161.友だちの傷心旅行②(怖さレベル:★★★)
……トン……トン……
(……ん?)
物音に気づいて、おれはふと、薄目を開けました。
窓から差し込む光はなく、まだ真っ暗。
いったい、今は何時だろう。
時計を見ようとして――視界に入ったモノに、俺はヒュッと息を飲みました。
……トン……トン……
男がひとり、おれたちに背を向ける形で立っています。
――誰だ。
幽霊か、侵入者か。
上がりそうになる悲鳴を喉の奥で殺しつつ、俺はそっと男を見つめました。
ぼんやりと差し込む月明かりだけを頼りに、
男をしばらく見つめ続け――あっ、と気づいて、俺は体の力が抜けました。
(なんだよ……っ、ナオヤじゃん)
見知った後ろ姿に一瞬ホッとしたものの、
あれ? と違和感を覚えました。
(……こんな夜中に、なにしてんだアイツ……)
布団から出てなにを? と、ナオヤが眠っている布団を見ると、
そこは空っぽ――ではなく、ちゃんと寝ているナオヤがいました。
(え? ……え?)
俺は混乱して、目の前と横を何度も見比べました。
押し入れの前に立っているナオヤと、寝ているナオヤがいる。
――同じ人物が、二人?
戸惑う俺の目の前で、ナオヤの姿をしたなにかは、
その右手を上げて、
……トン……トン……
と、押し入れの戸を叩いています。
こっちに背を向けたまま、くり返し、なんども執拗に。
いや、待て。あれは、本当にナオヤなのか?
おれは隣で眠っているナオヤを起こそうと手を伸ばし――
今、体がまったく動かせないことに気づきました。
(か……金縛り……!?)
動かせるのは、首から上だけ。
俺はギギギ、とロボットのような動きで、
反対側に眠っている高木の方へと視線を向けました。
(……あれ、高木……!?)
布団の中はからっぽ、誰もいません。
(え……アイツ、どこに……!?)
混乱しつつ、もう一度押し入れを叩き続けているナオヤに目を向けると、
(……あれ?)
パチパチ、と俺は何度もまばたきしました。
さっきまで、ナオヤと思っていた後ろ姿。
今度はそれが――高木の姿に見えてきたんです。
月明かりもうっすらで、三人とも浴衣姿。
こっちから見えるのは後ろ姿で、顔も見えなかったのに。
(そうだ……お札! あの話をしてたのが、ナオヤだったから……)
彼女といっしょにお札を剥がした。そう言っていたナオヤ。
こんなド深夜に、お札が貼ってある押し入れの前に立つ男。
それはきっと、罰当たりなことをやったナオヤだ、と思い込んでいたから――?
……トン……トン……
目の前の男――高木は、相変わらず、延々と押し入れをノックし続けています。
そういえば、お札を剥がそうなんて言って、札に手をのばしていたのは高木でした。
(コイツ……憑りつかれてるとかそういう……!?)
俺は動かない体にグググッと力を入れて、
なんとか声をかけられないかを試しました。
しかし、わずかに口は開くものの、言葉にはなりません。
いっそ、見なかったことにして寝てしまうか?
いやでも、このまま放っておいて、高木になにかあったら。
どうしようもできない葛藤で、
グルグルと俺が考え込んでいる、と。
「……い……い……」
ぼそぼそと、呟くような声が聞こえてきました。
(これ……高木の声か……?)
三人しかいない、部屋の中。
声を発しているとすれば、起きている高木か。
しかし、
「……い……たい……」
ぼそぼそと囁くような声は、
俺たち男では決して出せない、女性特有の甲高さがありました。
しかも、それは――あの、押し入れの方から聞こえてきたんです。
「……た……い……」
声はくぐもっていて、ハッキリと聞こえません。
でも、間違いない。女性の声でした。
俺が急な展開にビビッていると、背を向けたままの高木が、
トン、トン、と一定の間隔で叩いていた手の動きを、不意に止めました。
シン、と静まり返る部屋の中。
女性の声が、よりハッキリと聞こえてきました。
「……た、い……で、たい……出たい……」
くりかえされていたのは「出たい」という声。
でも、出たいのはいったいどこから?
それは勿論――押し入れの中、から?
ぶわっ、と全身に冷たい汗が浮かびました。
あんな小さい押し入れに、人が入れるわけがない。
そもそも、宿の押し入れの中に、生きている人間が潜んでいるわけがない。
となれば、この声は――間違いなく、なにか恐ろしいものの、声。
喉がカラカラに乾いて、かろうじて動く首を動かして、
ジッと押し入れを凝視しました。
見たくない。見ない方がきっといい。
でも、もし。見ていないうちに、なにかが起きたら?
不意に、カタン、と押し入れの扉が震えました。
誰も、高木の手すら触れていない、その扉。
それなのに、カタカタと戸が震えて――スゥッ、と開きました。
(ひっ……!?)
悲鳴は喉の奥でつぶれ、声にすらなりません。
ほんの少し、指一本分くらい開いたふすま。
まっ暗で、光の届かないスキマから、
ヒュッ、となにかが動きました。
――指が。白い、指が。
生白い爪が、差し込む月光に照らされて、
押し入れの戸を押すように突き出されました。
いる。
誰かがあの中に、いる。
冷や汗が額から吹き出し、まぶたの横を流れていきます。
ズズッ
白い指が、押し入れを引き開けていきます。
生白い手の、手首が見え、ひじが見えて、
白い服に包まれた、肩までが出てきました。
もう、出てきてしまう。
押し入れの中から、誰かが。
(やめろ……なんで止めないんだよ、高木……!!)
俺は八つ当たりのような気持ちで、
立ち尽くす高木をジッと睨みつけました。
しかし、直後。
見つめる俺の目の前で、
高木がゆっくりとこちらを振り返ったんです。
(え……?)
ゾゾッと全身に悪寒が走りました。
振り返った高木の顔は、ぼんやりとした月明かりの下で、まるで能面のように真っ白だったんです。
その、すべての感情をそぎ落としたかのごとく無の顔をした口がパカリと開かれ、
「おまえは、邪魔」
押し入れから聞こえていた女性とは違う、
けれどどこまでも冷たく低い男の声が、部屋に響きました。
そして、その直後。
押し入れの中から、黒い頭が、ズズッ、と突き出してきたんです。
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