40.アパート103号室②(怖さレベル:★★☆)
「なっ……にこれ」
てっきり真っ黒で珈琲かと思えば、
それは今まで口にしたこともないような、
エグみと、甘苦さのある、得体の知れないものでした。
「…………」
私は傍らにあったティッシュで口元を拭い去り、
さらにひどくなった頭痛に深いため息をつきました。
「お待たせー」
「……あれ、彼氏は?」
彼女はお盆を手にして、一人で戻ってきました。
「うん、準備してすぐ来るって。あ、これ、もしよかったら」
コトン、とテーブルの上に移されたそれは、
まるで見たことのない、よどんだ茶色の塊です。
チョコレート、でもない。
かといって、大福やまんじゅうでもない。
ギュッとその場に固められているそれは、
妙につぶつぶと突起がついていて、
とても食欲をそそる形状ではありません。
「こ、これ……なに?」
「え? 見たことない?
これ、カエルの肉と卵を、豚ひき肉とあえてるんだー」
と、彼女はニコニコと皿の上のモノを自慢げに説明しました。
小皿に取り分けられ、
ソースだか醤油だかをかけられたそれは、
妙につやつやと光を反射しています。
「え、いや……じ、冗談だよね? た、食べるの?」
私は友人に気をつかうことも忘れ、
かなり引き気味で尋ねました。
「食べるの、って……食べるよ!
のんちゃん、食べたことないのにそういうこと言うんだから~……
食わず嫌いは良くないよ?」
と、苦笑いの表情を浮かべ、
コトリと今度は透明なグラスを横に置きました。
「まあ、飲み物でも飲んで落ち着きなよ。
せっかく忙しい中会ってるんだし、さ」
さきほど一口だけ口をつけたあの黒い液体を取り上げ、
なにやら冷やされたピッチャーからコポコポと赤い液体がグラスに注がれました。
パッと見は赤ワイン。
ですが、直感がこれはただの飲み物ではないと告げていました。
「あ、わ、私……車で来てるから」
「ああ、そうだったの? 残念~……
これ、彼オススメのなんだけどなぁ」
「ん、水持ってきてるから平気だよ、あはは……」
今日、この時ほど、
ミネラルウォーターのボトルを持ち歩いていて
良かったと思った日はありません。
「か、彼氏さん、こういう食事が好きなんだ」
「うん。大好きみたいで。
一緒にご飯食べてたら、こんなに痩せちゃってさぁ」
ケラケラと笑みをこぼす彼女は、
それがどれだけ異常なことか理解していないようでした。
「会社の奴らも、太ってるときはさんざんバカにしてたクセに、
痩せた途端にもっと食えとか、病院行け、とか言うんだよ。
よっぽど気に食わないんだろうねー」
と、ぷんすかと怒りすらも露わにする友人に、
私はかける言葉もなく、あいまいに相槌を打ちました。
「でも……実際、すっごい痩せたでしょ?
その……健康診断とかでなんか言われなかった?」
「もーっ、のんちゃんもそういうこと言うの?」
「あ、いやいや、心配でさ……ほら、ダイエットってけっこう身体に負担かかるっていうじゃない」
警戒心を抱かれないよう、
慎重に言葉を選べば、
彼女も多少感じることはあったのか、
うーんと一瞬腕を組みました。
「んー……たしかに、ちょっと異常な痩せ方とは言われてるけど……」
「うん……だって私、最初見たときビックリしたもん」
「でもね、彼氏が、今のままがすっごくかわいいって言ってくれるの!
だから、あんまり食べれなくてもいいんだぁ」
と、両手を頬に当てて、
ふわふわと少女のように頬を染め上げました。
「へ、へえ……」
一体どんな彼氏なのか、
と私の不安は増す一方です。
変な男に捕まって、
彼女の尽くす性格を利用して
ヒモのように暮らしているのでは、
なんて疑いすら湧いてきます。
「その彼氏……ダイスケさんだっけ? 同棲してるっていってたけど、どんな仕事してるの?」
「うーん、何してるんだろ?
在宅でなんか仕事してるみたい」
「え……し、知らない?」
同棲して、おそらくは結婚も考えている相手の
仕事を知らないとは大丈夫なのか?
と、訝しがっている私を置きざりに、
彼女は爽やかに言い切りました。
「んー。だって別にどうでもいいし」
もはや淡白さすら感じる口調で話す彼女に、
私は恐怖にも似た不安を覚えました。
「ま、まさか無職、ってことは……」
「さあ? もう、のんちゃんってばダイスケのこと聞きすぎ!
旦那さんに怒られるよー?」
と、茶化しめいた台詞まで言われる始末です。
「あはは、ち、違うよ。ユキの相手だから気になったってだけだって……
ちなみに、ドコで会ったの? 職場恋愛?」
「それがねぇ、このアパートに引っ越してきて出会ったんだ~」
「え? 同じアパートの住人、ってこと?」
ならば、わざわざ同棲せずとも、
家の行き来は楽だろうに、なんて考えていると、
彼女は笑顔のまま首を横に振りました。
「ううん、違うよ! 彼はもともとここにいたんだから」
「……ん? ごめん、なんて?」
意味が理解できず、私は相変わらず鼓膜を刺激する
耳鳴りに頭を押さえつつ、聞き返しました。
「だからぁ、元々ここにいたんだって」
「えっと……ここ、いたって……どういうこと?」
聞き返しても意味不明な内容に、私は混乱しました。
つまり管理人ということ? という考えもよぎりましたが、
彼女の口ぶりでは、そういうのともニュアンスが違うように感じられます。
「もお、のんちゃんったら。つまり、彼はこの部屋にずーっと、
えっと、確か五年くらい前から、って言ったかな? 住んでるんだって」
「……は?」
「なんか、前の人たちは気に入らなくって追い出したらしいんだけど、
私のことは気にいってくれたんだぁ」
ようやく、彼女が何を言っているか把握しました。
しかし、それを理解できるかというと、それはまた別問題で。
「えっと、私の認識が間違ってたら悪いんだけど……
その人、幽霊とか……そういうモノ、ってこと?」
「幽霊っていうと聞こえが悪いけど……精霊みたいなもんだよ、うん」
震えながら尋ねた一言は、あまりに
あっさりと肯定されました。
私は、あまりに現実離れしたその回答に、
頭痛と耳鳴りに加え、目眩までしてくる始末です。
「ほ……本気?」
「いっしょに暮らしてるって言ってるじゃん。本気も本気だよ」
と話す彼女は、痩せこけた頬骨や眼窩による陰影で、
壮絶なほど、不吉な気配を漂わせています。
「……ユキ!」
私は思わず立ち上がり、
両手でがっしりと彼女の細くなった肩を掴みました。
「ねぇ、おかしいよ! こんな不潔な場所に住んでるから、
ユキ、疲れちゃってるんだよ! ねえ、うちに来ていいから、
ちょっとここ離れよう?」
と、全力で彼女を説得にかかります。
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