るなんて、どう接したら分からないもんね」
黒木は静かに問いかける。
黒木
「……あの……葬式の時には、父親には会ったのですか?別れた後も母親と会っていたのなら……」
双葉
「来なかったよ。…アイツは、お母さんを散々利用しただけだった。初めからお母さんを愛してなかったんだ。…だから、本当に嫌い。久しぶりにアイツが現れて、みんなの前で感動の再会を演じた時は……殺したいって衝動を抑えるのに必死だったな」
黒木
「それなのに…人々は【パーフェクトモデル】として、双葉さんのその姿を絶賛していた…」
黒木は頭を片手で抑え、大きく溜息を吐く。
黒木
「……すみません。こんな事を言いたくないのですが……正直、心の底から恨んでいる相手と抱き合うなんて、正気の沙汰じゃないと思います。…どうして、断らなかったのですか?何をそこまでして、無理をするのです?」
双葉
「…私を愛してくれるファンを、私は愛したかったから」
双葉は顔を上げて、丸窓から見える水面を眺める。もう間もなく水上へと着くのが分かるように、水面から差す光がキラキラと眩しく輝いていた。
双葉
「私が【パーフェクトモデル】を演じている限り、ファンは私を愛してくれる。それが表面だけの薄いものであっても、私の中の【愛】の乾きが満たされたんだ。私は、それを返せる存在になりたかった。愛し方が分からなかったから」
双葉
「私の全てを愛してくれる【本当の愛】…それはファンを愛し続ける事で、いつか見つかるんだと思って輝き続けた。そして、【パーフェクトモデル】として【希望】になる事によって、私と同じような境遇の人達を助けられるんだと信じて頑張った」
双葉
「もう【パーフェクトモデル】に戻れる力は残ってないから、私はファンを愛する事も愛される事も出来ないと思う。…でも、それで良い。今の私には黒木さんがいるからね」
黒木
「…それが、双葉さんが求めた【愛】なのですね」
双葉
「…ごめんね。せっかくテーマパークに来たのに、暗い話になっちゃって。今の話も適当に流して次の…」
窓の外を見るのを止めて、双葉は黒木の方を振り向くと、彼の表情を見て固まった。
黒木は泣いていた。それも子供のようにしゃくりを上げて歯を強く食いしばって。
双葉
「…黒木さん、泣いてるの?」
彼がこんなにも悲しい顔を見せたのは知り合って以来初めてだ。袖で涙を拭いて震え声で言う。
黒木
「…ッ…あんまりだ……こんな事って......!双葉さんはこんなにも努力をしているのに…どうして…ッ…どうして報われないんだ…ッ!!」
まるで自分の身に起きた不幸のように、彼はとても乱れていた。双葉の幸せを純粋に願う人間だからこそ見せる、沢山の涙に溢れ、悲しみに歪んだ顔である。
双葉
「…貴方のそういうところに、私は惹かれたんだろうな」
双葉は立ち上がり、彼の隣に座って寄り添う。黒木も涙を何度も拭いて体をくっつける。
黒木
「…ッ…双葉さん…俺…貴方の【愛】になれていますか…?」
双葉
「うん。黒木さんの【愛】は、真っ直ぐ私に届いているよ。……ありがとう、私の為に泣いてくれて」
そっと横から抱きしめてくる彼女に、黒木は強く抱き返すのだった。水上に到着してポッドが開くと、号泣する黒木が出てきて迎えて待っていたスタッフは驚くのだった。
………
その後も様々なアトラクションを満喫して、すっかり日も沈んで夜になった。人々は足を止めて空を見上げると、大量の花火が打ち上げられている。パークは間も無く閉園。フィナーレのパレードは始まり、最高のパフォーマンスが見る人々に感動を与える。
黒木と双葉もパレードを満喫していた。高田によるとキャット・シー全体を見渡す事が出来る城【キャッ・ト・スル】の【隠しスポット】に行けば、誰にも邪魔されずにパレードを満喫出来るという。
実際にそこへ向かうと、見晴らしが良い最高の場所にも関わらず、黒木と双葉以外は誰も居なかった。二人は高い場所からパレードを見下ろし楽しみながらも、終わりが近づいて来ているのだと実感していた。夢のような時間は、あっという間に過ぎ去ったのだ。キラキラとネオンで輝く乗り物を儚げに見つめる。
双葉
「もう終わるんだね…面白すぎて、今日があっという間に感じちゃったよ」
黒木
「俺もです。…それなら次は【キャット・ランド】にでも行きますか?」
双葉
「あはは、いいねー。でも、暫くはいいかな。楽しかったけど、ちょっと歩き疲れたし?」
黒木
「それは確かにそうですね……次も全力で楽しめれるよう、しっかり調べておきます」
双葉
「心強いなぁ黒木さんは」
双葉は手摺りに肘を乗せて、パレードを眺め続ける。キャット・シーでの一日が充実出来たのだと、黒木は彼女の微笑ましい横顔を見て伝わった。黒木自身も、久しぶりに訪れたテーマパークの一日に心が踊り、今の今までずっと楽しむ事が出来た。
そして、何かを決心したように一人でに頷き、双葉の方へ体を向けて声を掛ける。
黒木
「双葉さん」
双葉
「…?」
いつに増して真面目で低い声に双葉は反応して、彼女もパレードを見るのを止めて黒木の方へと振り返る。
黒木
「少し、いいですか?」
真面目に聞いてくる彼に、嬉しそうに笑う。
双葉
「黒木さんなら、少しでも沢山でも、何でも大丈夫だよ」
黒木
「ありがとうございます。……覚えてますか?俺が貴方の全てを愛して、双葉さんには俺の愛を受け取ってほしい、って言った事を」
双葉
「忘れるわけないじゃん。あの告白があったから、今こうして私達は付き合っているんでしょ?」
黒木
「そうですね……それって、きっと世間からは告白の言葉なんだろうけど、俺にとっては違います」
双葉
「…?」
黒木はゆっくりと手を差し出し、双葉の両手を握る。
黒木
「俺は、俺が尊敬する人の幸せを、ただ叶えたい。だから、双葉さんの願う形になりたい…あの言葉は、そういう思いを込めて言ったのです」
黒木
「双葉さんの内に秘めてる傷跡……それを聞いた上で、貴方に言いたい事がある」
双葉
「…!」
握っている手を引き寄せ、双葉を正面から抱き締める。突然の大胆な行動に双葉は驚いた。そして、彼女の耳元で彼は囁く。
黒木
「…家族になりましょう。俺は貴方の隣にこれからもずっといたい。貴方が俺の心を照らしてくれたように、今度は俺が貴方の光でありたいんだ。家族として、貴方と共にこの先を歩み続けたい」
双葉
「……黒木さん」
いつも以上に強く抱き締められて驚いていた双葉も、彼に負けないぐらい強く抱き返し、顔を黒木の体へ埋める。
双葉
「…困っちゃうな。これ以上の幸せはないって思ってたのに……貴方は軽々と予想を超えてくるんだもん。…もっともっと、一緒に幸せになろうね。黒木さん」
黒木
「……はい」
双葉
「…こういう時ってどう言うんだっけ…ええと、『二日酔いですが、よろしくお願いします』?」
黒木
「は、ハハ…多分違うと思います…」
空には沢山の花火が上がり続け、何時迄も二人の幸せの絶頂の時を称えるのであった。
後日、つぶグラにてとあるユーザーの投稿が日本中でバズる。
それは、双葉と黒木が待機列にてカップルにファンサをしていた時、カップルの後ろから覗き込んだ人が、双葉だと気付いて盗撮した写真だった。