46.死んだ弟の部屋(怖さレベル:★☆☆)
(怖さレベル:★☆☆:微ホラー・ほんのり程度)
うちの弟は、ある日、
仕事から帰ってきて、翌日、遺体で発見されました。
いえ、事件というわけではないんです。
死因は、急性心筋梗塞。
弟は酒も飲まず、たばこもたしなまず、原因となるような持病もありません。
確かに、運動不足気味ではあったけれど、
体重だって標準を大きく外れるようなこともなく、
二か月前に受けた健康診断でも、所見なしという結果でした。
私も両親も、早すぎる弟の死に現状を理解することができず、
葬式が済んでからも呆然と日々を過ごしていました。
食事すらとることを忘れ、家族の間での会話はなくなり、
当然ながら弟の部屋など手付かず。
そんな日々病んでいくばかりの家族に、
私はこのままでは良くないと、
弟の思い出にようやく手を付ける決心をしました。
両親も、半年を経過しても癒えぬ悲しみに、
私が弟の部屋を片付けることにようやく同意し、
私は泣き出したくなるような重い気持ちを抱えつつも、
心を鬼にかえて、弟の部屋へと足を踏み入れました。
「…………」
部屋の中は、なにもかもがあの日のままでした。
救急隊に搬送されていった寝台の上は、わずかに乱れ、
仕事用カバンは放置され、
パカッと開いたままのそれからは中身が見えています。
窓の閉め切られた部屋は、どこか空気が濁っていて、
私は悲しみで震え出した身体を叱咤しつつ、ガラリと窓を開きました。
ヒュウ
「あれ……?」
部屋に吹き込んだ空気に押し出されてか、
テーブルの上の一枚の用紙が私の足元へまとわりつきました。
拾い上げてみると、それは何とも懐かしいものでした。
「……子どもの、落書き?」
どこか薄茶けた用紙に描かれた〇や△、□の記号。
それは、幼い幼児がたわむれに描くような、
なんのつながりもないただの羅列のようでした。
「なんで……こんなのが……」
思わず、窓辺によって太陽にそれをすかせば、
その黒で描かれた色が、うっすら赤黒さを帯びていることに気付きました。
そう、まるで血で描いた絵を、そのまま乾かしたもののような――。
「……気持ち悪……」
どこか生理的な嫌悪感を感じさせられるそれをテーブルの上に伏せ、
あまり気にしないようにして、
弟の遺品の整理に取りかかろうと洋服ダンスに向き直ります。
ワイシャツがズラリとハンガーにかけられ、
無造作に放り込まれた私服らしき服の束が、タンスの下に積み重なっています。
無精であった弟の性格が思い出されるようで、
なつかしさとそこから溢れる悲しみに、深呼吸しながら持参したゴミ袋に
服を流れ作業で押し込んでいると。
ジッ……ジジッ……
季節外れのセミの鳴き声が、薄く開いた窓から流れ込んできます。
「……やだなぁ」
命の尽きる直前のその音色は、どこか今の心境をあざ笑うようで、
私はボソリと呟きつつ、開いたままの窓を閉めようと立ちあがりました。
…………
「ん……?」
なにかに呼ばれたような奇妙な感覚を覚えて、
私は窓に手をかけたまま動きを止めました。
父か母が気にしてやってきたのだろうか、と
入口に視線を戻しても、そこには人影もありません。
ジッ……ジジッ……
セミは相変わらず死にかけの声で残暑のエネルギーと化しています。
さっきの声は気のせいか、と私は窓を閉めようと
再び外の方へ向き直った瞬間。
バシン!
「いっ!?」
強く窓ガラスが振動し、私はその衝撃にその場に尻餅をつきました。
「え……あ……?」
ほんの一瞬、
視界を埋めつくした、一面の黒い手のひら。
瞬きの間に消え去って、今や目に映るのは
ただただ夏の色である爽やかな青空だけ。
あのセミの鳴き声も、いつの間にか消えうせて、
締め切られた部屋には、ただただ沈黙だけが支配していました。
「な……なん……げ、幻覚……?」
熱中症にかかるには、もう季節も外れていて、
私は弟を亡くしたショックが遺品を目にしてぶり返し、
妙なものを見てしまったのか、とキリキリと痛み始めた頭を押さえました。
「あ、っ」
と、肘のはしが、放置されたままの弟のカバンに当たり、
中から書類らしきものがペラリと床に滑り落ちました。
「……ひっ」
その、表になった紙面の上。
そこには、グルグルとなんどもなんどもこねくり回されたかのような、
真っ黒い渦巻きが、延々と、まるで紙を押しつぶすかのような執拗さで
描かれていたんです。
「っ、う……」
それは、先ほどテーブルに置かれていたものと酷似した絵柄で。
私は思わず口元を押さえ、整理整頓も中途半端に、
弟の部屋から逃げ出してしまったのです。
結局、その日はそれ以上弟の部屋の整理もできず、
後日、友人たちを呼び、手伝ってもらいながら片づけを終えました。
あの奇妙なイラストは、弟のあのカバンから何枚も発見され、
友人たちも気味悪がった為、まとめてお寺にお焚き上げをお願いしました。
あの、ほんの一瞬、弟の部屋で目にした真っ黒い手のひら。
あれは、今思い返せば、かなり小さな子どもたちのものであったように思います。
どうして、弟があんな絵を持っていたのか。
弟の部屋で、あんなものが現れたのか。
今となっては物置となってしまったその部屋で、
弟が心臓麻痺で亡くなったのは、果たして偶然だったのか。
今はもう、誰にも真相はわからぬままです。