譚15 潜入
● 譚15 潜入
ラドル・ムーは、この、クリストフ辺境伯領私設兵団に入隊した事を、恐れるようになっていた。
レジスタンスの拠点への、潜入工作を言い渡されたあの時、あの優しかった領主様が、あれ程までに醜くく、怒りを露わにした姿は、まさに人の皮を被った悪魔に映った。
「なぁ、君。あの小娘、なんて言ったと思う? この私に対してなんて言ったと思う?」
ねめつける様な陰湿な声で語る領主様。今すぐにでも耳を塞ぎ逃げ出したい。
「舐めさせる靴は無いと言ったのだ! このクリストフ辺境伯の私に向かって、舐めさせる靴は無いと言ったのだ! 何たる侮辱っ!」
領主様はワナワナと震えた後、しばし暴れたが、突然動きを止めると、まるで魂が入れ替わったかのように、冷静な態度に戻る。
「いいかね、君。あの小娘は絶対、生きたままここへ連れて来るんだ。四肢はもいでも構わんが、殺して連れて来る事は絶対に許さん。この私を侮辱したのだ。産まれて来た事を後悔させながら、私自身の手によって殺してやらねば気が済まん。分かったな」
冷たい眼で見下された。
恐ろしかった。魂が凍り付くかと思った。生きているのが不思議に思え、失禁しなかったのが奇跡だと思った。
きっと、粗相をすれば、その場で殺されると、魂が理解していたので耐えたのだと思う。
ラドルは無言で何度も頷く事で、恭順の意を表した。
退室の後、兵団長より告げられた潜入要項に従い実行して行く。
ラスタニア王国軍支給の軍服に袖を通し、脱走兵を装って、レジスタンスの砦へと近付く。
打合せ通りに警備兵に追われながら、馬では通れない低い崖を飛び降り、いかにも撒いたかのように見せかけ身を潜める。
レジスタンス達はきっとどこかで見ているはず。
兵士が立ち去った後、彼らが接触してくればそれで良い。もし接触して来なければ、自ら砦に近付き、偶然発見したかのように装って、内部に潜入せよとの事だった。
簡単に言ってくれる。
ラドルは本気でそう思っていた。
迫真の演技を見せる為に、馬は途中で降り、長時間全力で山の中を駆け回った。それだけでもかなり辛いのに、追跡役の兵士は弓矢まで当てに来やがった。
本当に打合せ通りだったのかと疑いたくなる。
崖を飛び降りる際に放たれた矢は、無理な体制になってでも避けなければ、完全に矢が胸に刺さって大怪我するところだった。
しかもその所為で、着地の時に足を踏み外し、右足を捻ってしまったのだから。
あのやろう、絶対許さねぇ。この任務が終わったら絶対酒の一杯でも奢らせてやる。
崖下でしゃがみながら、痛めた足をラドルは確認していく。痛みはあるが、歩けない訳ではない。任務を続行することはできるだろう。
そう思って顔を上げると、目の前に大きな獣の姿が現れた。
農耕用の牛くらいの大きさがある立派なトゲ猪。あの、首から背中にかけてのトゲには猛毒があり、刺されば即座にあの世行きとなる。
(うそ……だろ?)
背中に冷たい汗が流れる。
脱走兵を装う為に、武器は何一つ持ってはいない。逃げるにしてもこのケガでは走れない。虎の子を使うか? いや、ダメだ、そんな事に使って任務を失敗したら、殺されるだけじゃすまない。
どうする? どうするどうするどうするどうするどうする!?
その時、頭上から、突然黒い影が降って来た。
その影は、自分の目の前を塞ぐと、飛び掛かって来たトゲ猪を殴りつけた。とたん力の方向を無視して真横に吹き飛ぶトゲ猪。数メートル先の木の幹にぶつかって、何度か痙攣した後、ぐったりとして動かなくなった。
突然の出来事に呆然としていると、
「君、大丈夫か?」
涼やかな声が語りかけて来る。
見上げると、目の前に女が居た。トゲ猪を殴り飛ばしたとは思えないほどの華奢な女。
しかも、信じられないくらい整った顔立ちの女。
ラドルは思った。
まるで神様の人形。きっと、国一番の人形師でも作れないほどの芸術品――。
「立てるかい?」
そう言って女は手を差し伸べて来る。
しかしラドルは、その手に触れるのが畏れ多く感じられ、躊躇した。
戸惑っていると仲間が駆けつけて来たのか、男が三人寄って来る。
すると、その中の一人が突然怒鳴り出した。
「トゲ猪を素手で殴るなって言ってんだろうが!」
この時になってようやく気が付いた。この女こそが、あの『岩投げ』なのだと。
岩投げと男が口論を繰り広げる中、ラドルは思考を巡らせる。
いま、この女を捕らえて連れ帰れば、自分の任務は達成される。その為に虎の子として魔導具も持たされている。どうする、今やるか?
だが、少し冷静になって考えれば、無茶な選択だと自ら気付く。
いやダメだ。この場を制する事は出来るだろうが、馬も無しに連れ帰るのは不可能だ。レジスタンスのアジトが近くにあるはずだから、たとえ馬が有ったとしても逃げきれないだろう。やはり兵団長の計画通り、襲撃の隙を突いて実行する方が得策だ。
この後、ラドルは直ぐに足の治療を施され、アジトへと案内された。
治療の際、こんな程度の軽い怪我で、高価な魔導具を使った事に驚いていると、どうやら仲間の一人に腕の立つ魔導具職人がいるらしく、ディックと名乗る男から「いっぱいあるから気にすんな」と言われた。
触媒となる原料もテラジウム鉱山を襲撃した際に、いっぱいくすねて来たらしい。何だか驚いて損をした気分になる。
アジトについた時も、あまりもの簡素な身体検査に拍子抜けした。
こっちから「ズボンのポケットは見ないで良いんですか?」と、思わず口にしたほどだ。
こんな事なら、無理に虎の子を隠す必要もなかった。ポケットに入れて持っていても気付かれないと断言できる。
本当にここはレジスタンスの本拠地なのだろうか? と、ラドルは疑いたくなった。
あまりにも緊張感がなさすぎて、神経をすり減らす思いをしてまで内偵をしている自分が、バカに思えてくるほどだった。
村の広場には、遊んで走っている子供はいるし、井戸端会議に花を咲かせている女もいる。
平和そのもの。
もしここに妻を連れて来たならば、喜んで、あの輪の中に溶け込んでいるだろう。
しかし、ラドルはその妄想を途中で止めた。
あの見下された時の領主様の眼を思い出し、引き返せないと思った。
きっと、領主様の執念からは逃げられない。この場所も、もうすぐ襲撃され消えてしまうのだ。
ラドルはそう思うと、兵団長に言われた通り、内部を調べて回った。建物の位置や門の数。あと、配備されている見張りの兵の数。
それらを手紙に書いて、靴の踵に仕込んでいた魔導虫に取り付けて飛ばす。
魔導虫には兵団長と自分の匂いを覚えさせてあるので、兵団長が襲撃時刻を決めたなら、自分の手元に戻ってくるはずだ。
――そして
兵団長からの返事が、夜も更けた頃に届いた。
月の灯りの中で読むと、
明朝、日の出と共に襲撃す
と、書かれていた




