邂逅
珍しく、早く起きてきたことから、母親にあまり嫌味を言われない。機嫌を損ねることがないよう、黙々と床掃除をした。床を磨き終えた僕は、今日の弁当と朝食の準備をする。しばらくすると父親が起床した。
「何だ、今日は大嵐か」
「どうせ今日だけでしょ。すぐに元どおりよ」
この二人は嫌味を口にしなければ死ぬのだろうか?とはいえこの程度は慣れっこだ。特に反応を返すこともなく、台所に立つ。温野菜と卵焼きでも作ろうか。そう思い、包丁を手にした時だった。
視界が極彩色に染まった。今朝は調子が良かったはずの胃がギリギリと痛み始める。胃と共に、昨夜、不気味な夢で蛇に噛まれた喉元もまるで何かに噛み付かれているかのように痛みが走り出す。
「呪え」
「殺せ」
耳元でザラついた声が聞こえた。
「呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え呪え」
「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ」
まるで脳をそのまま侵食するかのような感覚。自我を奪い去るような痛み。一体どうなっているのだろうか。これだけ痛みがひどく、意識も覚束ないというのに、利き手に握った包丁を手放すことができない。身体は自らの意思を無視して、未だに嫌味を吐き続ける両親の方へと向き直る。嫌だ、違う、そこまでは望んでいない、やめてくれ。どんなに願っても、まるで見えない糸に操られているかのように、身体は両親に向かって包丁を振り下ろした。
ガチャン!
金属が落下する音にハッとする。
「ちょっと、何やってるの!?」
「足に刺さらなかったか!!?」
突然の息子の奇行に思わず嫌味すらも忘れたのだろう。
「何でもない、手が滑っただけ」
そう言ってへらりと笑えば、両親は自らの身支度に戻ってゆく。今の光景は一体何だ。確かにこの環境が辛いとは思う、いっそ死んでしまいたいとすら思った。しかし、両親を殺したいほど憎んでいる訳ではない。ましてや、本当に殺そうとするなど有りえない。ついに僕はおかしくなってしまったのだろうか。とてもじゃないが、外に出る気が無くなった。
「はい、申し訳御座いません」
スマホの通話を切る。こういう時に臨時職員は便利だ。電話一本で何も言われず休むことができる。僕の職場はいいところだ。よっぽど声が弱々しかったのだろう「ゆっくり休んで下さいね」と労りの言葉までかけてもらった。とはいえ、あくまで午前休だ。週半ばは忙しい。幾ら先輩が優しいとはいえあまり迷惑は掛けられない。
きっと夢見が悪く、疲れているからあんな幻覚を見てしまったのだろう。午後の出勤までゆっくり眠ることにした。布団に横になり、目を閉じる。眠気はすぐにやってきた。
「やぁ」
聞き覚えの無い声に目を開ける。上半身を起こし、声のした方を向けば、そこに居たのは黒猫。鮮やかなな黄緑色をした瞳がこちらを覗き込んでいる。
「あらまぁ、やっぱり餌にされちゃってるねぇ」
「は?え?猫?喋って……」
「気にしない気にしない。それ、随分痛いんじゃないの?」
そう言って猫は僕の鳩尾をたしたしと踏む。
「そりゃ胃炎らしいから……」
「 違うなぁ、そこに巣食ってるもの」
「巣食う……は!?アニサキス!!?」
「うんうん、君はなかなかにリアリストだ」
猫がニンマリと笑う。喋るという時点で既に混乱してはいるが、この猫、振る舞いが些か人間臭すぎる。
「まぁ例え方は悪くないよ?寄生虫のようなものさ」
「でも医者は胃炎だろうって…」
「そりゃあそうだろ。だってそのお医者様には見えてないんだから」
「見えてない……?」
「今はまだそこで大人しくしているけれど、近い内に出てくるんじゃないかな」
そう言って毛ずくろいを始める。何とまぁ自由な…
「現に少しは影響が出てるんじゃない?」
ふとこちらに視線を投げる。その先は、夢の中で噛まれた首だ。
「君、かなり我慢強い質だろう?向こうが焦れたんだろうね。負の感情が増大するような呪いが掛かってる」
「呪い……?」
「何かを壊したい、殺したいって思わなかった?」
背筋が凍った。今朝のあれは呪いだというのか。しかし、呪いならば一体誰に。目に見えるものしか信じていなかったはずの自分が、夢の中の喋る猫の言葉を信じてしまうくらいには精神が参っているのだろうか。それともこれは罪悪感が見せた防衛反応なのだろうか。
「あるんだね」
「だとしても、一体誰が…」
「さぁ?一概に呪い=他者からではないから分からないな」
「……これが更に悪くなったらどうなるんだ」
「安心しなよ、死にはしない。君は」
猫はくあ、と小さく欠伸を漏らす。
「何もわからないまま乗っ取られるだけさ。よく言うだろう?『人が変わったよう』とかって。君が侵されているのはそういう現象の、元凶のようなものだ」
「理性を失い、本能のままに動くようになった君は、君を害するもの全てを壊そうとするだろうよ。もし、その対象が人間だったとしたら殺すんじゃない?」
「そんな……」
「そのくらい苦しめられたんだろう?別に君が君じゃなくなった後のことなんか気にしなくていいだろうに」
「だからって殺したい訳じゃない!!」
猫の言葉を遮るように叫ぶ。びくりと身体を震わせた猫は、僕の膝に乗り上げ、黄緑色の瞳で見つめてくる。
「そう、君は抗いたいんだね?」
「自らの呪いに飲まれることを拒むんだね?」
重くなった空気に、固唾を飲みながらも頷く。
「そう、なら賭けてみるといい」
そう言って猫は軽やかに膝から下りる。
「君が目を覚ましたら連れて行ってあげるよ、あの男のところに」
勢いよく布団から起き上がる。妙に頭がスッキリしていた。やはり寝不足だったのだろうか。しかし奇妙な夢を見たものである。ふと視線を下げると、左手が何か握っているようだ。寝たときは何もなかったはずと手を開けば、そこにあったのは黄緑色の小さな鈴。まるで……まるで夢の中で出会った黒猫の瞳のような。あれは夢ではなかったのだろうか。時計を見れば11時半を差している。そろそろ出勤の身支度をしなければ。
身支度を終えた後、何故か僕は『これを肌身から離してはならない』と感じ、黄緑色の鈴をポケットにつっこんで家を出た。
空はどんよりとした雲が広がり、今にも一雨降りそうな天気であった。そういえば昼食を食べず、薬も飲まずに出てきたというのに、胃の痛みを全く感じないのは何故だろうか。
「お先に失礼します」
午後の仕事が終わり、早々に職場を出る。近場の図書館で勉強する気も起きないが、家に帰るのも嫌だった。適当に時間を潰すかとコンビニに寄り、コーヒーとチョコ菓子、煙草を購入する。自転車に跨って向かう先は自宅に近い公園だ。小高い丘状になっており、平日はあまり人が来ない穴場であり、灰皿があるため煙草を吸うこともできる貴重な場所だ。
公園に着き、適当なベンチに腰掛ける。自分以外には犬の散歩をする老婦人と、リフティングの練習に勤しむ中学生のみであった。風向きを確かめ、煙草に火を着けた。
「まっず……」
新発売の安煙草は苦味が強く、煙たい。ハズレだったかと肩を落とす。そういえば、煙草を吸うようになってからもう4年になるのか。元々、酒も煙草もしない真面目な自分であったが、精神的に追い詰められ、少しでも楽になれるならと手を出したのが煙草だった。あえて煙草を選んだのは嫌煙家の父親への小さな反抗でもあった。まぁそもそも酒はすぐに酔ってしまうのであまり飲めないのだが…
ライターをしまおうとポケットに手をつっこむ。ちりん、という小さな音と共に、黄緑色の鈴が転がった。
「夢だよな……?」
深く吸い込んだ煙を吐き出しながら呟く。自分はこんなもの持っていなかったし、家族の持ち物でもないはずだ。
「でもあの夢が本当だったら、僕は…」
間違いなく、両親を殺すだろう。短くなった煙草を灰皿に投げ入れ、頭を抱える。あの猫は自分を誰かの元に連れて行くと言った。最早、あれが防衛反応の見せたまやかしか、本当に起こったことだったのかはどうでもいい。もう分からないのだ、僕は何をするべきか。
「誰でもいい…助けてくれよ…」
「お疲れ様」
夢で聞いた声だった。顔を上げれば、隣にあの黒猫がちょこんと座っている。
「ははーん?その顔、さては夢だと思ってたね?」
「いや、その……」
「ま、現代っ子なんてそんなもんさ。それで?覚悟はできた?」
「覚悟……?」
「君に巣食うそれに抗う覚悟だよ。言っておくけど100%他人任せでどうにかなる代物じゃあない」
猫はベンチから下り、振り返る。
「抗いたいなら着いておいで」
そう言って猫は歩き出す。僕は震える膝を無視して猫を追った。
路地裏、廃屋、竹林。それはもう最悪な道を進む。時たま振り返る猫は何だかニヤニヤしている気がする。猫には楽だろうが人間にはかなり辛いぞこのルート。まだ着かないのかと猫を責めようと口を開こうとすると、開けた場所に出た。目の前にあるのはこじんまりとした……家?
「着いたよ」
入口に近づいてみれば、看板のようなものが見つかった。
『黒喰診療所』
「診療所……?ここ、病院なのか…?」
「入ってみれば分かるよ。あぁそうだ、あの鈴を忘れずにね」
その声を最後に、猫の姿は見えなくなった。
診療所の扉は開いていた。室内はかなり薄暗い。奥の方へ向かえば町医者と変わらぬ待ち合い室らしき部屋。そして、診察室らしき更に奥の扉からは明かりが漏れている。
「すみませ……」
「あ?何してんのアンタ?」
急に背後から聞こえた声に飛び上がる。握りしめていた鈴が床に転がり落ちてしまった。
「患者?悪いけど今日はもう休診で…」
ぼさぼさの目元まで伸びきった黒髪に、不健康そうな白い肌。医者らしからぬ真っ黒なシャツにスラックスを着た男。正直、不審者にしか見えない。怪し過ぎる。
「その鈴持ってるってことは…『そっち』か」
男は嫌そうに溜息をついた。
「入りな少年、話くらいは聞いてやる」
「あの、僕は……」
「クソ猫に連れて来られたんだろ?」
「は、はい…」
「俺は黒喰、ここの主治医。そうだな、黒喰先生とでも呼んでくれや」
そう言って男はニタリと笑う。
これが僕と黒喰先生の出会いだった。