零話 ギリギリセーフで思い出しました
間一髪。
リリィ嬢へと向けようとしたグラスの中身を、私は思いっきり我が身にぶちまけた。
ばっしゃああああ!
景気のいい水音が、華やかなパーティ会場に響き渡る。
おかげで歓談の声はぴたりと止んで、重い沈黙が支配した。
「っ…………へ?」
「ろ、ロザリア様!?」
リリィ嬢や、私の従者――ヨハネ。
そのほかパーティ会場にいたすべての者たちが、あっけに取られて水浸しの私を見つめるばかり。
それもそのはず。
今は我が国の誇る最高学府――グランコール学園における、新入生社交パーティだったのだから。
広いホールには将来有望な若者たちが集い、楽団が奏でる音色に耳を傾けながら、未来への展望を語る。そんな希望にあふれた場所……だった。
そこで、私はいつものようにヨハネをいびっていた。
理由なんて些細なもの。
私の気分じゃない飲み物を持ってきた、タイがほんの少し曲がっていた、ほかの女子生徒に目線を向けた……などなど。
それを見ず知らずの女子生徒にたしなめられて、カッとなったのは当然で。
おもわず「平民の分際で!」と叫び、手元のグラスを掴んだところで――思い出したのだ。
(お、思い出した……! ここは……『ダンジョン学園恋物語』の世界じゃない!)
さあっと血の気が引くのが、自分でも分かった。
頭から水を浴びたからではない。
脳裏に蘇った、ひどく鮮明な前世の記憶のせいだった。
前世の私は地球の――日本と呼ばれる国に生きていた。
生い立ちも経歴も、すべてが平々凡々。
ちょっとゲームが好きなくらいの、どこにでもいる普通のOLだった。
それがある日、駅のホームで立ちくらみを起こし、電車に轢かれて死亡した。
これがブラック企業による過労死、とかならまだいい方。
真実は、前日まで徹夜でゲームをしたのが祟ったという、間抜けな理由だ。
我ながらろくな死に方ではないあきれかえる。
とはいえ問題はそこではない。前世の私はたしかに死んだ。
その結果は変えられないし、いさぎよく切り替えていくしかない。
重要なのは、その死ぬ間際まで必死になってプレイしていたゲームのことだ。
それは、いわゆる乙女ゲームと呼ばれるジャンルのゲームだった。
その内容は剣と魔法のファンタジー世界で、女の子の主人公がイケメン男子たちと冒険を繰り広げ、強くなりながら愛を育むというものだ。
前世の私は、そのゲームを嫌というほどやりこんだ。
すべてのルートをクリアして、百を下らないサブイベントも回収。
ステータスはカンストしたし、全てのアイテムを蒐集した。果ては最速クリアに挑んだりもして……数百時間は遊び倒した。
そんな慣れ親しんだ乙女ゲームの世界に……なぜか、転生してしまっていたのだ。
「ろ、ロザリア様……! いかがされたのですか!?」
真っ青な顔であわてふためくのは、線の細い青年だ。
ヨハネ・ハミルトン。
年は私よりふたつ上の、十七歳。
亜麻色の髪を短く切りそろえた、容姿端麗な美青年。
我が家の使用人として代々続く家系出身で、幼少の頃から私の世話係として仕えてくれている。
乙女ゲーム『ダンジョン学園恋物語』の攻略対象キャラだ。
「あっ、あの、大丈夫ですか……」
一方、真っ青な顔であわてふためくのは、素朴ながらにかわいらしい顔立ちをした少女だ。
リリィ・コルネット。
年は私と同じ十五歳。
薄桃色の髪にはふんわりとウェーブがかかっており、大きな瞳はあざやかな空色だ。
乙女ゲーム『ダンジョン学園恋物語』の主人公で、格式高いこの学園の歴史上初めて、庶民の身分でありながら入学を認められた少女である。
ここが乙女ゲーム『ダンジョン学園恋物語』の世界なのは間違いないだろう。
あらためてその場をぐるっと見回してみれば、ヨハネのほかにも攻略対象キャラがあちこちにいるし、見知ったNPCの顔もある。
大好きなゲームの世界に転生するなんて、オタクの夢のようなシチュエーションだ。
だがしかし、私は一切よろこべないでいた。
その理由こそが――。
「ロザリア様……? いったい、なにが――」
「ごめんなさい、ヨハネ」
「っっ!?」
いぶかしむヨハネに、私は深々と頭を下げる。
その瞬間、彼は豆鉄砲をくらった鳩のようにびしっと固まった。
だってそうでしょう。三歳の頃から、彼は私の従者として付き従ってくれた。
私はそれに甘えてわがままを言うばかりで、謝ったことなんてこれまで一度もないのだから。
それがこんな行動に出れば、面食らうのが当然だ。
ほかの面々も『わがまま貴族令嬢』としての私を知っているのか、ぽかんと言葉を失っている。
そんななかでも、私は平静に謝罪の言葉を続けた。
「つい虫の居所が悪くて、あなたに当たってしまったの。これまで散々迷惑をかけたわね、本当に申し訳ないわ」
「い、いえ、そんなことは決して……! どうか頭をお上げください!」
「そこのお嬢さんにも非礼をお詫びするわ。怒鳴ってしまってごめんなさいね」
「い、いえ、こちらこそ……それより、早く拭かないとお風邪を召してしまいます!」
「これくらいどうってことないわよ」
あわてふためくリリィ嬢へにっこり笑って、私は次に周囲へ頭を下げた。
「華やかな場を乱してしまったこと、たいへん恐縮に思います。私はすこし夜風に当たって、頭を冷やしてまいります」
「ロザリア様! それでは僕も同行して――」
「けっこうよ。あなたもこの学校の新入生なんだから、ちゃんとパーティを楽しみなさいな」
そちらのお嬢さんとおしゃべりでもしていなさい、と続ければ、ヨハネはますます蒼白な顔になった。
そちらにかまうことなく、私は人混みをかき分け出口へ向かう。
「それではみなさま、ごきげんよう」
笑みを振りまきながら、ふとふと目線を落とした先。
よく磨かれた床に映るのは、典型的な高飛車お嬢様といった美少女だ。
きらびやかなドレスを着て、その身を飾るのは色とりどりの宝石たち。
長い金髪を縦ロールにしており、キッとつり上がった目が印象的。
その整った顔が、くしゃっと歪む。
(なんでよりにもよって……『時報姫』ロザリアに転生したのよ!?)
ロザリア・ベルフェドミナ。
この『ダンジョン恋物語』におけるNPCで、由緒正しい貴族の生まれであり……ゲームのさまざまなルートにおいて、ほぼ確実に死ぬキャラクター。
それがこの私だった。
性格は見ての通りの高慢ちき。
平民である主人公を快く思っておらず、あの手この手で嫌がらせを続けてくる。
当然、物語におけるそんなキャラクターのたどる末路なんて決まっている。
ロザリアが死ぬことで話が動くルートも数多く存在するため、プレイヤーのからついたあだ名が『時報姫』。
実況動画では彼女の死亡シーンが挟まるたびに『いつもの』『恒例行事』『親の顔より見た臨終』といった弾幕が流れるなど、広く親しまれている。
……いや、そんなベクトルで親しまれてもねえ!?
「な、なんとかしないと……死亡フラグに殺される!?」
今日はあと二回ほど更新予定。