30、狂態(1)
本当は、今すぐにでもレドに駆け寄りたかった。
駆け寄って、その流血を手当てし、今までについて言葉を費やしたかった。
だが、その前にまずは彼を相手しなければならないようだった。
アザリアが見つめる先に、その人物がいる。
ハルート・スザン。
彼は「奇跡だ」と呟いたかと思えば、手にある血にまみれた長棒をその場に落とした。
腕を広げてくる。
そのまま、アザリアに駆け寄ってくる。
「アザリア! 我が妻よ! もはや何も問うまい! あぁ、本当によく……本当によく戻ってきてくれた!」
ハルートはアザリアを抱きしめようとしているようだった。
以前ならばである。
アザリアは喜んでそれを受け入れていただろう。
だが、今は当然違った。
「……近づかないで下さい」
短く拒絶を告げる。
彼の想定には無かった事態らしい。
ハルートは目に見えてたじろいだ。
「ど、どうしたのだ? 私だぞ? 君の婚約者であるハルート・スザンなのだぞ?」
心当たりなどまるで無いといった様子だった。
自然、アザリアの目つきは鋭くなる。
「……殿下は自らの行いを覚えておられないのですか?」
その疑問の声が、ハルートにようやくの自省を促したらしい。
あっ、と彼は声を上げた。
「……もしやだが、君を捕らえたことについて怒っているのか?」
彼は慌てたように視線を左右にする。
「そ、それは、確かに申し訳ないことをしてしまったが……し、しかしだっ!」
ハルートは、膝を突いているレドを指さした。
その上で、自信満々の笑みをアザリアに向けてくる。
「私は君のことを疑ったことなど無かった! 全てはこの男だ! この男の奸計に、私はまんまと乗せられてしまっただけだ! この男はすぐに処刑する! 今日にもすぐにだ!」
だから、自分は許されるはずであり、アザリアもそれで満足するだろう。
そんな楽観の透けて見える笑みだった。
アザリアは妙に悲しくなった。
こんな醜悪な笑みを浮かべる男に、何故自分は心底惚れてしまっていたのか。
自らの人を見る目の無さが情けなかった。
多少でもそれがあれば、あるいはこんな状況に──レドがこんな目に会わなかったのかも知れないのだが、
(……それも今さらです)
後悔は後だった。
今は自らの不出来が招いた現状のために行動をする時なのだ。
アザリアはハルートを見据える。
自分は何のためにここに来たのか?
それを思って、口を開く。
「……殿下、お願いがございます」
「は、は? お願いだと?」
「はい。ケルロー公爵殿の処刑の件、無かったことにはしていただけないでしょうか?」
へ? と首をかしげるハルートに、アザリアは深々と頭を下げる。
「お願いいたします。代わりに、私が皆さんに説明いたします。この件は、私に疑われるだけの理由があったとして、もちろんハルート殿下に責任は無かったと明言させていただきます。それで、どうか……この件をどうか……」
アザリアは頭を下げ続ける。
これがレドを想っての結論だった。
正直なところ、ハルートへの憎悪の念は確かにあった。
全てを明らかにし、ハルートを断罪することでレドを救うという道もあった。
だが、この国を乱したくないというのがレドの願いだ。
それを考えた上で彼を助けようと思うと、この結論しか思いつかなかった。
自らを悪として、レドはもちろん、ハルートにも責任は無かったものとする。
そして当然だが、この発言は彼にとって意外のものでしか無かったらしい。
自らをアザリアの憎悪の対象であると理解している彼──レドは唖然と呟きを発する。
「せ、聖女殿……? 何故……?」
同時に、唖然としている者はもう1人いた。
ハルートだ。
これもまた当然である。
彼は以前にこの場において、アザリアからレドへの呪いの言葉を耳にしているのだ。
「な、何だ君は!? この男が君を処刑に追いやったのだぞ? 何故かばおうなどとする!?」
当然の疑問の叫びを発する。
ただ、アザリアは当然のものとして受け取ることは難しかった。
真相を知る者からすれば、滑稽以上に殺意すら湧く発言でしかないのだ。
しかし、その点については何も追求するつもりはなかった。
真相を明らかにすることはレドの意思に背くことになる。
黙って頭を下げ続ける。
すると、
「で、殿下っ! それで……それでよろしいかとっ!」
しわがれた叫び声が上がった。
発言の主には見覚えがあった。
白髪をたくわえた老人だが、おそらくはこの国の宰相である人物だ。
上がった声は彼の一つでは終わらなかった。
周囲からも賛同の声が次々に上がる。
きっと様々な意図があってのこの状況だった。
まずあるのは、アザリアさえ帰還すれば、いずれハルートへの批判も収まるという打算だろうか。
その上で、高位の貴族を処刑することへの忌避感があるのかもしれない。
あるいは、レドへの個人的な好意などあるのかも知れなかった。
いずれにせよ良い状況だった。
アザリアは内心でほっと安堵する。
この流れならばハルートもきっと同意してくれるだろう。
そう思って、彼の様子をうかがい……嫌な予感に襲われることになった。
彼はおどおどと周囲をうかがっていた。
予想外と言った様子であり、そして、
「い、嫌だっ!!」
そう声高に叫んだのだった。




