148.母化け③(怖さレベル:★★★)
「来た」という気持ちと「怖い」という気持ちがブワッと毛を逆立てたものの、
勝ったのは「気になる」という、好奇心でした。
僕は再びスマホを取り出し、カメラモードに切り替えつつ、
バッ、と思い切り返りました。
そして、
パシャッ
(……撮れた!!)
液晶画面には、田んぼに中腰でしゃがみこむ女性の姿がバッチリと映りこみました。
少しうす暗いし、震える手のせいでブレてはいるものの、間違えようがありません。
画面の女性は透けておらず、ハッキリと横顔が見えました。
泥に汚れ、苗をつかもうとしている、その動きまでしっかりと。
(よし、これでいい……ん?)
びしゃっ……びしゃっ……
田んぼの泥をかき分けながら稲を引きちぎり、
次々に口に放り込んでいる、その女。
うつむいているその横顔に、僕はふと、既視感のようなものを覚えました。
(なんだろう……? 昨日は気にならなかったのに……)
女がこっちを見ないのをいいことに、
僕は懐中電灯を持ったまま、ゆっくりとにじり寄りました。
ぼんやりした月明かりと懐中電灯の明かりが、彼女の姿を照らします。
泥で汚れた女の顔はひどくわかりにくいものの、
距離にして一メートルほど近づいたところで、ようやくハッと気づきました。
「……ウソだろ」
懐中電灯を落としそうになり、慌てて両手でつかみます。
その拍子に、女の顔にバッチリとライトが当たりました。
見覚えのある、いや、あり過ぎるその顔。
ドロドロに汚れ、口から苗を突き出した、その人は。
「か……母さん……!?」
自宅に。
ここではない、僕たちの暮らす家にいるはずの、僕の母。
どう見ても母以外ありえない顔の女が、そこには立っていました。
他人の空似でも、瓜二つの別人でもありません。
まさに、母そのもの。それが、泥だらけの衣類を身に着けて、立っていたのです。
僕は、相手が奇怪な行動をしていることも忘れ、
慌ててすぐそばに近づきました。
「母さん!! なにしてるんだよ、こんなところで!!」
「…………」
しかし、母はもしゃもしゃと稲を口に含むだけで、
僕の言葉にはいっさい反応を返しません。
声はいっさい、聞こえていないかのようです。
僕は焦れて、次の稲にのびた腕を、ガシッと掴みました。
「……やめろよ!! そんなもの食べるなんて……っ、うっ!!」
と、僕は思わず、掴んだ手を離しました。
だって、母の腕は、おどろくほど冷たかったんです。
初夏の、蒸し暑い外にずっと居たにしては、異様なほどに。
僕は一歩、その場から後ずさりました。
おかしい。なにかがおかしい。
いや、全部。なにもかもが、おかしい。
僕がじりじりと後ずさると、今までまったく反応を返さなかった母が、
不意に顔を上げ、こちらの顔を見上げました。
その顔は、完全なる無表情です。
(どうしたんだろう……正気に戻ったのか……?)
今までいっさいリアクションのなかった母がこちらを見たことで、
僕は少しだけ、希望を抱いたときでした。
「……か……?」
「え、なに?」
ボソボソッ、と彼女の口から声が発せられました。
口の端からぽろっと稲が水に落ち、ぴしゃ、と小さな音がします。
「……なって……れるか……?」
「なに? 聞こえないよ」
カエルの声にかき消されるほど小さな声に、
僕は一度とった距離を再び縮め、彼女の口に耳を近づけました。
「……息子に……なってくれるか……?」
「え?」
――息子になってくれるか。
僕は意味がわからず、脳内にはてなマークが浮かびました。
「……なに言ってるの? 僕はもともと、母さんの息子じゃないか」
まさか、そんなこともわからなくなってしまったんだろうか。
呆然と母を見ると、彼女は目をギラギラさせてこちらを見つめ、言いました。
「じゃあ……ワシの、息子になってくれるんだな……?」
そう言って、泥で汚れた顔をくしゃっとゆがめました。
(……母さん?)
おかしい。最初から抱いていた違和感が、どんどん疑念に変わっていきます。
うちの母は、自分のことを『ワシ』なんて呼びません。
そもそも、口調だってこんなにぶっきらぼうじゃありません。
僕は、なんだかゾワゾワと背筋が寒くなってきて、
ゴクリと唾を飲み込みました。
「な、なにを言って……母さんは、母さんだろ……?」
「……母は、母だ……息子は、息子だなぁ……」
母は、ふだんとはまったく違う口調でボソボソっというと、
泥で汚れた手を持ち上げ、こちらへ向けて伸ばしました。
「……息子に、なってくれるか……?」
なにを言っているんだ。
もう、息子じゃないか。
一度は言ったその言葉が、喉に張り付いてはがれません。
母の顔なのに、動きが、しゃべり方が、表情尾が、まったく別人そのもので。
でも、母なんです。彼女は、母そのものなんです。
僕の頭の中で、グルグルと思考が渦を巻き始めました。
この問いかけに「イエス」と言ったらどうなるのか?
でも、断ったら。母なのに、母が。
「……息子に、なってくれないのか……?」
「え、あ……」
「……息子に、なってくれるんだろう……?」
「……う、あ」
まるで袋小路のような問答に、
僕が沸騰しそうなほど悩んでいる、と。
「……なにをしてる!!」
パッ、と顔面に明かりを当てられ、
僕は驚いて、その場でしりもちをつきました。
「うっ、痛ッ……!!」
「おお……お前か!!」
田んぼのあぜ道の上に転がった僕に、
聞き覚えのある声が近づいてきました。
「あ……じいちゃん!!」
顔を上げた視線の先には、けわしい顔をした祖父が立っていました。
手には懐中電灯と、クワ。そして、白いタンクトップに、ステテコ。
なんとも、田舎っぽい恰好です。
その武装の仕方に気が抜けて、はは、と笑ってしまいました。
と、ホッとしたのと同時に、僕は慌てて後ろを振り返ったんです。
「……いない?」
母の顔をした、母そのものの女性。
泥で汚れた女の姿は、今の、たった一瞬のうちに、消え去ってしまっていたんです。
(じゃあ……今のは、幽霊……!?)
なぜ、母が。
まさか、母の身になにかあったんじゃ。
それとも、今のは幻覚??
恐怖と混乱で動けずにいると、
祖父が僕の異変に気付き、声をかけてきました。
「こんな夜中に、ウロウロとなにをして……うっ、お前、それ」
「え……?」
と、あぜ道でしりもちをついた僕を起こそうとしてくれた祖父が、
顔をしかめて、僕の口に触れました。
「その口……お前、なんで稲なんか食ってるんだ」
「……え? なに言っ……う、苦ッ!!」
意味のわからない指摘に首をかしげた瞬間、
舌の上にやってきた青臭さに、僕はゲエゲエとその場で胃の中のものを吐き出しました。
ゲホゲホとせき込むたびに出てくるのは、
植えられたばかりの、青々とした苗ばかり。
いつの間に。いや、どうして。
「そんな……稲に、触れてもいなかったはずなのに……っ」
涙目になりつつ、ごしごしと口元をぬぐうと、
手にドロッとした気色の悪い感覚がありました。
ハッとして腕をライトで照らすと、
そこには、濡れた泥がべちゃりとへばりついていたんです。
慌てて両手で顔に触れると、感じるのはドロドロとした感触。
指先には、べちょっと泥がくっついていました。
(ウソだろ……!? だって、だって僕は、ただ見ていただけで……!!)
ついさっきまで、母と。
母に似たなにかと話をして、それで。
混乱してさらに吐き気を催す僕の前で、
祖父はグッと顔をしかめ、腕を引きました。
「とにかく、うちに帰るぞ」
「え……あ……うん……」
祖父の強い口調に、僕はただ頷く他ありません。
半ば呆然自失状態のまま、家に帰ることになったのです。
家に戻り、待っていた祖母に、速攻風呂につれていかれました。
泥と稲は、お湯で流せばキレイに取れたたし、
口の中の妙な青臭さも、入念な歯磨きですっかり消えてなくなりました。
ただ、心残りというか、不思議なのは、あの消えた母――
いえ、母の姿を模したなにか、です。
その段階になって、ようやく僕は冷静に『アレは母でなかった』ことを理解しました。
あの田んぼにいたときには、あのなにかが母であると、信じ込んでいたんです。
まるで、強制的に思いこまされてでもいたかのように。
その異常さに、僕は改めて恐怖を感じました。
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