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モモの願い〜黄昏に猫は優しい魔法を使う〜

作者: 花波薫歩

「今度、二丁目のさとしさんの猫になった、モモくんです」

 司会の黒猫がモモをみんなに紹介した。月の綺麗な秋の夜、公園にはたくさんの猫が集まっていた。

「生後六か月、雄。コンビニのゴミ置き場で死にかけていたところを、聡さんに拾っていただきました。外出自由猫がいしゅつじゆうねことして飼われることになったため、今月から当三日月町(みかづきちょう)の猫仲間に加わります。以後、よろしくお願いいたします」

 黒猫の言葉に続いて、モモはぺこりと頭を下げた。新入りはマナーが大事だと、事前に黒猫から指導を受けていた。


 猫仲間の種類は大きく分けて四つ。

 野良のら地域猫ちいきねこ、外出自由猫、完全室内飼い(かんぜんしつないがい)で、このうち野良と地域猫、外出自由猫が月に一度の猫集会に参加する。

 完全室内飼いの猫には必要に応じて係の猫が接触すると、黒猫は説明した。

「詳しいことは、参加しているうちにわかるから」

 猫らしい柔軟さでさっくり話を締めくくる。

 自分の席に戻るよう促され、モモは一番端の躑躅つつじの根元に移動した。

 公園内にはたくさんの席が用意されていて、一定の序列によって座る場所が決まっている。

 どの席からも、滑り台になっている築山つきやまのてっぺんが見えた。

 モモが席に着くと、今度はモモよりひと月ほど年長の小柄な三毛猫が築山に上がった。

「次に、高田たかださんの猫、ハナビの『願い』についてです。ハナビは、『ずっと、お母さんのそばにいる』という願いを叶えたいそうです」

 お母さんとは猫のお母さんではなく、高田さんのことだ。

「捨てられそうなのかい?」

 一匹の猫が聞いた。

 ハナビは大きく首を振った。

「お母さんは、とても私を可愛がってくれます」

「だったら、わざわざみんなの力を借りなくても……」

 ほかの猫が言い、みんなも口々にその通りだと言った。可愛がってもらえているなら、魔法の力など使わなくてもずっとそばにいられるはずだと。

「なんのことか、わかるかい?」

 白いふさふさした毛の猫に声をかけられ、モモは首を左右に振った。

 白い猫はユキと名乗った。かなりのおばあさん猫で、高いところに上るのが億劫で下の席にいるのだと言った。

「ここにいる猫はみんな、魔法の力でそれぞれ一つだけ願いを叶えてもらうんだ」

 魔女の助手をしていた名残で、猫には少しばかり魔力がある。一匹の魔力は微々たるものだが、全員の力を合わせれば小さな魔法が使えるのだと教えてくれた。

 小さい力なので、できることは限られている。自分たちの身の回りのことだけ。世界を変えるほどの力はない。

「それでも魔法は魔法。効き目は確かだ。あんたもいつか聞かれるだろうから、何か考えておくといいよ」

 大人の猫たちの意見を聞いても、ハナビの答えは変わらなかった。

「お母さんは、私に名前を付けてくれたの。茶色と黒の背中の模様が花火みたいだから、ハナビなの」

 ハナビは嬉しそうに言った。

「私、お母さんのそばにいたい。ずっと」

 最後には、本猫ほんにんがいいならいいのではないかということになった。猫は、だいたいそういうものだ。意見は言うけれど、押し付けたりしない。

「モモは、どうしてモモっていうんだい?」

 ユキに聞かれて、白黒の模様が牛みたいだからだと答えた。最初はウシ、次にモーがいいと言われ、だったらモモのほうが可愛いいということで、この名前になった。

「聡と、お母さんとお父さん、それとお姉ちゃん、みんなで考えて付けてくれたんです」

「そう」

 ユキは頷き、「いい名前だね」と言ってくれた。




「あっ、モモが帰ってきた!」

 お母さんの声に、聡が慌てて階段を降りてくる。

「モモ!」

 ぎゅっと抱きしめて「心配したよ」と頬ずりする。モモの喉が自然とゴロゴロ大きな音を立てた。

 学生服に白い毛がたくさんついて、お母さんが「わあ。毛だらけよ」とブラシを差し出す。モモの毛をざっと掃って、聡は急いで玄関を出ていった。

 平日の昼間、聡は学校に行く。この一か月でモモが覚えたこと。

 玄関の戸が閉まるのを見届けて、キッチンに向かう。ニャアと鳴くと、お母さんがお皿にカリカリを入れてくれた。

「どこに行ってたの?」

 夢中で朝ご飯を食べながら「猫集会」と答える。ウミャミャと聞こえたみたいで、お母さんは「そう。美味しいの」と言って、モモの背中を撫でた。

 二階に上がって聡のベッドに飛び乗って、丸めて置いてあったパジャマを両手両足で抱えて、バシバシと猫キックをする。

 初めての猫集会の興奮がようやく収まってきた。

 子猫のうちはあまり心配をかけないほうがいいとユキは言った。クルマは常に危険だし、世の中には猫嫌いの人間もいて、ひどい仕打ちを受けることもあるからと。

 猫嫌いの人間なら、モモも知っている。

「……」

 息が苦しくなって、モモはぎゅっと目を閉じた。

 抱えたパジャマから聡の匂いがした。

(もう、大丈夫なんだ……)

 心の中で呟いて、ゆっくりと身体の力を抜いた。


 翌月の猫集会は夕方から始まった。

 黄昏は魔術の時間。昼と夜の間、逢魔が時に、猫たちはかすかな魔力を結集させて仲間のために魔法を使う。

 ハナビが、ずっと高田さんのそばにいられますように。

 モモも一生懸命、ハナビのために祈った。

 公園を通りかかった人間が、集まった猫の数に驚いて「何事だ」と指をさす。

 訳知り顔をしたほかの人間が「猫集会だよ」と説明していた。




 何度か顔を合わせるうちに、年の近いハナビとモモは友だちになった。

 二匹が一歳を迎えた夏の初め、揃って隣町まで遠出をした。三日ほどの大冒険。

 八十二歳になる高田さんが毎日大きな声でハナビを呼んで探しまわり、頭がおかしくなったのかと周りの人を心配させた。

 ブロック塀の上でくつろぐトラさんに「ハナビを見ませんでしたか」と聞き、「もし見かけたら帰るように言ってください」と、本気で頭を下げた。

 トラさんは三日月町を仕切るボス猫だ。黄色い縞模様がかっこいい。高田さんの言葉を聞いて、猫仲間を通じて、モモとハナビに家に帰るよう伝えてきた。

「飼い猫には飼い猫の義理がある」

 若い二匹に、トラさんは厳しい調子で言った。二匹は慌ててそれぞれの家に帰った。

 家では聡が悲壮な顔をしていた。朝だったのですぐに学校に行ってしまったけれど、後ろ姿を見送ったモモに、お母さんは「大事な模試があったのよ」と少し責めるように言った。

「心配するから、一日一回は帰ってきてね」

 帰宅した聡の膝に「ごめんね」と前足をかけると、聡はモモを抱き上げて、喉や頭をたくさん撫でてくれた。

「心配したよ」

 もう一度「ごめんね」と言って、聡の顔を舐める。

「あはは。ザラザラする」

 聡は笑った。モモも喉を鳴らした。

 聡は、モモを怒らない。

 絶対にぶたない。

 寝ぼけて布団で粗相をしても、遊んでいて花瓶を倒してしまっても、ついうっかり家具で爪を研いでいても、優しく「ダメだよ」と言うだけ。

 家の人にも「モモをぶたないでね」と繰り返し言ってくれる。

 モモが、コンビニでどんな目に遭っていたかを知っているから。




 辛夷こぶしの花が咲いて、モモとハナビは二歳になった。

 高校を卒業した聡は、家から通える距離にある地元の大学に進んだ。

 入学式の朝、桜の花を背景に、お父さんとお母さん、それにモモを抱いた聡を、お姉ちゃんが写真に撮ってくれた。

 紫陽花あじさいが咲き、蛙の合唱を聞きながら雨を眺め、向日葵ひまわりの畑に隠れて遊んでいる間に夏が過ぎてゆく。外がどんなに楽しくても、一日一回、モモとハナビはそれぞれの家に帰った。

 願いを何にするか、モモは何度か黒猫に聞かれた。

 何も思いつかなかった。何もいらないくらい、モモは幸せだった。

「私を拾った時、『もう年だし、最後まで面倒みられるかわからないよ?』って、お母さんは言ったの」

 築山のてっぺんで夕焼けを見ながらハナビが言った。

 汚れてノミだらけの痩せた子猫だったハナビを、お湯で丁寧に洗ってくれながら。

 この人がいてくれる間だけでいい。ハナビは、そう心に決めた。

「その時までそばにいられたら、十分」

 それでも高田さんは、「もしもの時にはお願い」と、隣町に住む息子さんたちにハナビのことを頼んである。

「でも、私はお母さんの猫だもの。お母さんが寂しくないように、最後まで一緒にいるの」




 きらきらと、さらさらと、幸せな日々が過ぎてゆく。

 モモとハナビが六歳になった春、聡は大学を卒業して、電車で一時間半の距離の会社で働き始めた。

 なかなか就職先が決まらないと心配していたお母さんは、やっと肩の荷が下りたと喜んでいた。

「モモ、おいで」

 会社から帰ると、聡はモモの腋に手を入れて、ずっしり重くなった身体を持ち上げる。

「大きくなったなぁ。拾った時は片手で持てるくらいだったのに」

 モモのお腹に顔を埋めて深く息を吸う。

「ああ、癒される……」

 疲れが取れて楽になる。そう言って、今度は大きく息を吐いた。

 いくらでも吸っていいよと、モモは思う。

 聡のためなら、お腹でも肉球でもいくらでも貸す。




 ユキはさらにおばあさん猫になって、集会に来てもよく転寝うたたねをするようになった。

 モモとハナビは公園の北側にあるユキの家に時々遊びに行く。

「私は、冬子ふゆこと四つしか違わない」

 ある日、ユキが言った。

 庭先のウッドデッキで、一緒にひなたぼっこをしている時だった。蒲公英たんぽぽの綿毛がふわふわ飛んでいた。

「あの子が四歳の時に、拾われたから」

 冬に生まれたから冬子。そう名付けられた女の子は、雪の日に拾った子猫をユキと名付けた。

 一人っ子の冬子にとって、ユキは姉妹のような存在だった。

「鮪のお刺身が大好きなのに、我慢して私に分けてくれた。悪いことをして叱られる時も一緒」

 ユキをかばいながら、冬子自身が叱られ方を学んでいた。

 ユキのおかげで、冬子はいい子に育った、ユキがいて本当によかったと、冬子の両親はよくユキに言った。

 可愛くて、いい子。ユキは本当に、いい子。

 一日に何回もそんなふうに言って、冬子はユキを抱きしめた。

「冬子はね、小学校でいじめに遭ってた……」

 ユキのお腹に顔を埋めて、何度も死にたいと口にした。ユキがいるから死なないと泣く冬子が、ユキは心配だった。

「人と猫では寿命が違う。冬子が大人になる前に、あたしはおばあさんになって、先に死ぬ」

 だから、冬子の時間を少しだけ分けてもらったのだと言った。

「ちょうど、今のあんたたちくらいの頃、みんなに頼んで、残りの寿命を倍にしてもらった」

 身体の大きさや寿命の関係で、人間の時間と猫の時間を交換すると、猫の時間はかなり多くなる。冬子にとっての一、二ヶ月がユキの数年に相当した。

 中学生になると、冬子へのいじめはなくなった。

 今ではすっかり大人の女の人になって、やりがいのある仕事と優しい恋人に恵まれて、幸せに生きているという。

「もう心配はいらない」

 ユキは吐息のように呟いて、花曇りの空に似た灰青はいあおの目を細めた。




「ただいま、モモ」

 梅雨が始まる頃から聡の帰りは遅くなり、八月には毎日のように十二時を回るようになった。

 帰宅するとすぐに、モモの匂いを吸い込む。

 それでも疲れが取れないらしく、身体を引き摺るように階段を上がってゆく。着替えてリビングに戻ると、冷めた夜食を一人で食べ始めた。

 エアコンの風をぼんやり浴びている聡の横で、モモは身体を伸ばした。喉を鳴らして頭を擦りつけると、聡の手がモモの喉を撫でる。

 隣の和室で寝ていたお母さんが起きてきて「忙しそうね」と声をかけた。

「まあね」

 笑おうとして失敗し、聡はモモを抱き上げた。

 モモの匂いをゆっくり吸い込み、「大丈夫だよ」と呟いて、今度はちゃんと笑ってみせた。




 元は飼い猫だった黒猫は大人になってから野良になった。毎日お腹が空いていて、だから、ちゃんと食べられるようになりたいと願った。

 今は「さくら耳」の地域猫で、町の人の支援を受けている。暑さや寒さが辛い時もあるけれど、自由気ままな暮らしが気に入っていると言った。

 孤高の野良を貫くトラさんは、三日月町の猫の安全を願った。不幸な最期を迎える猫が、自分の代では一匹も出ないようにと。

 子猫の無事やねぐらの確保、黒猫同様、食べ物に困らないこと。猫たちの願いは様々だった。

 それらは全て例外なく叶えられた。




 玄関でモモがお腹を出しても、聡はぼんやりと靴を脱ぐだけになった。階段を上がる足取りは重く、モモが後をついて行っても、抱き上げることもない。

 スーツのままベッドに倒れて、意識を失うように眠る。

 数時間後には慌てて飛び起きて、朝食も取らずに出ていく。

 シャワーを浴びない日が続き、前の日から着たままのスーツはよれよれで皺だらけで、それでも、「遅れるから」と青い顔をして、擦り減った靴に足を入れた。

「聡……」

 お母さんが心配そうに声をかけても、返事をしない。ふらふらした足取りで、黙って玄関を出ていく。

「モモ……」

 足元に座っていたモモを抱き上げて、お母さんがぎゅっと力を込めた。モモの首に鼻を埋めて、聡の代わりにモモの匂いを吸った。




 コンビニにいた頃、モモはいつもお腹を空かせていた。

 怖いのを我慢してニャアと鳴いて食べ物をねだる。うまくいけばわずかな食料にありつけるけれど、失敗した時はひどい目に遭った。

 一番怖いのはコンビニの店主で、見つかるとモップの柄でひどく叩かれた。ほかに行くところのないモモは、駐車場の隅で身を潜めて暮らすしかなかった。

 何も食べられない日が何日か続いて、店主がいるのがわかっていたのに、店の前に出てしまったことがあった。捕まって、モップの柄で死ぬほど叩かれた。泥水が入った掃除用のシンクに頭まで沈められ、半分死にかけた状態でゴミ置き場に投げ捨てられた。

 ここで死ぬのだと思った。

 寒くてお腹が空いて、悲しかった。

 その時、誰かがモモの身体を抱きあげた。乾いたタオルに包んで、弁当の中の焼鮭を鼻の先に差し出す。モモはそれを夢中で食べた。

 頭に手が伸びてきて、ビクッと身を竦ませると「ごめん」とその手は引っ込んだ。

「怖がらせてごめんね。何もしないよ」

 穏やかな声だった。チラリと目を上げると、アルバイトの男の子がモモを膝にのせていた。竹輪の磯部揚げも差し出され、それも夢中で食べた。次に頭に手を置かれた時、モモはもう怖くなかった。

 それが聡だった。

 廃棄弁当をモモに与えたことを咎められ、聡はコンビニのアルバイトをクビになった。

「前々から思うところがあったし、来年は受験だし、ちょうどよかったんだよ。こっちから辞めたいって言っても、絶対ダメって言うんだから」

 お母さんは呆れていたけれど、「猫、飼っていいよね」と聡が聞くと、「仕方ないわね」と笑った。

 後から帰ってきたお父さんとお姉ちゃんも、「バカだねぇ」と笑いながらも、モモを見て「可愛いね」と撫でてくれた。




 モモは大事にされた。

 これからも大事にされるだろう。

 それが何年間かという長さは重要ではなく、大事にされ、可愛がってもらったことがモモの全てだ。

 それだけで十分だった。




 モモの願いを聞くと、黒猫は難しい顔をした。

「そんなことしても、人間にはわからないし、感謝もされないよ?」

 それでいいとモモは答えた。聡は何も知らなくていい。モモがそうしたいからするだけなのだ。

 初めて会った頃、黒猫は今のモモより少し若いくらいだった。今はすっかりおじいさん猫になっている。

「君とどっちが、長生きするかな」

「いい勝負だと思うよ。僕は生きてもあと二、三年だし、その願いを叶えたら、モモはたぶん、十歳までは生きられない……」

 黒猫は視線を落とした。

「そろそろ後継の黒猫を探さなくちゃ」

 猫集会の司会は代々黒猫と決まっている。




「僕の時間を聡にあげたい」

 聡が眠っている間に、毎日数時間。

 それが、モモの願いだった。ユキの願いとちょうど逆。残りの寿命の半分を聡の時間に替えてほしいと頼んだのだ。

 年の瀬の夕暮れ時、遠くからクリスマスソングが聞こえていた。

 昼と夜の間の時間に、三日月町の猫たちはモモのために魔法の集会を開いた。

「本当にいいの?」

「うん」

 ハナビは寂しそうだった。

「ほんの少し時間が短くなるだけだよ。虹の橋を渡るのも、まだ何年か先だし」

 それまで仲良しでいてねと言うと、ハナビは諦めたように頷いた。




 春。モモは七歳になった。

 短い梅雨が過ぎて、雲の向こうに夏の気配を感じた朝、家に戻ると、聡がお母さんと一緒に朝ご飯を食べていた。

「会社、辞めようと思う」

 お母さんは黙って耳を傾けている。

「なんだかおかしいって、ずっと思ってたのに、ゆっくり考える余裕がなくて決められなかった。でも……」

 最近、よく眠れるみたいで、と聡が続ける。睡眠時間は変わらないはずなのに、目が覚めた時スッキリしている。

 今朝起きて、冷静に今日の業務を考えて、まともにやって終わるはずがないのだと気が付いた。

「ブラックだったみたい」

「うん」

「辞めてもいい?」

「もちろんよ」

 ずっと心配していた、とお母さんは言った。

「ちゃんと考える余裕があるうちに、自分で気がついてくれてよかった」




 その年の秋、高田さんが入院した。

 廊下の段差に躓いて転び、右の足を骨折したのだ。八十八歳になる高田さんはもう歩けない。退院しても、一人で生活するのは難しくなった。

 彼岸花ひがんばなが咲く土手の草むらで、ハナビが言った。

「お母さん、施設に行くの」

 息子さんたちが集まって、難しい顔で話し合って、そう決めたのだと言った。

 その日は猫集会だった。

 夜の公園に、久しぶりにユキが姿を現した。すっかり痩せて歩くのも大儀そうだったけれど、ハナビを心配して出てきたのだ。

「大丈夫」

 不安そうなハナビをユキは優しく励ました。

「魔法は魔法。ちゃんと叶う。安心して待っていたらいいよ」




 その数日後、ハナビは高田さんと一緒に海辺の町に行くことが決まった。

 どうしてもハナビを連れていきたいと望む高田さんのために、ペットと一緒に暮らせる施設を息子さんたちが探してくれたのだった。

 ユキの家の白い柵の隙間を潜って、モモとハナビは庭に入った。ウッドデッキには毛布の敷かれた籐の籠が置いてあった。

 ガラスの引き戸が開いて若い女の人が姿を現す。

「ユキ、寒くない?」

 籠の中でユキは眠っていた。

「ユキ……」

 冬子さんは身をかがめ、ユキの背中をゆっくり撫でる。

「いい子ね。ユキは可愛くて、いい子。本当に、いい子」

 いい子ね。いい子。

 繰り返し、冬子さんはユキを撫でていた。

「ユキ……。ユキが私の猫でいてくれて、私がどんなに幸せだったかわかる?」

 モモとハナビはそっと庭を離れた。

 冬子さんはユキを撫で続ける。

「ありがとね、ユキ……。ずっと、そばにいてくれて、ありがとう」




 引っ越しの朝、モモはハナビの家まで見送りに行った。

「モモ、元気でね。なるべくいっぱい生きてね」

「うん。ハナビも」

「モモのこと、忘れない」

「僕も」

 茶色と黒の模様が花火みたいだから、ハナビ。お母さんが付けてくれたのと、ハナビは嬉しそうに言っていた。

「夏の夜空に花火を見たら、きっとハナビを思い出すよ」




「ほら、モモ。花火だよ。見てごらん」

 モモは聡の腕の中で、何度目かの花火を見ていた。

「モモ、甘えっ子だね」

「ベランダの手すりにジャンプできないんだよ。なんだかおじいさんになったよね」

「何歳だっけ」

 十歳かな、と聡が言う。

「コンビニでバイトしてたのが、高二の時だから」

「ああ、そうだった。それで聡は、コンビニをクビになったんだった」

 ビールを片手にお姉ちゃんが笑う。お父さんが「あの頃のモモは可愛かったなぁ」と言うと「今も可愛いよね」とお母さんが笑った。

「おじいさんになっても、モモは可愛いよ」

 聡はモモを優しく撫でた。

 猫が使う小さな魔法を人間たちは知らない。

 知らなくていいのだ。猫たちが勝手に決めたことだから。そうしたいから、そうするだけ。

 ニャアと鳴くと、聡はモモの耳に鼻をつける。

「うん。何?」

 大好きだよ、聡。

 聡の猫で、モモはどれほど幸せだっただろう。

「いい子だね。モモは、本当にいい子」

 大事にされ、可愛がってもらった。

 それが、モモの全て。

 それで十分。


                                                              了




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― 新着の感想 ―
[一言] 号泣です。 ・・・すてきなお話をありがとうございます。
[一言] やさしくて、素敵なお話でした。 ねこと人の寿命は違うけれど、 一緒にいる、家族になるということは かけがえのない事なんだな と、改めて思いました。
[良い点] 猫も人も相手を思う優しさが互いを幸福にし、その幸せが更に幸せをつくっている [一言] 途中からティッシュを手放せなくなり最後は号泣です どの猫も愛しくひとつひとつ全てのエピソードが心に沁み…
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