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黒喰先生のカルテ  作者: 青弦紫弦
自縄自縛
1/2

発露

憎悪、怨恨、執着、殺意。

そんな「黒い」感情が爆発した時、奴らは現れる。

感情の暴走に襲われる人間に、最後に手を差し伸べるのは悪辣で傍若無人、金に汚く、だらしない最低な男だった。


町外れの小さな診察所、黒猫に患者は誘われる。

 今日も今日とて冷や汗に塗れて目を覚ます。このところ夢見が悪いのか深く眠ることもできず、寝不足の頭が重い。汗を脱ぐって布団から出た。軽く身支度を済まして、リビングへ出れば簡易的な朝食と化粧をしている母がいた。

「もう7時過ぎじゃない、相変わらずだらしない」

お決まりの台詞を苦笑いで流す。

「そんなんだから何処も受からないのよ」

昨日は就職試験の結果発表だった。久々に最終面接までこぎ着いたが結果は惨敗。昨夜は父親にも受かるはずがない無駄だったんだと鼻で笑われたばかりだ。痛み出す胃を誤魔化すように暖かいお茶を飲み干し、席を立った。

 僕は所謂『就職浪人』というやつだ。去年、大学を卒業したが、就職試験に失敗し、実家に戻って地元の行政事務所で臨時職員をしている。出世欲とプライドが高い父親と、病的なまでに潔癖症な母親との生活はなかなかに苦しいものだった。大学に進学するまでは、普通に実家で生活していたはずだが、今となっては何故、この環境で何も気にせず生活できていたのか全く分からない。「勉強しろ」「趣味なんてものに時間を割くな」「やる気がたりない」「だらしない」なんて言葉を吐き捨てられるのは当たり前、果てには「恥ずかしくて他所様に子供の話なんてできない」「職場の人達もきっとお前を嘲笑ってる」「さっさと出ていけ」など、本当に血の繋がった親なのかと疑いたくなるような言葉も平気で口に出すようになっていた。

 歯を磨き、寝癖を直してから薬を飲み込んだ。つい先日、強烈な胃痛に襲われ、病院にかかって処方されたものだ。このときも「無職同然の癖に体調管理もできないのか」「構ってちゃんか」と散々に貶されたっけ。医者に言われた精神的なストレスの出処は何となく分かってしまった。それにしても最近、やたらと胃が痛む気がする。昔から胃腸は強かったはずなのに。いつになったら良くなるのだろうと溜息をつき、家を出た。


 正直、月曜日は暇だ。忙しくなるのは火曜から木曜にかけて。サボりに見えないように時間を潰すのも大分慣れた気がする。同じ臨時職員の先輩は一回り以上年上で、以前民間企業で身体と心を壊したらしく、色々気遣ってくれている。しかし、先輩の家庭環境の話を聞く度に、自らの環境との差に絶望し、嫉妬しているなんて、きっと気付いちゃいないだろう。確かに自分は恵まれている。とはいえ最近の親の口から出るのは罵りと蔑み、そして自分に掛かった金銭の話のみ。世の中は不平等だと常々思う。

 暇になると余計なことをぐるぐると考えてしまうのは僕の悪癖だ。いい加減楽になりたい。さっさとあの家を出ていきたい。強く願うがいつだってやる気のない自分は上手くいかないのだ。そうこうしている間に終業時間が来る。あぁ、家に帰りたくない。また胃が痛くなってきた。


 自宅に帰れば、机の上に煙草の箱が置かれていた。盛大に溜息をつく。これは本棚の裏に、普通なら絶対見えない位置に隠してあったはずのものだ。母親の最大の悪癖の1つ、掃除と冠して勝手に人のカバンや机、財布を漁る行為である。人のものを勝手に漁り、それを父親に密告してネチネチと説教という名の嫌味をたれ流される。これは今晩も面倒なことになるなと煙草をゴミ箱に投げ入れた。

 案の定、夕飯を食べ終えるなり、父親にそこに座れと引き止められる。嫌煙家の父親はやたらと煙草にうるさかった。仕事終わりに嘘をついてカラオケに行ったなだのと言っていることから察するに、朝のうちから、母親は財布まで漁っていたようだ。最近、漁られていなかったから油断した。いつもは外で捨ててきていたのに。説教は既に説教とはいえない嫌味のオンパレードと化している。

「黙ってないで何とか言ったらどうだ」

言うだけ無駄だろう。嘘つきの言うことなんか信用するかと切り捨てられて終わりだ。あぁ胃が痛い、頭もぼーっとしてきた。

「こんなんだから大学も途中で転科したんだ」

「医療系だったから行かせてやったのに」

また始まった。僕は大学時代に1度希望した学部を挫折し、留年するくらいならばと頭を下げ、転科した上で卒業している。父親はそれが大層気に入らないのか、嫌味を言う時に必ず蒸し返してくるのだ。正論を言えば「偉そうな口をきくな」「幾ら使ったと思ってる」。いつだって最後は金銭の話で追い詰めてくる。今にも嘔吐しそうなくらい、胃が限界を迎えた頃、説教は終わった。


 電気代の無駄だからさっさと寝ろと言われて床に就く。布団に横になり、慣れ親しんだソーシャルゲームアプリを開いた。ゲームを通して知り合った人々は嫌味を吐いたりしない、面と向かって人格否定をしてきたりしない。当然といえば当然なのだろうが、それにどれだけ救われたことだろう。そのゲームですら、存在を嗅ぎつけて辞めろ、消せと騒ぎ立てる両親にはますます嫌気がさしていた。最近じゃ母親の漁り癖はSNSまで及んでいる。下手に嫌味のネタを与えないよう、無駄に気をつけなければならないのも多大なストレスだ。

 このままじゃいけないのは分かっている。けれどやる気が一向に湧かない。自分の性分は変わらないのだろう。それでもこのままこの家に居続ければいつか精神が壊れる。どうしたらいいのだろうか。スマホの電源を落とし、布団を被った。


 心地好い眠気に誘われ、ようやく寝付けた深夜。急激な胃の痛みを感じて目が覚めた…はずだった。目の前に広がるのは極彩色の空間。寝ていたはずの布団は無く、物音一つ聞こえない。明晰夢だろうか、しかしこんな夢を見るような原因に思い当たる節がない。しかも痛みがやたらリアルだ。胃の中でぐるぐると何かが蠢いているかのような気色の悪さ。冷や汗が止まらない、痛みに手足が震え出す。その場に蹲った僕は、とうとう耐え切れず嘔吐した。

ぐちゃり…

吐き出されたものはどす黒い液体。何の匂いもなく、喉を焼く酸も感じない。しかし、次から次へと溢れ出すそれに呼吸が奪われていく。

「あ……が……」

やがて液体は一つに集まり、形を為してゆく。細長い縄のような形状になり、鎌首をもたげる。

「呪え」

どす黒い蛇は不気味な声でそう呟くと、僕の喉元に噛み付いた。振り払おうにも、長過ぎた嘔吐のせいで既に力は出ない。じわりと血が滲む感覚がする。目の前の蛇が何者であるかは分からない、しかし万が一この蛇が毒蛇ならば僕は死に至るだろう。死ぬ?ふと混乱していた思考が晴れる。そうだ、別に毎日毎日こんな思いをするくらいならばいっそ死んだ方が楽ではないか。何者だか知らないが、呪い殺してくれるというのであれば御の字だ。抵抗をやめ、力なく腕を下げる。

「呪え」

喉元に噛みつく蛇は繰り返す。うるさいな、早く殺してくれよ。そう思い、目を閉じた瞬間流れ込んできたのは強烈なまでの黒い感情。憎悪、怨恨、殺意。持ちうる全ての悪意をどろどろになるまで煮詰めたかのような感情。それがもたらすあまりの悪寒にまたしても嘔吐する。次に吐き出したのは赤黒い、卵状の何か。蛇はぼとりと目の前に落ちた何かに標的を変える。がぱりと大口を開けて、そのままそれを呑み込んだ。


またしても冷や汗に塗れて目が覚める。枕元にあったスマホを確認すれば6時前だった。あれは本当に夢だったのだろうか。噛み付かれた喉元に手をやれば、傷のようなものは見当たらない。母親が床掃除を始める音が聞こえてきた。とても二度寝する気にはなれない。また嫌味を言われるのも疲れるし、起きることにしよう。


 そのとき、僕はまだ気付いていなかったのだ。噛まれた喉元には傷こそ無かったが、黒い蛇のような痣が浮かんでいたことに。

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