【終末ワイン】 ノーアドレスデュオ (63,000字)
需要もないけど、シリーズ9作目の短編です。
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
9月30日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
永富彰は周囲から「アキラ」と呼ばれていた。現在30歳であるアキラは日雇いの仕事で日銭を稼ぎ、ドヤ街付近の路上で寝泊りをしながら生活をしていた。
とはいえ、毎日路上で寝泊まりしている訳では無く、雨の日を含め、3,4日に1度といった頻度でマンガ喫茶や、簡易宿泊所に泊まるといった生活をしていた。
マンガ喫茶に行く時にはシャワーを完備している所を利用し、ホームレス生活とは言え出来る限りシャワーを浴びたり銭湯に行き、髭も剃るといった事を心掛けていた。
今アキラは綿の水色の長袖シャツにブルーのジーンズ。その姿のままで数日を過ごす。その姿のまま路上で寝起きする。元は白かった履きっ放しのスニーカーも薄汚れ、何箇所か穴も空いていた。
唯一の所持品と言える大きめのスポーツバッグには全衣類が詰め込まれ、毎日のように肩にかけながら移動し、シャワーや銭湯に入るタイミングで下着を替え、洗濯物が溜まった段階でコインランドリーで纏めて洗濯するを繰り返す。
携帯電話は所持していたが、料金が未納だった為に使用不能となっていた。とはいえ、諸々の情報を必要とする事もある為、マンガ喫茶に泊まる時にはパソコンが設置されている部屋に泊まり、インターネットでニュースを見たりフリーメールを見たり、仕事を探したりという事に使用していた。仕事を探すといっても、今のアキラは住所不定である事もあり、職を探すというのはとても困難だった。
秋を目前にして、夜は少し肌寒く感じる事があるものの、過ごしやすいとも言える季節にもなり、路上に於いても寝やすくなった。少し前までは真夜中になっても気温が下がらない熱帯夜と呼ばれる日も多く、スポーツバッグを枕に段ボール箱を広げた寝床は硬く、常に寝返りを打つ事もあってか熟睡する事は難しく、酒の力を借りなければ寝付く事が難しいという日々も多かった。
アキラが寝泊まりする周辺では数多くのホームレスも寝泊まりしていた。
周りに誰もおらずに1人路上で寝るのも怖いが、見知らぬホームレスの人達が多くいる路上で熟睡するというのも怖い物があった。故に熟睡する必要も無い訳ではあったが、ただでさえ野宿は疲れるという事もあり、そのまま日雇いの体力仕事をこなすという生活は、30歳とはいえ体力的に続ける事は難しい。それ故、時折泊まる簡易宿泊所に於いては、空調の効いた部屋の中、ふかふかの布団の中で安心して横になり、精神的にも体力的にも回復するよう努力をしていた。
外で寝ている場合には夜が明ければ自然と目も覚めた。目覚まし時計を持たないアキラにとって、午前5時頃から始まる日雇い仕事の募集に間に合う為にはありがたい副産物と言えた。
往々にして路上や公園で睡眠を取る者達は、夜が明ければ自然と目も覚めるという事もあるが、その周囲に暮らす人達の迷惑を最小限にするという意味もあってか、皆が早起きであった。
ホームレスの中には時折泥酔して意味不明な事を叫びながら千鳥足となって歩く者もいる。その街の住民達も、その付近に数ある飲み屋等に客として来てくれているのは有難いとは思ってはいるものの、かといって、ホームレスを諸手を挙げて歓迎している訳では無い。
過去には日雇い募集の中心とも言えるその街の職業安定所に於いて暴動が起きた事もある。年末には機動隊が付近を警備するというのも風物詩となっている。
ホームレス達も自分達が歓迎される人間では無い事を理解した上で、公園内の水道を利用する際にはその場で体を洗ったりはしない等の暗黙の了解事項もある。
明るい時間帯には極力迷惑にならない場所で過ごし、店のシャッターが閉まるといった時間帯になったら、そのシャッターの前や軒下で寝かせて貰い、シャッターが開く時間になる前に去るというような一定の秩序が保たれていた。
アキラがホームレスになってまだ半年。今の季節は過ごしやすく路上でも寝やすいが、その後に到来する真冬に於ける寒空の下、路上で寝るとなれば防寒ジャンパー等で身を包み、毛布に包まり縮こまりながら寝る事になる。
その街では長期に渡ってホームレス生活を続けている者も多数おり、全体的に高齢化も進んでいた。それと同時に生活保護を受ける者も増えてきた。路上に於ける生活はあらゆる面において厳しい生活でもあり、それを選択しなければ死を迎えるという判断故である。
生活保護とはただただ金銭を貰うという事では無く、あくまでも一時的な生活支援を目的としている物である為、それ受けるとなると定期的に仕事を探しているか等の行政とのやりとりも必要になってくる。そういった事が煩わしいという理由で申請しない者も多く、あえて生活保護を辞めるという者もいた。
それらの者達は真冬でも路上で寝起きする事を選択した。中にはあまりの寒さ故、軽犯罪を犯して警察署や刑務所に行く事を選択する者も稀にいる。それ以外の者達の中からは、年に数人の凍死者も出していた。それはその者自身が望んだが故の結果でもある為、誰が悪い訳では無い。
段ボール箱で囲いを作って少しでも寒さを凌ぐ者もいるが、東京と言えども真冬に於ける夜中の寒さはそれ程に厳しく、高齢化と共に体力を失い、冬の寒さで更に体力を消耗し、寝ている間にこの世から去ってゆくといった事は後を絶たない。
アキラは冬服を持っていない。ホームレス生活になる前に、荷物を少なくするという理由で処分してしまった。故に冬服と毛布の購入も考えて置かなければならない。その為にお金を貯めなければならない。その為に働けなければならない。
そんな今の自分の状況に現実感を失いそうになる。「永富彰」という肉体に宿った自分という魂が肉体から離れ、路上で寝ている自分を俯瞰するといった感覚を覚える事も多々あった。
アキラが社会人になった当初、自分がこんな状況になるとは想像だにしていなかった。一年中、昼夜を問わず人気の絶えないその街に暮らす事など夢にも思わなかった。
半年前までは一応の住まいもあり、それなりの仕事をし、家に帰ってシャワーを浴びて、夜には温かい布団の中で眠っていた。そんな半年前の自分をとても懐かしく思うと同時に、それは夢だったのではないかと思う程の落差を感じていた。
アキラは22歳の時に、実家から通っていた私立大学を卒業した。大学の費用は親が出してくれていた。
在学中は地方公務員を目指した。しかし公務員試験に受かる事は出来なかった。
早々に公務員への道を諦め、民間の会社へ就職する方針に切り替えた。そもそもが安定を考えての公務員志望だった為に、公務員職にそこまで拘っていた訳でも無く、その当時は将来を楽観視していた。
アキラは30社近くの会社に応募した。中小企業を中心に応募したが、20社程は書類選考の段階で落とされ、残りの10社程はなんとか面接まで漕ぎ付けたが、1社として内定を貰う迄には至らなかった。
周囲の同級生達もそれなりの数の会社に応募しては落とされてはいたが、それでも内定を貰えたと聞き及んでいた事もあって、自分自身も「どこかには入社出来るだろう」と楽観的に就職活動をしていた。
だが、1社としてアキラを必要とした会社は存在せず、そのまま大学を卒業するに至った。
楽観視してたとはいえ、真面目に取り組んではいた。その上で1社も内定を貰えない事に愕然とした。それと同時に、自分の全てが拒否された思いであった。
自分は社会から必要とされていない。
アキラは自分が何故に就職しようとしていたのか分からなくなったいた。それ以上何をすれば良いのか分からず、今後の目的も分からなくなっていた。
アキラはそんな就職活動に疲弊し、就職活動を投げ出した。
大学を卒業後、就職浪人となったアキラはそのまま実家で何をするでもなく暮らしていたが、両親の勧めもあって派遣会社に登録した。
大卒とはいっても文系で、多少パソコンが使える程度のスキルしか持たず、派遣会社に登録しても派遣先は限られ、地方にある車両組み立て工場への派遣となった。
そもそも目的を持っての大学進学でもなく、親が学費を出していたという事もあり有り難味も薄く、大学の4年間という月日はアキラにとって最後の自由時間という思いが強かった。
派遣先には派遣会社が用意した寮に住み込みで働いた。その寮から2キロ程離れた工場へと毎日歩いて通った。当たり前の事ではあるが、雨の日も、風の強い日も、雪が降る日も工場へと通い仕事に従事した。最初の頃はとりあえず金を稼ぐという事を目的にしてきたが、月日を重ねていくうちにアキラの中で疑問が湧いた。
今こうして働く事が何になるのだろう。こうしていつも同じ仕事を繰り返す事が何の為になるのだろう。ずっとこのままこうして働き続けて行くだけなのだろうか。ただ働いて生きていくだけなのだろうか。
卵が先か、鶏が先か。それと同様に、働く為に生きるのか、生きる為に働くのかと、そんな疑問がアキラの中で湧いた。
数年毎にアキラの派遣先が変わり、その都度寮も変わった。かといって仕事内容が大きく変わる事もなく、組み立て工場での仕事がメインであり、そこではお金以外に得る物も無く、高度な事をしている訳ではなく、誰でも出来る単調な仕事がほとんどである為に高い給料も得られなかった。
支給される多くない給料の殆どが気付けば消えていた。寮とは言っても民間アパートを派遣会社が借り上げて安く貸しているというだけであり、光熱費は自己負担として天引きされ、アキラは自炊もせずに外食ばかりに頼っていた事もあり、ただただ働き消費するを繰り返す毎日だった。
今のアキラには派遣とはいえ工場で働くという選択肢があるが、そういった工場も徐々に機械化が進む事で、その仕事すらも無くなる可能性もあった。その仕事すら無くなったとしたら、この世界の何処に自分という人間の必要性があるのか分からないといった不安が、アキラには常に付きまとっていた。
何かあれば切られる。切られて寮を追い出されても実家に戻る気は無い。自分でも小さいとは思うが、一度家を出たら戻るつもりはないというプライドがある。今の環境を自ら棄てたとしてもそれは同じ事。
かといって、今をそのまま続けたとしても安定した生活は望めない。今後何をどうすれば良いのか分からない。何を努力すれば良いのか分らない。そんな不安定な生活から抜け出せない。自分の未来が見いだせない。
アキラは次の派遣先へ異動になるタイミングで仕事を辞めた。辞めたといっても退職金が出る訳でもなく、所持金もほぼ無い状態で仕事を辞めた。
結果、行く場所も無いアキラはホームレスになる事を選択した。選択したというよりそれしか選択肢が無かった。アキラは派遣先を辞めたその足で東京のとある街へと向かった。
東京にはドヤ街と呼ばれる街があり、その街には日雇い労働者をターゲットとした簡易宿泊所と呼ばれる、一泊2,3千円程で宿泊できる宿が多く点在していた。最近ではその簡易宿泊所をチープホテルと呼び、宿泊の為だけに高いお金を払いたくないといった外国人宿泊客の人気を博していたが、同時にその街はホームレスが多くいる街でもあった。
アキラはその街へと一路やって来た。その街がそういう街である事を派遣先の同僚から聞いて知っていた。
以降、アキラは日雇いで働きつつ路上で寝泊まりする生活をしていた。ホームレスに優しい街という訳ではないが、数十年以上前からそういう街であり、遠くに住む人達もこの街がそういう街だと知る人も少なくなかった。
お金がある場合にはその街の簡易宿泊所に泊まり、近くの銭湯やコインランドリーを利用し、マンガ喫茶を利用する時にはその街から歩いて3キロ程にある繁華街の中にあるマンガ喫茶へ行くといった生活をしていた。
アキラはその街で生活するようになってから毎晩のように考えていた事があった。
派遣とは言え少し前まではちゃんと仕事をしていた。それは望んだ働き方では無く、その先の将来に展望が見えないという理由で辞めた。社会人になる時に上手くいかなかった。運が無かった。
実家にいる時には家があって当たり前と思っていた。だがそれは当り前では無いと、それを持つ事、維持する事の大変さを、路上生活を始めてからようやく気付いた。
家の無い生活。それはとても不便なことであり、危険な事でもある。かといって仕事を辞めた事に後悔はしていない。あのまま辞めずにあの生活を延々と続けていた方が楽だった思う時が無い訳では無いが、あの生活をずっと続ける事に意味があるとも思えない。
生きていく事を目的としたならば正しいのかも知れないが、それを目的とするにはまだ自分は若すぎる。もっと年齢を重ねれば、生きる事を目的に生きるというのが正しいと思える日が来るのかも知れないが、今の自分にはそれが正しいとはとても思えない。
後悔しない人生などきっとない。その時その時で正しいと思う事をやるしかない。刹那的な生き方かもしれないが今更元に戻れない。こうして生きていく事しか出来ない。
今はただ、定食と呼ばれるものでいいから毎日食べたい、温かい風呂に毎日入りたい、ふかふかの布団で安心して毎日眠りたいと思うのみであるが、今の自分にはそれら全てが身分不相応と言える状況だ。
◇
50歳の男性の名は伊藤重彦。周囲からは苗字の「伊藤」と呼ばれ、アキラ同様に日雇いの仕事で日銭を稼ぎつつ、ドヤ街付近の路上で寝泊りをしながら生活をしていた。
伊藤は路上生活になる前までは、地方の中堅とも言える規模の建設会社で人事の事務職をしていた。その際、少なからずその兆候は見え始めてはいたものの、社長が末端の社員にまで伝える程に会社の業績が悪化した。
業績悪化という状況を打破する為、会社としては業務改善の手段としてリストラを行う事を決断した。リストラ対象者を抽出し伝える役目は人事部が行う事となり、伊藤もその業務を担当する事となった。
リストラを実行する事が業務命令とはいえ、人事部の人間は当然周囲から警戒され毛嫌いされるようになり、伊藤を含めた人事部のほとんどが、人を解雇するという慣れない仕事に気を病んでいた。
伊藤達がリストラした人達の中には50歳を超えている人もいた。住宅ローンが数十年残っている人もいた。そしてリストラを実行していく上で、伊藤達が一番危惧していた事が起きた。
リストラされた人達の中で自殺者が出てしまった。それは伊藤が直接リストラを宣告した人物だった。
確かに懸念はしていた。それでもまさかという事態だった。会社としては「会社が存続する為には必要な事であった」という事で、伊藤達に「気にするな」という言葉をかけるだけであった。それでも一応の礼儀として香典を持って行けと、伊藤達が香典袋を会社から託され葬儀に出向いたが、遺族からは拒否され罵声を浴びせられた。
伊藤達が殺した訳ではないが、それでもそれが起因となっての自殺である事に間違いはなく、少なからず自殺に加担したかのように思った。伊藤はそんな思いから逃げたいという一心で、普段は話さない仕事の事を妻に話した。
「しょうがないでしょ、仕方ないでしょ、それも仕事でしょ」
妻は素っ気無くそう答え、「他人の心配をするよりも、自分たち家族の事を第一に考えて」と、付け加えた。
妻からのその言葉に伊藤も理解は出来るものの、そんな言葉では自分が起因となった自殺という出来事に、胸中を晴らす事などは出来なかった。
一定規模のリストラが終わると、会社は規定路線の如く伊藤達をリストラした。リストラをする際にはよく使われる手法ではあったが、伊藤達も最後に自分達がリストラされるのではないのかという不安を抱えていた為、上司に「自分達もリストラされるのではないのか?」と聞いた事があった。
それに対して上司からは、「それは大丈夫。安心しろ」という言葉を繰り返し口にするのみあり、結果、上司のその言葉は嘘であった。
かといって「自分達をリストラしない」という書面がある訳でもなく、他人の首を切っておいて自分達は安全策を講じるという事も出来なかった。そうして伊藤達はリストラを受け入れた。
伊藤がリストラにより会社を辞めた事を妻に伝えると、「会社に文句を言うべきなのではないか? 訴える事は出来ないのか? これからどうするつもりなんだ」と、激しく叱責された。
そんな妻に対して「とりあえず多めの退職金が振り込まれるから。すぐに別の職を探すから」と、伊藤はそう答えるのが精いっぱいだった。
伊藤は退職翌日からハローワークに行き職探しを始めた。そこで以前に伊藤がリストラした男性と出会った。
「あれ? 伊藤さんじゃないですか? こんな所に来るなんてどうしたんですか? ひょっとして伊藤さんもリストラされたんですか?」
男性はニヤニヤしながら伊藤に言った。男性は伊藤がリストラされた事を知っていた。
「……ええ。まあ、そう言う事ですかね」
伊藤は自分がリストラした相手の顔を見て話す事が憚られ、俯き加減に小声でそう答えた。
「同じ境遇なのだから少しは同情して欲しい、気持ちを察して欲しい」と喉まで出掛かったが、そんな事は相手からすれば知った事ではないのだろうから口にしなかった。
「まあ、お互い頑張りましょう」
男性は最後にそんな言葉を掛けて去っていったが、その顔は伊藤を嘲笑しているかのようで「ざまあみろ」とでも言っているかのようだった。
伊藤は45歳。ハローワークで自身のキャリアと年齢とで仕事を探すものの、現実は厳しかった。その年齢では大卒という肩書は意味をなさず、伊藤の年齢で事務職しか経験の無い人間が出来る仕事など、直ぐには見つからなかった。
厳密には仕事が無い訳ではなく、条件が合わなかった。伊藤には家のローンに子供の学費もある。家族3人が暮らしていくにはそれなりの支出を伴う。しばらくは退職金と雇用保険でしのげるだろうが、それなりの給料をもらえる仕事を急いで探さないといけない。しかしそうは簡単にいかなかった。
その日、伊藤は仕事が見つからずに家に帰った。家に戻ってきた伊藤に対して妻から掛けられた最初の言葉は「仕事見つかった?」であった。そんな日がしばらく続いた。
1週間が過ぎ、1か月が過ぎ、仕事が決まらないままハローワークから伊藤が家に戻ってくる度に「仕事決まった? ねえどうするつもりなの?」と妻が言う。そのセリフは日を追う毎に口調が厳しくなっていく。伊藤はしょうがないと思いつつ妻の言葉を聞いていたが、段々と家に戻る事が苦痛となっていった。
家にも居づらく妻との関係が悪くなっていく中、まだ雇用保険は有効ではあったが、自分でお金を稼ぐという思いで、年齢不問、初期費用が不要の宅配の仕事を始めた。伊藤が選んだ宅配の仕事は、宅配の会社から安い費用で貸与される軽トラを使って、大手ネットショップから委託される宅配の仕事であった。
数ヶ月間、伊藤は宅配の仕事をしたが利益という事では殆ど出なかった。車両本体の経費は会社持ちではあったが、ガソリン代は自腹である。ガソリンの単価も不安定であり土日も休まずに配送したとしても、単価その物が安い事もあって大した利益が出る事はなく、家族3人と家のローンや学費を賄うには程遠かった。その状況に妻からは冷たい顔で言われる。
「ねえ。本当にどうするつもりなの? その仕事で何とか出来るの? 子供を大学に行かせられるの? 真面目に考えてるの? ねえ聞いてる?」
伊藤はどうする事も出来なかった。何も考えたくなかった。考えられなかった。
伊藤は翌日の早朝、妻と子供が寝ている間に家を出た。その家から逃げ出した。全てを投げ出し投げ捨てた。そして少しの現金だけを手に電車に乗って東京へと向かった。
そして数年後の今現在、伊藤は東京のドヤ街で寝泊まりをするホームレス生活を送っていた。
◇
ある日の正午、東京のドヤ街の端に位置する公園に伊藤の姿があった。伊藤はボランティアによる定期的な炊き出しの列に並んでいた。
この日に提供されたのは豚汁とおにぎり1個。豚汁は白い使い捨てのプラスティック容器におたま1杯分が提供され、既に50人近くに及ぶ人達が、ボランティアが配膳する長机の前に2列になって並んでいた。
炊き出しに並んでいた人達は、それぞれが熱々の豚汁の入ったプラスティックの容器と割り箸、そしてラップに包まれているおにぎりを受け取ると、どこで食べようかとキョロキョロしながらも、容器から豚汁が零れないようにゆっくりと散っていった。
伊藤も湯気の立つ熱々の豚汁とおにぎりを受け取ると、どこで食べようかと公園を見まわした。公園の中には立ったままの姿で食べている人もちらほら見受けられたが、伊藤は折角頂いた豚汁をゆっくりと味わって食べたかったので、地面にそのまま座って食べる事も考えつつ、空いている椅子が無いかと見回した。
公園内で座れそうな場所は、炊き出しを受け取った人達で殆ど占領されていた。それでも伊藤がキョロキョロと見回しながら探していると、少し先にある横長のベンチが目に留った。そのベンチには若そうな男性が1人だけ座っていた。伊藤はそのベンチに向かって、手に持った豚汁がこぼれない様にゆっくりと歩いて向かった。
「横、失礼します」
伊藤は小声でそう言って、1人ベンチに座る男性の横に座った。といってもそのベンチは詰めれば5人程が座れそうなベンチで、男性と伊藤の間には2人分の余裕があった。
伊藤はおにぎりをベンチに置き、早速、割り箸を割って豚汁を一口食べた。まだ季節はずれの暑さが残る季節ではあるが、ホームレス生活をしていると暖かい物を食べる機会が少ない事もあり、豚汁といった暖かい食べ物を口にするとホっとした。
こういう炊き出しは本当にありがたいなと伊藤は思いつつ、ゆっくりと味わいながら豚汁を食べていると、ふと隣に座る男性の顔が目に入った。
その男性は若く見えた。そして清潔とまでは言わないものの、それなりに小奇麗な身なりをした若い男性が本当にホームレスなのだろうかと、伊藤はふと思った。
「君、若いけど本当にホームレスなの?」
伊藤はサラリーマン時代にはそれなりに社交的だったが、ホームレスとなってからは、見ず知らずの誰かに積極的に話しかけるという事はなかった。が、隣で炊き出しの豚汁を口にする男性があまりにも幼く見え、思わず話しかけてしまった。
伊藤に声を掛けられた男性は、ホームレス同士とはいえ、全く見知らぬ人間に突然話しかけられた事に対して、左手に持っていたプラスティック容器に入った豚汁を零しそうになった。
伊藤は汚れの目立つ薄手の青いジャンパーを着ていた。下に履いた青いジーンズも薄汚れ、髪もボサボサで目立つ不精髭を生やしていた。男性はその伊藤の姿に一瞬嫌悪感を示したものの、自分も似たような物だと思いなおし、その気持ちを瞬時に抑え込んだ。
「あっ、ごめんごめん。いきなり話しかけて」
「いえ、大丈夫です」
「いや、君が凄く若く見えたので、本当にホームレスなのかと思ってね」
「はい、本当にホームレスですよ。よく同じ質問されますね。すでに30歳ですけど、そんなに子供っぽく見えますかね?」
「ああ、ごめん。子供という意味じゃないんだけどね。二十歳位かなと思って」
「あーいいですよ。別に気にしてないですから。そういうオジサンは50歳くらいですか?」
「ええ。ちょうど50歳位かな」
「随分あいまいですね」
「もうこの生活を5、6年位しているからね。ちょっと記憶がね。あははは」
「へー。そんなに長いんですか。自分はまだ半年位ですね。話しついでに聞いちゃっていいですかね?」
「いいですよ。どんな事ですかね?」
「ここにいるホームレスの人達ってどういう人達なんですかね」
「どういう人達?」
「ええ、どういう理由でホームレスになったんだろうなあって思って。ちなみに自分の場合には、就職出来なくて寮のある派遣で働いていたんですけど、もう将来が見えなくて全てが嫌になったっていう感じで今に至るって所ですかね。まーそんなに嫌なら人に迷惑かける前に死んでしまえって言われるかもしれないですけどね」
「いや、いきなり死ねなんて言われる事はないだろうけど……。で、ホームレスのタイプを聞きたいって事ですかね? うーん、私もそんなにここにいる皆さんと話した事がある訳じゃないですけどね。とりあえず知ってる範囲で話すと、元々日雇い仕事をメインとした職人さんが多い感じですかね。刹那的に生きている人達とでも言いますかね。その人達は家を持たずにこの辺りの安い宿を定宿にして、貰った給料の殆どを飲む事に使ったり、パチンコや競馬で使うといった正に刹那的な生活をしてる人が多いみたいですね。そんな生活をしていくうちに高齢化していって仕事も出来なくなり、仕事その物も少なくなっていったりと、働く事も出来ないからお金を得られない。結果路上で寝起きするようになったっていう感じですかね。日雇いでお金が入ったとしても、まずはお酒やギャンブルに注ぎ込むと、そんな感じでしょうかね」
「ふーん。そういうのって生活保護とか受けられるんじゃないんですか?」
「まあ、生活保護を受けるとなると色々制約があったり、行政とのやりとりが煩わしいというのもあって、自主的にホームレスという感じの人が多いですかね。自分もホームレスになって健康保険も無いとか、常に今日の食事と寝床を考えるだけとか辛い事も多いですけど、行政とか全てから解放されたというか、縛られないという感じはありますしね」
「あー。そういう感じなんですね。確かに『生活保護』ってなんか頼りたくないってイメージありますよね。それでオジサンは何でホームレスになったんですか? そういった職人さんっぽくも見えない感じですけど。あー、言いたくなければいいんですけど。こういう風に話す事はほぼ無いので聞いてみたいなって思っただけなんで」
「そうですね。中には言いたくない人もいるでしょうね。私の場合、夜逃げとも言えなくもないのかな。自分が他人をリストラして、最後は自分がリストラされて、次の仕事も決まらずで。妻や娘の視線も痛くてね……。で、家にも居づらくなり家族を棄てた。全部棄てた。というか逃げた。という感じですかね」
「あ、結婚してたんですか?」
「ええ。意外ですか?」
「いや、ホームレスって独身のイメージがありますしね」
「ああ、そうかもしれないですね。離婚してホームレスになった人、私みたいに家族を棄て、逃げるようにホームレスになる人も少なからずいるみたいですよ」
「まあ、自分も逃げたような物だから人の事言えないけど、家族の事とか気にならないんですか?」
「気にならないとは言わないけど……。子供の事は気になりますね。私が家を棄てた時には子供は高校2年生だったから、今はもう社会人の年齢にはなっているだろうから、今どうしているかなと……」
「ふーん。うちの両親はどうしてるかなあ。そういえばオジサンの名前は? あ、自分はアキラっていいます」
「ああ。伊藤っていいます。よろしく」
伊藤はアキラが苗字でなく名前で名乗ったので、自分も名前を名乗ろうかと思ったが、名前で名乗るという経験もほとんど無く、ちょっと恥ずかしくもあったので苗字で名乗った。
◇
アキラの両親は警察に捜索願を出していた。
アキラが行方不明であると両親が認識したのは、派遣先の寮から出ていった1か月後の事だった。殆ど連絡を取っていなかったという事もあり、派遣先での仕事を辞め、寮から出ていった事を両親は知らなかった。携帯電話も通じず、アキラが今どこでどうしているのか全く分からなかった。
家から10キロほど離れた場所にある農協に勤める父親は、それほど心配しているようには見えなかった。男なんだから大丈夫だろ、どこかで生きているさといった感じであった。とはいえ、詐欺等の犯罪に加担するような事はしていないだろうか、変な所からお金を借りたりしてはいないだろうかと、そんな事を心配していた。
専業主婦の母親はそんな父親に少し嫌悪感を持っていた。すでに30歳を迎えているとはいっても自分達の一人息子。もしかしたら自殺でもしてはいないだろうかと心配していた。
伊藤の妻である伊藤真季子も警察に捜索願を出していた。
真季子は夫が家を出て行ってからの最初の1週間は心配した。しかしその後は恨みに変わった。夫が自分達を棄て、すべてを自分達に押し付け、1人で逃げたという思いに変わった。
伊藤が家を出てから既に5年が経過していた。真季子と1人娘である麻美の2人は、伊藤が出て行った家に今も住んでいた。
麻美は当時まだ高校生だったが、今は成人し社会人となって働いていた。真季子も近所のスーパーでパートとして働き、麻美の給料と合わせて家のローンを含め、2人で家を支え、生活を支え合っていた。
真季子は麻美を大学に行かせてあげたかったが、家の財政が厳しい事もあって大学に行かせる事は出来なかった。
麻美も家の事情を知っていた為、大学に行きたいとは一言も言わず、高校を卒業すると同時に働きだした。
麻美は父親が出て行ってからの5年、母親が苦労しているのをずっと傍で見ていた。父親が自分達を棄てたという行為が信じられなかった。母親は必死で働いて家のローンも返しながら自分を育ててくれた。大学には行けなかったが、自分も高校卒業後に働きだし、自分の給料と母親のパート代を合わせる事でようやく生活にも余裕が出てきた。今は母親と2人でやっていけている。父親など要らない。自分達を棄てた人間なんて要らないと、そう思っていた。
真季子も今さら伊藤に戻ってきて欲しいとは思っていない。伊藤が出ていってからの5年、ただただ大変だったという思いしかない。
結婚指輪も外した。最近ではパート先の同年代の独身男性と良い関係になっていた。真季子はその人と再婚したいという気持ちもあったが、まだ伊藤とは婚姻関係にあり再婚する事は出来ない。裁判を起こして離縁するという事も考えたが、今の真季子にそんな費用があるはずもない。
だが後2年もすれば失踪から7年が経過し、法律上は伊藤を死亡扱いとする事が出来る。そうすれば晴れてパート先の男性と再婚する事が可能となる。真季子はそれをひたすら待っていた。
だが今はただ、娘の麻美との暮らしを大切にする事だけしか考えていない。真季子の中には、既に伊藤は存在しない人間であった。
当然ながら伊藤とアキラ、2人のホームレスへの元には郵便物が届く事はない。そしてそんな2人に対して『終末通知』の葉書が厚生労働省から出された。
伊藤への終末通知の葉書は、伊藤がかつて暮らし、今は真季子と麻美の母子2人が暮らす家の郵便ポストに投函された。
アキラへの終末通知の葉書は、アキラが半年前まで住んでいた派遣会社の寮へと届けられた。
アキラは派遣として働く際に住民票を移していた。しかし派遣先を辞めた時、住所をそのままにしていた為、終末通知の葉書はその寮へと届けられた。
寮の管理者である派遣会社は、退寮した人物のDM等は棄てていたが、アキラ宛のそれは終末通知の葉書と言う事で転送する事にした。
派遣会社は、自社のロゴ入りの封筒に終末通知の葉書を入れ、アキラが働く際に提出した履歴書を元に実家の住所を見つけだし、その住所宛に封筒を郵送した。
宛名にはアキラの名前を書き、その宛名の横には赤いマジックで「重要」と追記した。そしてアキラの両親が住む家の郵便ポストへと、封筒に入った終末通知の葉書が投函された。
午前6時。アキラの母親は自宅の郵便ポストの中を確認した。
木造2階建てのアキラの実家は歩道の無い道路沿い建っていた。灰色のブロック塀に囲まれた敷地の中、狭い庭に縁取られるように建っている。
敷地への入り口付近のブロック塀には郵便ポストが直接埋め込まれていた。そのポストの中には朝刊の新聞を含め、昨日に投函されたA4サイズの封筒が入っていた。
母親はポストの中の新聞と封筒を手にし、何気なく手に取った封筒を訝しみながらも家の中へと戻り、ダイニングキッチンといった台所で新聞を待つ父親の元へとおもむろに向かった。
父親は台所のテーブルに頬杖をつきながら、隣の6畳間に置かれたテレビを見ていた。母親が「はいどうぞ」と言って新聞を父親の前、テーブルの上に置くと、父親は何も言わずにテーブルの上に置かれた新聞を広げた。
母親は新聞と一緒に持ってきた封筒を訝しげに見ていた。息子宛のその封筒には赤字で『重要』と書いてあり、封筒の下にはかつて息子が登録していた派遣会社の名前が印刷されていた。
「ねえ、お父さん。これアキラが前にいた会社から来たんだけ開けていいかしら? 何か重要って書いてあるんだけど」
「ん? 重要って書いてあるなら開けても良いだろう」
興味なさげに新聞に目を落としたままの父親からの言葉を受けて、母親はビリビリと雑に封を開け中を覗き込んだ。封筒の中には封筒のサイズには似つかわしくない小さめの紙が1枚入っているだけで、母親は封筒を逆さにしてその紙を取り出した。
父親はテーブルの上に新聞を広げ凝視するように見ていたが、ふと目の端に母親の姿が入った。父親は何気なく母親へと視線を送ると、母親は手に持った紙を見つめながら固まっていた。父親は興味無さげに新聞に視線を戻しながら母親に聞いた。
「どうした? 何の封筒だったんだ?」
「あの、これ。この葉書。アキラ宛なんだけど……」
「ん? アキラ宛の葉書が何だって?」
興味無しといった父親に対して、母親は父親が新聞を読むのを邪魔するかのように手紙を目の前に差し出した。
父親は「おい、なんだよもう」と、母親を睨むかのように一瞥し、面倒臭そうに手紙を受け取ると、一瞬にして父親の顔色が変わった。
葉書の宛名には息子の名前が書かれ、その左横には目を引く太い赤い文字で「終末通知」と記載してあった。
午前7時。伊藤の妻である真季子が自宅玄関の郵便ポストを確認すると、中には葉書が1枚だけ投函されていた。
伊藤の家の郵便ポストに投函される物の殆どは、近所のスーパーの安売りチラシ、光熱費関連の請求書や領収書位である。
真季子が郵便ポストに入っていた葉書を手に取るまでは、そんな請求書の類の葉書だと思っていた。
葉書を手にした時には裏側が見えていた。そこには「厚生労働省終末管理局」と記載されていた。真季子の目には厚生労働省という文字だけが目に入った為、自治体で行っている無料の医療検診等の案内の類かと思った。
真季子は葉書を裏返した。宛名には「伊藤重彦様」と記載してあった。5年前に自分達を棄てていった夫の名前が記載されていた。そしてその宛名の左横には赤い太文字で「終末通知」と記載があった。真季子はすぐに気付いた。その葉書は夫への死亡予告である事を。
自宅前を通り過ぎる車の音で真季子はハッと気づく。真季子は玄関で葉書を見つめながら数分の間、呆然としてた。
「あの人、もうすぐ死ぬんだ」
真季子は取り乱すでも、感傷的になるでもなく、冷たい目で葉書を見ながら独り言を呟いた。
真季子は葉書を手に自宅の中へと戻っていった。そしていつものように、自分と娘の麻美の為の朝食の準備に取りかかった。手に持っていた終末通知の葉書はキッチンに置いてあるゴミ箱へと無意識に棄てた。今、真季子の頭の中にあるのは「そろそろ麻美を起こしてあげないと」という事だけだった。
それから暫くが経ったある日の夜、アキラは現金渡しの日払い仕事を終えると、まっすぐにマンガ喫茶へと向かった。
アキラがよく利用するマンガ喫茶はソファの上で寝る事になるものの一応宿泊も出来て、別料金ではあるがシャワーも付いていた。マンガ喫茶に行くからと言ってもマンガを読む事が目的ではなく、携帯電話を持っていない為にもっぱらインターネット利用が目的である。そのマンガ喫茶には、アキラは一度も会話をした事はないが、良く顔を合わす人がチラホラ見受けられ、アキラ同様に宿泊目的の常連客が多数いた。
その常連らしき人達の中には成人、未成人を問わずに女性の姿も少なからず見受けられ、恐らく自分と同じようにホームレスなのだろうとアキラは思っていた。男であれば路上で寝る事も出来るが、女性の場合には年齢を問わず、路上で寝るのはとても危険なことだろうと、アキラは常々思っていた。
ホームレスになってからではあるが、未成年とはある意味、不自由なんだなと思うようになった。自分は30歳を過ぎているので限定はされるが身分を明かさずに働く事も出来るし、ホームレスとして生きる事も出来る。
時折見かけるニュースでは、未成年の家出少女がネットを通じて見知らぬ男性の家に泊まり、未成年誘拐といって泊まらせた男が逮捕されたというニュースがあるが、逆にそうしてでも家に泊まるという事をしないと、女性の場合には危険なんだろうなと思う。当然、男性には下心もあったであろうが、ほんの少しの親切心もあったであろうから、捕まった男性に同情しなくもない。
男女問わず未成年であると、働くという事それ自体ハードルが高く、ホームレスで生きるというのもハードルが高い。基本的には保護者と呼ばれる人がいるその場所にしか居場所は無く、理由はどうであれ、未成年には逃げるという選択肢が無いに等しく、公に一人で生活をするという事はかなりハードルが高い。
自分の場合は未成年の時に家から逃げたいという事は無かった。それは幸いな事だったのだろうと、今更ながらに思う。
アキラはマンガ喫茶での受付を済ませたと同時に、受付横で売られている格安のカップラーメンを1つ買った。今日の夕食となるカップラーメンの蓋をその場で開け、ポットに入った無料で提供されている熱いお湯を注ぐと、お湯がこぼれない様に慎重に歩きながら、受付であてがわれた個室へと向かった。
個室と言っても2メートルにも満たない高さの薄い板だけで区切られているような部屋であり、上は吹き抜けの場所である。畳で言えば1畳強の部屋にソファと机があり、その机の上にはパソコンが鎮座している。マンガ喫茶の常連には、こういう場所を月極めで借りるという強物も多数いた。
アキラは個室に入ると、机の上に荷物とカップラーメンを置き、パソコンの電源を入れた。
そしてカップラーメンが出来上がる頃にようやく立ちあがったパソコンで、早速ウェブブラウザのソフトを立ち上げると、アキラが使うフリーメール機能のあるサイトを開いた。
フリーメールの受信ボックスには5件の未読メールがあった。4件はメールのタイトルで即座に分かるようなネットショッピング関連の案内メールであったので、内容も見ずに削除していった。残りの1件のタイトルは『杉本です。アキラ君へ。ご無沙汰です』とあった。
そのタイトルに書かれた名前と「アキラ君」という呼び方で、すぐにメールの差出人がアキラの前職である派遣先に於いて、仲の良かった元同僚だと気が付いた。元同僚といっても40歳という年上の独身男性だったが、数年間同じ現場で働き、アキラに対して丁寧に仕事を教えてくれた人物であった。アキラはその人に何がきっかけは思い出せなかったが、フリーメールのアドレスを教えていた事を思い出した。
瞬間、アキラは派遣先の寮から住民票を移していない事を思い出した。行政からの通知等も全て寮へ届けられるはずなので、ちょっとまずいなという事が頭をよぎった。
今アキラは健康保険や年金を払っていない。健康保険が無いのは正直不安はあったが払える余裕は無い。年金についてはホームレスのアキラにとってはピンと来ない。
そんな中、元同僚からのメールは何の話だろうと訝しみながらも、アキラはメールを開いた。
『アキラ君。お久しぶりです。お元気ですか?。というか私の事を覚えていますかね?(笑)。アキラ君がここの仕事を辞めて以来なので半年ぶりという事になります。2年間位の短いお付き合いで友達という訳でも無いのに、こうしてメールするのも悪いかなとは思ったのですが、状況が状況なのでメールさせて貰いました。終末通知の件、上司から聞きました。私よりも10歳以上若いアキラ君がなぜ? という思いがしました。こういう場合、なんと言えばいいのか分らないのですが、アキラ君と一緒に働いた数年間、本当にお世話になりました。君の残りがどれくらいなのか私はわかりませんが、最後の日まで充実した日々をお過ごしください』
「……ん? 何の話をしてるんだこの人は。宛先間違えて……ないな。アキラ君って言っているし。っていうかこっちがお世話になりましたって感じだけどな……」
元同僚はアキラがホームレスになっているとは全く知らない。寮に届いたアキラ宛の終末通知を、アキラの実家宛に転送したと会社側から聞かされていただけだったので、既にアキラが終末通知の葉書を見ていると思っていた。
会社側はアキラの携帯電話に連絡をしたが通じなかった。電話が通じない事に対して特に不審にも思っていなかった。仕事を辞めたのを機に電話番号を変えのかもしれない程度にしか思わず、終末通知を実家へと転送した事で良しとしていた。
「終末通知ってもうすぐ死ぬって宣告されるって奴だよな? その終末通知が俺宛に届いたって言ってるのか?」
アキラは確認せずにいられなかった。
『先輩。お久しぶりですアキラです。訳あって携帯電話を持っていませんのでメールの返信が遅れました。で、聞きたいんですが終末通知って、私宛に届いたって事ですか?』
アキラはそんな短いメールを元同僚に返信した。するとすぐに返信が返ってきた。
『ひょっとして終末通知の葉書見てないの? こっちの寮にアキラ君宛の終末通知の葉書が届いたからって、会社側からアキラ君の履歴書に書いてあった実家の住所宛に転送したって聞いたよ? 届いてないの? たぶん3週間位前の事だったと思うけど』
『先輩。実は今ホームレス生活みたいな事してて実家とも連絡取っていない状況でして。そうですか、自分宛に終末通知が届いて実家に転送してくれたんですね。了解しました。どうもありがとうございました』
元同僚にそんなメールを投げ終えると、アキラはウェブブラウザを閉じると共にソファの背を倒して身を委ね、薄暗い天井を見つめた。
「はー。終末通知かあ。もう無理して生きる事も無いって事かあ」
アキラは小声でそんな独り言を呟き目を閉じた。シャワーを浴びるつもりであったが、アキラはそのまま寝てしまった。
アキラがふと目を覚ますと、狭い空間の壁にかかっている時計に目をやった。時計の針は5時を指していたが、ソファに座ったままで十時間以上の間、1度も目を覚まさない事はないだろうと言う事で、それは朝の5時だと直ぐに認識した。
昨日の仕事が肉体的にきつかった事もあり、今日は仕事をしない予定だった。他にやる必要がある事と言えば、溜まった洗濯物をコインランドリーで洗うと言うぐらいであり、その後はいつもの公園付近の路上に於いて、ただただ寝るだけのつもりでいたので、アキラはもう一眠りをしようと目を瞑った。
そこでふと、今日行く予定のその公園では、早朝からボランティアによる炊き出しがある日だった事を思い出した。たかが1食分であるが、今のアキラにとっては、されど1食分。とはいえ、下手をすればその公園まで歩いて行く事で、その炊き出し分のカロリーを消費してしまい、食べる意味が無いかもしれないという計算が頭の中で働いた。
このまま睡眠を取るか、それとも炊き出しを取るか。
そんな事を悩んだ結果、わずかに食欲が勝利し、アキラは今ならまだ間に合うと、炊き出しが行われている公園に行く事にした。
ソファで座ったまま眠ったせいか、あちこちが軋むような軽い痛みを覚えつつも、おもむろに立ち上がり、唯一の荷物である大きいスポーツバッグを斜め掛けに部屋を出て、精算を終えた後にマンガ喫茶を後にした。そして夜が明けて間もない、まだ人も殆どいない早朝の街を、アキラは一人、公園へと向かって歩きだした。
歩きながらも頭の中では、昨晩知ったもう直ぐ自分が死ぬという話を思い出していた。現実味の無いその話がぐるぐると頭の中を回り続けながらもアキラは一人歩いて行く。
途中、お腹をグゥグゥと何度も鳴らしながら1時間近く歩いたアキラは、炊き出しが行われている公園へと到着した。炊き出しは既に始まっていて、配膳が行われている長机の前には、50人近くが2列になって並び、アキラはその列の最後尾に並んだ。
炊き出しの列に並んでから数分後、ようやくアキラの順番になった。今日の炊き出しはけんちん汁とおにぎり1個というメニューだった。
アキラは湯気の立つけんちん汁と割り箸、そしておにぎり1個を受け取ると、どこで食べようかとキョロキョロと公園内を見渡した。すると、少し先にある横長のベンチがアキラの目に留った。そのベンチには男性が1人だけで座り、炊き出しのプラスティック容器を手に持っていた。アキラはそのベンチに向かって、手に持った熱々のけんちん汁が零れない様に、ゆっくりと歩いて向った。
「横、失礼します」
「あ、はい。どうぞ……あれ? アキラ君?」
「あ、伊藤さんか。久しぶりですね。横座りますね」
「元気そうでなにより」
「え……。ああ、まあ元気は元気ですけどね……」
アキラはベンチにおにぎりを置き、近々に死ぬ自分が空腹を覚えるという事に違和感を抱きつつも、割り箸を割りけんちん汁を食べ始めた。
特に会話も無く、伊藤とアキラの2人は黙々とけんちん汁を食べていた。不意にアキラは食べていた手を止め、地面を見つめ始めた。
そんなアキラの不審な様子に「どうかしたの? 具合悪いの? ひょっとしてけんちん汁は好きじゃないとか?」と、伊藤が冗談ぽく聞いた。
「え? ああ、いえ、美味しいですよ」
「そう。でも元気ないね。体調でも良くないの?」
「……実は自分宛に終末通知の葉書が届いたらしいんですけどね」
「終末通知? それっていつ死ぬとか書いてあるとかいう葉書の事?」
「ええ。自分は携帯電話も持っていないので昨日まで知らなかったんですが、前の職場で住んでいた寮にその葉書が届いたって事をメールで知ったんですよ。メールって言ってもマンガ喫茶に置いてあるパソコンからアクセスしたフリーのメールなんですけどね。そのアドレス宛に届いた前の職場の先輩からのメールに、終末通知の葉書が届いたって書いてありました。で、その葉書は実家の方に転送したって書いてありました」
「その話って本当なの? 終末通知が届いたなんて話」
「まあ、教えてくれた人は嘘つくような人じゃないから、多分本当の話なんだろうなとは思います」
「そう。それは気の毒に……。それでアキラ君はこれからどうするの? ってあんまり、こういう事を聞くのはちょっと踏み込みすぎかな。ごめん」
「ああ。別にいいですよ。人に知られた所で今更何かある訳でもないですしね」
伊藤はアキラのそんな言葉に苦笑いで答えた。そしてけんちん汁とおにぎりという、満腹感を得るには程遠い量のそれらを食べ終えると、アキラは遠くを見つめながら再び口を開いた。
「結局、私は今まで何の為に生きてきたんですかねぇ」
「ん? どういう事?」
「ちょっと極端かもしれないですけど、大卒であれば社会人になるまでの22年間、社会人になる為に勉強してきた訳じゃないですか? で、いきなり社会人になって働きだして、まあ結局ドロップアウトみたいにホームレスになりましたけど……。それでも日雇いで働きながらも、今もこうして生きている訳じゃないですか? でもって、もうすぐ死ぬって事ですよね? なーんか、そんな私の人生って奴には何の意味があったんですかねぇ」
遠くを見つめながらそんな事を言うアキラに対し、伊藤は何と言えば良いのか分からなかった。
アキラは今日を含めて2回しか会った事の無い自分と同じホームレスの伊藤に対し、何故にこんな話をしているのだろうと不思議に思った。
逆に良く知らない相手であり、何度も会う事が無い相手だからこそ話したのかもしれない。もしかしたら誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。話した事で何だか気が楽になった気もする。何か答えを求めて話したつもりもない。こういうのも相談というのだろうか。思えば人に相談するなんて事はなかった。案外、もう会う事もない、良く知らない、そうそう会う事が無い人に話すというのは、良いのかもしれないな。
アキラはふと、そんな事を思った。
「伊藤さんは何を目的に生きてます?」
「目的?」
「ええ。生きる糧というか、生き甲斐というか。ホームレスになる前とか、ホームレスになった今とか。ああ、勿論話したくなければ良いんですけど」
アキラに『生きる糧』『生き甲斐』と聞かれ、伊藤は咄嗟には思いつかなかった。今まで生きてきた50年に於いて、そんな風に考えた事も無く、改めて考えてみた。
10代の頃はどうだったかな。ただただ学校に行く事を目的に生きてきた。
20代の頃はどうだったかな。ただただ働く事を目的に生きてきた。
30代の頃はどうだったかな。家族を得て、家族を養う為に生きてきた。
40代の頃はどうだったかな。リストラされる迄は家族を養う事だったが……。
そしてホームレスとなった50代の今現在、特に目的も無く、ただただ明日の食事と今日の寝床の心配だけをしながら生きている。『生きる糧』と聞かれると正直思いつかない。30代や40代の頃なら家族が『生きる糧』と言えたかもしれないが、それは自ら棄ててしまった。改めて考えると自分には何も無い。
「生きる糧かあ。正直、今は思い着かないですね。思いつかないというよりは無いのかな。ホームレスになる以前は家族の事が生きる糧といえば、生きる糧だったんですが、それも自分から棄ててしまいましたしね。そうですねえ……。私は何故、今生きているんですかねえ……」
伊藤は食べ終わったプラスティック容器を見つめながら、ぼんやりとした口調で言った。
「案外、今の伊藤さんや私にとっては難しい質問なのかもしれませんね……」
「そうかもしれませんね……」
「私や伊藤さんの事は置いておくとして、ここにいる他のホームレスの人達って、何の目的で生きているんですかね? 単純に行政やら社会から束縛されたくないっていうだけで生きているんですかね? 後は、いつか来る『寿命』ってやつを待っているだけなんですかね? それを『生きる糧』に、冬になったら凍死するかもしれない路上生活をし、日雇いやボランティアの炊き出しで命を繋ぎながら頑張っているんですかね?」
「うーん。どうだろうね。『寿命』を待つのが『生きる糧』って事もないだろうけど。単に手にした少ないお金で好きな酒を飲んで過ごすとか、単純な物かもしれないね。因みにアキラ君は何かやりたい事とか無かったの?」
「やりたい事ですか? そうですねえ……やりたい事は特に無かったですかね。なりたい物はあったといえばあったかな」
「なりたい物?」
「ええ。大学に居た頃は地方公務員になりたかったかな。公務員になって何かしたいって訳じゃ無くて、安定を求めての公務員志望でしたけど。結局、公務員にもなれずに、社会人と呼ばれる様になってからは、とりあえず正社員ってやつになりたかったですかねえ。あはは」
「正社員?」
「ええ。私、公務員試験に落ちた後は、就職活動を始めて30社近く受けたんですけど全部ダメだったんで、派遣の会社に登録して働いていたんですけど。そういうのって将来というか、先が見えないじゃないですか? なので規模はともかく正社員として職に就きたかったなあって」
「ああ、そうなんだ。まあ、そうだね。正社員を雇うのは会社としてもリスクになるから、会社としても多くは取れないから難しいよね」
「正社員がリスクですか?」
「うん。日本だと海外みたいに社員をすぐには解雇とか出来ないじゃないですか? 正社員だと仕事が無くても給料は払わないといけないですし、社会保険やらの負担も必要になってくるし、退職金も積み立てておかないといけないしで大変なんですよね。社員1人当たりの原価がとっても高くつくんですよ。それでも幹部候補社員とかは必要だから新卒として正社員を取って育てるって事もしますが、育てるっていうのは投資ですからね。いつその人が辞めてしまうかも分からない博打みたいな面もあるんですよね。
契約社員とかであれば、そういうのも必要無いですしね。スキルを持った人を契約社員で雇うというのは会社にとっても都合いいですしね。そういう負担の発生しない契約社員とかなら会社の不測の事態でも融通が利くしね。勿論そういう契約社員で出来る人がいればそのまま社員になって貰うって事も考えるけどね。
普通の業務を人並みに出来る程度の人であれば、社員として雇うよりは契約社員として一時的に来て貰うって方が会社としては楽かな。アキラ君も経営に携わる様になれば、その辺の事は理解できるとは思うけど」
「あれ? 伊藤さんて経営者だったんですか?」
「いえ、人事の部署で働いてました」
「それでも雇う側ですね。じゃあ給料上げろなんて人がいたら諌めたりするんですか? 逆に自分の給料上げろって思わなかったんですか?」
「思わなくも無かったですけど、基本給を上げると固定経費が上がるって事で会社としてはリスクですしね。やはりそういうのはボーナスで反映するっていうのが会社としては安全ですね」
「伊藤さんはリストラされたんですよね? それでも会社側の肩を持つんですね」
「会社側の肩を持つつもりも無いんだけどね。まあ、こういうのは経営側の視点で見ると分るものだろうね。自分の原価を知るって事も必要だと思うし、やはり経営って大変だと思うよ。会社を将来背負う様な幹部候補の社員以外は、フリーランスの人とか、契約社員が良いというのが会社としては理想じゃないかな」
「幹部候補?」
「そう。将来は会社経営に携わるような人。自分で考え決断し行動できる。能動的な人間。誰でも出来る事とか、言われた事しか出来ないとか、将来は機械化出来るような職に対して正社員はいらないかな。まあ面接でそういう人を見つけるのも大変だけどね。私が元居た会社が傾いたのは、仕事そのものが減ったというのが主な原因だったけど、そういう能動的に動くというか、会社を引っ張るような人があまりいなかったという面もあったかなと、今なら思うよね。勿論私を含めてですけどね」
「能動的かあ。そう言われると何か不思議だなあ。学校では服装とか行事やら命令されるばかりだったのに、社会人になったら自分で考えろって感じだもんなあ。今から思えば過去の偉人の肖像画の名前を当てるテストとか、何年に何があったなんてテストって下らないなーって思うな。何の意味があったんだろ」
「面白い見方ですね。まあ学生時代は、日本の社会人になる為の投資って事なんでしょうね。確かに私も学生時代は服装やら行事やらをキチっと命令されて、そのままに実行していた記憶がありますね。自分の意思とかは持つなというか、言われた事だけやれって感じで。うーん。確かにそうかもしれませんね。途中からは自分の意志で物事を判断しろって雰囲気になっていった気もしますね」
「それならいっその事、ここに住んで、ここで働けって命令された方が楽だったなあ。そうすれば就職活動なんていう、きつい思いもしなくて良かったのに」
「なるほど。まあ、そういう社会主義的というか、社会体制の方が合っているっていう日本人は多いのかもしれませんね。そうすればホームレスなんて居なくなるのかもしれませんね。まあ世界的に経済競争している訳だから、そういう社会がそうそう成り立つとは思えませんが」
「まあ、そうですかねぇ。でも日本って不思議じゃないですか? 例え成人になっているからといっても、場所にもよりますけど働くにも身元保証人が必要だったり、家を借りるにも保証人が必要だったり、金を借りるにも保証人が必要だったりするじゃないですか? 私が最初働く時も親に保証人になってもらいましたし。一度ホームレスになっちゃったら、そうそう保証人なんていませんよね?」
「確かに、日本人は保険が好きと言うか、年齢を重ねる毎に保証がないと動かない人種と言えるのかもしれませんね。保守的とでも言うのでしょうかね? その考えは私も理解できますけどね。そして一度落ちると這い上がる事がとても難しい。失敗を取り戻す事が難しい。だから保守的にもなるという感じでしょうかね? とりあえず家に関しては、ホームレスであったとしても自治体に生活保護を申請すれば、支援する団体が保証人になってくれるケースもあるようですから、家は何とか確保できるんじゃないでしょうかね? さすがに借金は無理でしょうけど」
「ふ~ん。まあ、今更ですけどね。は~あ、終末通知かあ。ホームレスになり始めた時に自殺する事も考えた事はあったけど、30歳で寿命って事で死ぬとは思わなかったな」
「自殺?」
「ええ。そうはいっても漠然と思っていたって位ですけどね。そもそも死ぬのはいつでも出来ると思ってましたし。まあ何か悪事を働いて警察に拘束されていなければの話ではありますけどね。あーでも警察の拘置所なんかでも自殺したなんて話も聞いた事ある訳だから、出来ない事はないんだろうな。伊藤さんは自殺とか考えた事はないんですか? あ、暗い話になっちゃいましたね」
「別にいいですよ。う~ん、自殺かあ。考えた事はありますけど、私が自殺で死んでしまうと、更に家族に迷惑がかかりそうって思っちゃいましたね。なのでその選択肢は、今は持ってないですね」
「家族への迷惑かあ。まだピンと来ないですね」
「アキラ君は実家に帰らないんですか?」
「実家かあ。どうしようかな」
「こんな事いうのもなんですが、終末通知を貰ったなら安楽死を選べると聞いた事がありますよ」
「安楽死ですかあ。そうですねえ。そういうのも良いかもしれませんね」
アキラは虚ろな目で遠くを見ている。
「それに親には一目だけでも会っておいた方がいいかとは思いますよ。なんて、家族を棄てた私が言うのもなんですけどね。最後に一目会っておく、顔を見せておくっていうのは、きっと良い事なんだと思います」
伊藤と別れた後、アキラは5キロ程離れた駅へと向って歩いていた。伊藤に言われたからという訳では無いが、実家へと帰る事を決めた。
5キロと歩かずとも近くに駅やバス停はあったが、現在のアキラの所持金では実家までの電車賃が心もとない状況だった為、少しでもお金を節約するために、離れた駅まで歩く事を選択せざるを得なかった。
大きいスポーツバッグを斜め掛けにしたままに2時間弱の時間を歩き続け、ようやく駅へと到着したアキラは、切符を現金で購入し改札を抜け、少し汚れた綿のシャツと、4日風呂に入らず着替えてもいない自分から、何か臭わないだろうかという事を気にしつつも、駅へと滑り込んできた快速電車に乗り込んだ。
アキラの実家は千葉県鎌ヶ谷市。アキラは実家のある千葉県の隣の東京でホームレス生活をしていた。
快速電車を含む2本の電車を乗り継いで約40分。実家の最寄り駅である鎌ケ谷駅へと到着したアキラは、駅から歩いて2キロ程の距離にある実家へと向かって、まっすぐに歩き出した。
一歩一歩実家へと近づく度に、アキラの足取りは重くなっていった。数年振りに会う両親に何と言えばいいのかと考えていた。
結局何と言えばいいか分からぬままに、アキラは実家の前に到着した。が、家には入らず、数年振りの実家を前に佇んでいた。
アキラの目に映る実家の様子は以前と何も変わっていなかった。家の敷地の隣にある駐車場には、父親の軽自動車が停まっている事から、父親が家にいる事が推察できた。
アキラは半年に一度程度は、メールや電話で母親とは連絡を取っていたものの、一昨昨年を最後に実家に帰っていなかった。
何と言って家に入ればいいのだろう。両親と顔を合わせたら何て言おう。両親からは何と言われるだろう。どんな表情で親と顔を合わせれば良いんだろう。
アキラが呆然と家を見つめながら立っていると、不意に実家玄関の扉が開いた。
「アキラ? アキラなの? 何、ちょっと、帰ってきたのっ!? そんな所で突っ立てないで早く家に入んなさいっ」
アキラの母親は夕食の買い出しに行こうとしていた。そこへ突然、半年間音信不通だった息子が現れた。母親はアキラに駆け寄り、まるで逃がさないとでも言うような強い力でアキラの腕のギュッと掴み、アキラに一言も言わせないままに力づくで家の中へと引っ張っていった。
腕を掴まれされるがままに家の中へと引っ張られたアキラは、数年振りの還暦を間近に控えた母親の顔が、最後に会った時よりもだいぶ老けたなと、そんな事を思っていた。
「お父さーん! アキラが帰ってきたわよーっ!」
母親は玄関口から家の中に向かって叫んだ。するとすぐに家の奥からドタドタと足音を立てながら父親がやって来た。農協で働く父親は今日が日曜日だった為に家にいた。そして玄関口に立つ母親とアキラの前に立ち、軽い笑みを浮かべつつ口を開いた。
「おかえり。元気そうだな。ま、早く上がんなさい」
「……ただいま」
アキラは風呂場でシャワーを浴びていた。数日分の髭を生やし、薄汚れたシャツを着て戻ったアキラを、母親はすぐに風呂場へと引っ張って行った。まだ昼間という時間であった為に湯船は張っていなかったものの、とりあえずシャワーだけでもという事で、むりやり連れて行った。
アキラはシャワーを流しっぱなしの状態で頭と体を念入りに洗う。その間に、母親はアキラが着ていた衣類を含め、所持していたスポーツバッグを勝手に開け、中に詰め込まれていた全ての衣類の洗濯を始めた。
父親も母親もアキラがホームレス生活を送っていた事は知らない。家に戻ってきた時のアキラの所持品は薄汚れたスポーツバッグ1つ。そのスポーツバッグに詰め込まれた衣類の汚れやほつれといった痛み具合、そして家の前で立ち竦んでいたその姿から判断するに、ホームレスといった不憫な暮らしをしていたであろう事は容易に想像できた。
行く場所が無いのであれば直ぐに実家に戻ってくればいいのに。この家が戻るべき場所と思ってくれていなかったのだろうかと、そう母親は思うと同時に、少し悲しくなった。
アキラは3,4日に1回の頻度でシャワーを浴びていた。時には銭湯へも行っていた。とはいえ、マンガ喫茶のシャワーには時間制限があった。石鹸もシャンプーも節約するようにしていた。
だが今はシャワーは浴び放題、石鹸もシャンプーも使いたい放題。アキラは思いっきり泡だてながら頭と体を2回づつ洗い、その場に置いてあった父親のT字の髭剃りとシェービングクリームを使い、4日分の髭を剃り落した。アキラは30分という長い時間、お湯を堪能するかのようにシャワーを浴び続けた。
アキラが浴室から出ると、脱衣場の洗面台横に綺麗なバスタオルと下着、そしてアキラが家に置いていったパジャマが置いてあった。
ホームレス生活をしていた時には、汚れの残るカビ臭いタオルで拭くしかなかったが、アキラが手にしたバスタオルは真っ白で、香料入り洗剤の香りが少しだけ残る清潔なタオルだった。
家にいた頃にはバスタオルの綺麗さに気付く事すら無かった。だが今はそんな小さい事に気付くと共に少しだけ感動を覚えつつ、バスタオルで体を拭きあげ、下着を身に着けパジャマを着て、湿ったバスタオルを頭に被ると、おもむろに居間へと向かった。
居間と言っても6畳が二間続きの部屋であり、畳の上に直接座る和風の居間である。居間の中央には直径1.5メートル程の丸い木製テーブル、いわゆるちゃぶ台が置いてあった。そのちゃぶ台を前に、父親が近くに置いてあるテレビを何の気なしに見ていた。
アキラは父親の正面より少しずれた位置へと座った。テレビを見るには体ごと捻らなくてはならないが、父親の正面はおろか、すぐ隣に座るのも気恥ずかしかった。そこへ、3つのコーヒーカップを乗せたお盆を手に、母親が台所から居間へとやってきた。
母親は父親とアキラの間に正座するかのようにちょこんと腰を下ろし、お盆の上の3つのコーヒーカップをちゃぶ台の上、父親とアキラ、そして自分の前へと置いた。父親はすぐにコーヒーカップを手に取り一口飲むと、溜息をつくように深く息を吐き、「もう知ってるか?」と、アキラの顔を見ながら聞いた。
アキラはちゃぶ台の上、目の前に置かれたコーヒーカップを居心地悪そうに黙って見つめていた。音信不通だった半年間の事を聞かれるのかと思いきや、いきなりの本題だった事に少しだけ動揺した。
「……ん? ああ、終末通知の件なら知ってるよ。前の仕事場の人にメールで教えてもらった」
「メール? お前の携帯電話は止まってるんじゃないのか?」
「携帯電話じゃないよ。マンガ喫茶のパソコンでフリーメールを時々使ってるんで、そのアドレスに来たメールの事」
「そうか。うちに終末通知の葉書が転送されてから、どうにかしてアキラと連絡を取ろうとしたんだが、携帯は繋がらないしで連絡方法が無くてな。一応、警察にはアキラの捜索願は出していたんだけどな」
「じゃあ捜索願は取り下げておいてよ」
「そうだな。今日にでも警察に言っておくよ…………で、どうする?」
「どうするって何が?」
「家で最後を迎えるか?」
「……安楽死をするかって事? そもそも安楽死ってどうやるの?」
「それについてだが、実はここから2キロ位の所に終末ケアセンターって場所があってな、そこで安楽死を行えるらしいんだが、とりあえず話だけでも聞きに行かないか?」
父親はそう言って、脇に置いてあった終末通知を手に取ると、アキラに対して「これを見ろ」とでも言うように、ちゃぶ台の上に差し出した。
アキラが初めて目にした終末通知は圧着ハガキであり、実家に転送された直後に父親が開いていた。
『あなたの終末は 20XX年11月 3日 です』
今日は10月31日。見開いた葉書の中には、アキラの命が消える日まで残り3日を意味する日付が記載されていた。
「うわっ、あと3日か……。いっそこんなの知らずに勝手に死んでた方が気が楽だったかもしれないなあ……」
アキラは苦笑いしながら呟いた。アキラのそんな言葉に、父親と母親は何も言わなかった。
「は~あ。まあ、今更どうでもいいけど、そのなんとかセンターって場所に行ってみるよ」
アキラは居間の天井を仰ぎ見ながら力なく言った。
アキラは2階の自分の部屋へと向かった。派遣会社の寮住まいとして家を出てはいたが、アキラのその部屋はそのままにしてあった。
8畳1間のその部屋は、カーテンが閉じられていたものの、昼間とあってか照明を点けずとも部屋の中は明るかった。
部屋の中は常日頃から母親によって掃除されていた。その甲斐あって綺麗に保たれており、畳の上に直接置かれたマットレスだけのベッドも綺麗に整えられていた。
事務机といった灰色の机の上には、母親がアキラの衣類全てを洗濯する際に見つけた財布が置いてあった。財布といっても、缶コーヒーが1本買えるだけの小銭と、唯一の身分証明書と言える運転免許証だけが入っていた。
アキラは洋服ダンスの扉を開け、中から家に置きっ放しだった古い洋服を取り出し、パジャマを脱ぎ捨てるとそれに着替えた。そして机の上に置かれていた財布をズボンの後ろポケットに入れ、部屋を後に1階へと降りて行った。
玄関口へ向かうと、母親が扉を開けたままに外でアキラを待っていた。
玄関にはアキラが履いていた薄汚れたスニーカーは無く、古くはあったが昔履いていた綺麗な黒いスニーカーが置いてあった。母親はアキラの衣類を洗濯ついでにスニーカーまで洗っていた。アキラはその事に感謝する事無く、「もうすぐ死ぬのに靴を洗っても意味なんて無いのに」と、口には出さないものの、溜息をつきつつ、スニーカーの靴紐を結んだ。
アキラが外に出ると、母親は直ぐに玄関の扉を閉めると同時に鍵を掛けた。アキラは家の前の道路を何の気なしにぼけっと見ていたが、母親はそんなアキラの背中を押すようにして、家のすぐ隣の駐車場へと向かった。
駐車場に停めてあった軽自動車には既に父親が乗り込み、エンジンをかけた状態でアキラ達を待っていた。
アキラは助手席、母親は後席へと乗り込み、2人がシートベルトを締めたの確認した父親は、「じゃあ出るぞ」と一声かけると同時に車を発進させた。
エンジン音だけが車内に響き渡る車が走る事およそ10分。アキラ達3人は終末ケアセンターへと到着した。
父親は併設されている駐車場に車を入れると、場内の白線に従い車を駐車した。3人は停車した車から無言で降りると、終末ケアセンターの玄関へと向かって、父親を先頭におもむろに歩いて行った。
終末ケアセンターの建物はアキラも見覚えがある建物だった。建物に面する道も実家にいる頃はよく通った道でもあった。だが付近にはそれが何の建物かを示す標識等は一切見当たらず、「立派な建物だが何の施設だろう」といった程度にしか思っていなかった。
だが今にして思えばそれも納得がいった。それが「終末」という忌避しそうな言葉が付く名前の建物だと知れば、実際の所はどうであれ、それを忌避する意味でも看板や標識などに表示していないのだろうとアキラは想像した。
そして今、玄関の手前までやってきたアキラ達3人の目の前には、もう少し古びていれば史跡とでも言えそうな、総石造りと見紛う3階建ての大きい建物が建っていた。一見、西洋の神殿を思い起こさせるような石柱が建物の周囲をぐるりと囲み、その頭上を屋根瓦で覆うといった和洋折衷の建物。
道路に面した玄関は、低めの段差と奥行きの長い5段の階段を上った先にあり、アキラ達3人は父親を先頭にその階段を1歩1歩ゆっくりと上った。そして全面ガラスの玄関口までやってくると、両引き戸の自動ドアがゆっくりと開き始めた。
音も無くスーッと開かれた自動ドアを通って3人が中へと入ると、そこから10メートルほど離れた正面の上部に「受付」と書かれたブースが目に留まった。
横幅約5メートルといった素っ気無いそのブースには、制服と思しき明るいグレーのブラウスに濃いグレーのリボンタイといった装いの2人の女性が座っていた。
2人の女性は玄関口のアキラ達に気付くと、座ったままの姿勢で3人に向かって軽く頭を下げた。それを見た父親と母親はすぐに軽く頭を下げたが、アキラは受付の女性をただ見ていた。そして3人は、2人の女性が座る受付へとまっすぐに向かった。
受付の前までやってきたアキラ達3人に対し、2人の女性は「いらっしゃいませ」等と声をかけるでもなく、ほんの少し口角をあげた表情で以って3人を迎えた。
「あの、息子が終末通知の葉書を貰いましたもので、こちらに来たのですが」
父親はそう言うと、手にしていた終末通知の葉書を受付の女性に見せた。
「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」
受付に座る女性はそう言って、どこかへと電話をかけ始めた。その姿を尻目に、父親とアキラは、終末ケアセンターの建物内を手持無沙汰にぼんやりと眺め始めた。
母親は大理石の床をジッと見つめていた。何らの賑わいを見せないその建物は想像以上に質素で味気無く、それが却って、もうじき息子が亡くなるのだと言う事を連想させた。
高い天井の受付付近には、受付に座る女性のか細い声だけが静かに響き渡る。荘厳な雰囲気に気圧される。空気が重いと感じる。それら全てがもうじき息子が亡くなるのだと言う事を更に連想させた。
アキラ達が受付付近で待つ事数分。コツ、コツと、ゆっくりとした足音が響いてきた。その足音は徐々にアキラ達の方へと近づき、アキラ達3人の1メートル手前まで来て止まると、3人に向かって恭しく頭を下げた。
「初めまして。私、井上正継と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
整えられたショートヘアに銀縁眼鏡、濃いグレーのスーツとそれより薄いグレーのネクタイを着用し、スーツの上からでもすっきりとした体躯が見て取れる、アキラよりも少し年下と思しきその男性は、手に持っていた3枚の名刺を父親、母親、そしてアキラのそれぞれに向かって両手で差出した。
井上は終末通知の件で来た人を担当する終末ケアセンターの職員である事、職務としてはカウンセラーのような立場であると、3人の顔を見廻しながら説明した。
簡単な自己紹介を言えた井上は「では、こちらへどうぞ」と、3人を先導するように受付横の廊下を歩き始め、父親を先頭にアキラと母親がそれに続いた。
そしてアキラ達3人は、部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという、秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの中に、銀色に鈍く輝くステンレスで出来た長方形のテーブルと、そのテーブルを挟んで3つづつの計6つのステンレス製の椅子が置いてあるという質素で簡素な打合せルームへと案内された。
部屋に入った直後、アキラは正面の大きいガラス越しの庭に目を留めた。ガラス越しの向こう側には、綺麗に整備された一面芝生の庭が広がり、3階にも届きそうな高い木が奥も見通せない程に沢山生えていた。そして一面芝生の地面には、多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。
所在なさげな父親と母親、そしてぼんやりと庭に目を取られていたアキラに向かって「そちらにお座りください」と、井上が声を掛けつつ向かいの椅子を手で指し示すと、アキラ達3人はそれに従い、井上の向かいの椅子へと腰掛け、それを見届けた井上も椅子に腰かけた。
「では最初に顔写真付きの身分証明書となる物と、終末通知の葉書をご確認させて頂いて宜しいでしょうか? 万が一にも別人の方と言う事が無いように、確認が必須となっておりますので」
井上の言葉に、父親は手に持っていた終末通知をテーブルの上、井上の方へと向かって差し出した。アキラはズボンの後ろポケットから財布を取り出し、中から免許証を取り出すと、終末通知の横に並べるようにして、井上に差し出した。
差し出された終末通知の葉書と免許証を前に、井上が「拝見させて頂きます」と一言いって手に取り目視で確認すると、持参していたタブレット端末のカメラで、終末通知の葉書の見開いたページの中に記載されているバーコードを読み取った。
「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」
井上は笑顔でそう言って、終末通知の葉書と免許証をアキラに返すと、タブレット端末をアキラ達3人に見えるように傾けた。そのダブレットの画面上にはグラフデータが表示されていた。
「この終末通知を受け取った方の中で、実に2割近くが悲観して飛び降り等の自殺をしてしまうようです。1割位の方は自暴自棄になり事件を起こすという事例もあるようです。又1割近くの方はこの葉書が届かないか見ていないかのようです。
それ以外の方の多くが、とりあえず終末ケアセンターにお越し頂いて、私達職員とお話させて頂いております。お話をさせて頂いた内訳では、40代位までの方で奥様や小さいお子様がいらっしゃる方は、終末日近くまでご夫婦で過ごし、直近にこちらの施設にきて安楽死を望まれる方が多いですね。ご高齢のご夫婦の方ですと、ご自宅で最期を迎えたいと仰る方が多いですね。
単身者の男性の場合、年齢関係無く、早急に安楽死を選択する方が多いですね。女性の場合ですと、ぎりぎりまで旅行や食事等を経験した後に安楽死をするという傾向でしょうか。それ以外で言えば、経済的に厳しい方は早めに安楽死なさる傾向にありますかね」
父親と母親の2人は井上の滑舌の良い淡々とした説明を黙って聞いていたが、「それって俺が死ぬ事に関係あるんすか?」と、アキラは一見自分より年下の公務員に敵意でも持っているかの如く、井上を凝視しながら口を挟んだ。
「どういう事でしょうか?」
「俺の命は後3日なんすよ? あなたが死ぬんじゃないんですよ? 他の人がどう過ごしたかなんてどうでも良いんですけどね」
そんなアキラの物言いに、「ちょっとアキラ」「アキラ。黙って聞きなさい」と、父親と母親はアキラを制止しようとしたがアキラは続けた。
「後3日で何しろってんですかっ!」
「アキラっ!」
アキラは初めて父親に怒鳴られたなと、怒鳴られた事よりそちらの方に驚き、渋々、口を噤んだ。
「何故このような事をお伝えするのか、ですか? そうですね、折角こちらにいらした頂いた訳ですし、他の方達の事を聞いた上で、残りの時間をどう使うかの参考として頂くという事で、良くも悪くもお伝えしている、と言う事ですかね」
アキラは不貞腐れるように、何も言わずに天井を見上げた。
「では、説明を続けさせて頂きます。終末通知が発行された段階で、クレジットカード等の信用取引は出来なくなっておりますのでご注意ください。今後は現金取引のみとなります。口座引き落としのカードでしたらご利用なれます」
井上のその言葉に、「あー、それなら大丈夫です。残高不足が原因でだいぶ前からカードは停止されてますんでぇ」と、天井を見上げたままに、アキラは自嘲気味に言った。
「そうですか。では問題なさそうですね」
その井上の言葉に、アキラは心の中で舌打ちをした。他人事みたいに言いやがってと、死ぬのは俺なんだぞと、心の中で罵った。
「とりあえず、そんなのはどうでも良いんすよ。聞きたいのは安楽死についてなんすけどね?」
「ああ、はいはい。では安楽死の説明になりますが、国が定めた方法は服毒になります」
服毒という言葉に母親は「えっ? 毒ですか?」と、目を見開き聞き返した。
「あっ、毒を服用すると言ってもマンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで苦しみもがいて亡くなるという事ではありませんよ。苦しんでしまうようでは安楽死とは言えませんからね。では少々お待ち頂けますか?」
井上はそう言って席を立ち、1人部屋を出ていくと建物の奥の方に消えていった。
数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に、井上が打合せルームへと戻って来た。井上は木箱をテーブルの上に置きつつ椅子に座ると、アキラ達3人に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。
井上が持って来た木箱は高級そうではあるものの、使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には、中身が入っていない事が傍目で分かる、薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの中で横になって入れられていた。
アキラ達3人は不思議そうな眼でそれを見つめていた。
「こちらが安楽死の為の飲料となります。終末通知を受け取った方が、自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要なため、終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に永富明様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」
「とりあえずそれを飲めば苦しまずに死ねるっていう事すか?」
アキラは興味無さげに質問した。楽に死ねるなら何でもいいと、今更どうでもいいと、表情が語っていた。
「はい。苦しみは一切ありません。こちらを服用直後、強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが、良いお顔で亡くなっていかれました。ただ解毒剤も無く、即効性がある物ですので、服用後は後戻りは出来ませんけどね」
「ふーん、そうですか。まあ、ただで楽に死ねるってのは魅力だな。ははは」
アキラはどこか他人事のように返事をすると同時に、肩の力が抜けた気がした。アキラも自殺を考えた事があった。路上生活に於いて、車に向かって道路に飛び出しさえすれば全てが終わると考えた事が無くも無い。だがいつもその後の事を考えてしまう。考える必要は無いはずなのに考えてしまう。
自分を轢いてしまった人はどうなるのだろう。そんな自分の遺体を引き取りに来るであろう親はどう思うのだろう。どんな表情で無残な姿の息子を見るのだろう。
そんな事を考えた。それに加えて怖いという気持ちもあった。ほんの一瞬の出来事が怖いと感じた。その小さな一歩を踏み出す勇気がなく、行動に移す事は無かった。
だが今アキラに提示されたそれは、合法的にそれを飲むだけで何らの苦痛なく、誰にも迷惑をかけずに死ねるという物。苦痛なく死ねる事が保障されているというそれは、現在のアキラにとっては最高に有難いものだなと思えるものだった。
その後アキラ達3人は、当然匿名ではあるものの、自分以外の終末通知を受け取った人達の話を井上から聞かされた。というより一方的に井上が話し続けた。
「何か質問等あれば何でも聞いてください」と、ひとしきり話を終えた井上が笑顔で言ったその言葉に、「じゃあ今すぐ、そのワイン飲もうかな」と、アキラが軽口を叩くように言った。
「ちょっ! 何言ってんのアキラっ!」と、冗談か本気なのか分からないアキラの言動に母親は驚きの様子を隠せなかった。
母親からすれば、息子が死ぬと決まっているとは言っても、今すぐなどとは幾ら何でも心の準備が出来ていない。そもそもそんな準備など出来るとは思わないが、それでも今は違うと、隣に座る息子を目を見開き見つめた。
「でもどうせ後3日しかないんだから、今飲んでもいいんじゃないの? またここに来るのも2度手間だしさ」
そこへ「まあまあ」と、井上がアキラと母親の間に割って入るかのように口を挟んだ。
「当施設では今直ぐでも可能ではありますが、残りの限られた時間を御家族とギリギリまで過すというのも良いかと思います。当施設は時間の制約はありますが、365日稼働しておりますしね。今すぐなどと急ぐ必要は御座いませんよ?」
「そうだな。今日はとりあえず家に帰ろうか。アキラもそれで良いだろ?」
「……まあ別にいいけどね」
父親の言葉にアキラは渋々ではあるが承諾した。アキラとしては今すぐ飲んでも良かった。残りは3日。気分としては既に終わっていた。
アキラの言葉を合図にしたかのように、「じゃあ、今日はこれで帰ります」と父親が席を立つと、母親とアキラも遅れて席を立った。井上もすぐに席を立ち、すぐさま打合せルームのドアへと駆け寄り、アキラ達3人の方を向いて「どうぞ」と言いつつドアを開けた。
父親を先頭に3人が部屋を出ると、そのまま玄関口へと向かった。井上は3人の後を追うようにして玄関口の外まで付いて行った。
「それでは永富様。私はこれにて失礼いたします。尚、こちらで行う安楽死に於きましては、終末を迎えるにあたっての一つの選択肢でしかありませんので、より最善の最後を選択の上、ゆるりとお過ごしください」
玄関口を背に井上は笑顔でそう言いつつ頭を下げ、アキラ達3人を見送った。
そんな井上を尻目に、アキラはふと、井上に対してきつい言動をしてしまっただろうかと思った。
もしかしたら自分は公務員である井上に対して嫉妬していたのかもしれないなと、自分がなれなかった公務員という井上が羨ましく、あのような言動をしてしまったのかもしれないと思うと、少しだけ後悔した。
アキラ達3人が駐車場に停めてある車に乗り込むと、早々にその場を後にし自宅への帰路についた。
「ねえ、今日お買い物してなかったから夕食の準備に時間かかりそうなんだけど、外食でもしない?」
助手席に座る母親が誰に言うでもなくそう言うと、父親は「それも良いな」と言いながら、後部座席に座るアキラをバックミラー越しにチラリと見やった。その視線に気づいたアキラは「ああ、いいんじゃない」と、関心なさげに答えた。
父親は現在の場所から一番近くのファミリーレストランへと進路を変更し、5分程車を走らせた後、とあるファミリーレストランの駐車場へと車を入れた。
日曜日とあってかほぼ満席とも言える状況だったが、丁度食べ終わった客がいたお陰で、アキラ達3人は待たされる事無く、4人掛けのボックス席へと案内された。
3人は席に座って早々、テーブルに備えてあるメニューを見始めた。アキラはファミリーレストランといえども、久しぶりのちゃんとした食事だなと思いながらメニューを見ていた。そのメニューの中には、久しく口にしていない、今のアキラからすれば大変豪勢な料理が並んでいた。
アキラはホームレスになってからは肉を食べなくなっていた。というより節約しなければ生活が厳しかった為に、特に牛肉と言う物を口にするのは稀であり、肉と言えば炊き出しで出される微々たる豚や鳥といった肉しか口にしていなかった。
アキラの目が500グラムというサーロインステーキに留まった。父親と母親の2人は揃って和風のハンバーグ定食に決めた。3人がそれぞれメニューを決めた後、母親が店員を呼びメニューを伝えた。
特に会話らしい会話をしないままに料理を待つ事約20分。ようやく店員が食事を3人の元へと運んできた。アキラの目の前には、ジューっと音を立てる熱々の鉄板に乗せられた牛肉が置かれた。
そして3人分の食事がテーブルに揃ったところで、父親と母親は「いただきます」と口にしたが、アキラは無言でナイフとフォークを手に取った。
アキラは肉を大きめに切り分け、口一杯頬張るように食べていた。母親は美味しそうに頬張るアキラの姿に笑みを浮かべながら、ゆっくりとハンバーグを食べていた。父親は姿勢正しく音をたてないように食べていた。周囲には子連れの客が多く、楽しげな会話といった賑わいを見せていたが、アキラ達のテーブルにはナイフとフォークが奏でる金属音だけが響いていた。
アキラは久しぶりの牛肉にほんの少し感動していた。ミディアムレアな感じの焼け具合と溢れる肉汁。ファミレスとはいえども久しぶりの牛肉。肉とはこういう味だったなあと、思い出しながら食べていた。
派遣で働いていた時には自炊をしない事もあり外食ばかりではあったが、それでも1回に付き千円を超えるような食事は稀だった。結局、派遣で働いていた時もホームレスの時も、ずっと食べる事ばかり考えていた。学生の頃は食欲より物欲の方が勝っていたが、今はただただ美味しい物が食べたい。別に高級店で食べたいという訳では無い。今いるようなファミリーレストランのようなチェーン店で構わないしそれで充分だ。
今の自分は睡眠欲と食欲のみで生きている。きっと今食べている肉も高級肉という訳ではないのだろうが、今の自分からすれば身分不相応とも言える豪勢な食事である事は間違いない。
黙々と3人が食べている最中、父親が食べる手を止め口を開いた。
「なあアキラ。明後日の午後にでもアキラを車でお父さんが終末ケアセンターまで送るって事でいいか?」
父親は安楽死を促すような提案をした。父親としては安楽死を選択せずに、時間が許す限り家にいて欲しいと思ってもいたが、それはアキラが苦しみ悶えて死ぬ可能性があるという事でもあった。故に安楽死を促すような言い方ではあったがそれは苦渋の提案でもあった。
アキラとしてはまだ安楽死をするとは決めた訳では無かったので、曖昧な返事でお茶を濁した。
そしてアキラは500グラムという肉を付け合わせの野菜と共に平らげ、記憶にも久しい満腹感を覚えると同時に、下手に動けば口から出てしまいそうな苦しさも覚えた。その上での「もっと注文する?」という母親の提案に、言葉で無く手を以って「要らない」と断ると、アキラ達3人は店を後に、早々に父親の運転する車で帰宅した。
「すぐにお風呂沸かすから最初に入んなさい」
帰宅直後、母親はアキラにそう言うと風呂場へと向かった。アキラは背中越しに「分かった」と短く返事をすると、そのまま2階の自分の部屋へと向かった。そして部屋に入るなり、ベッドの上にゆっくりと仰向けに寝ころんだ。
久しぶりの満腹感。苦しい程の満腹感。そしてふかふかのベッド。前日とは真逆とも言える今の状況に違和感を覚えつつ、アキラは天井を見つめ、実家に戻る直前までの自分を思い出す。
満腹になるまで食事をする事など無かった。布団やベッドの上で眠る事は多くなかった。路上で寝る時は段ボールを敷いたアスファルトの上、若しくは公園内の土の上にダンボールを敷いて寝ていた。マンガ喫茶で寝る時には、ある程度の角度まで背もたれが倒れるソファで寝ているが、足を伸ばす事は難しく、きつい体勢で寝る事を強いられた。ドヤ街のチープホテルで寝る時以外、足を伸ばして柔らかい布団で寝る事は無かった。
そんなホームレス生活を経験したからこそではあるが、生きていく事だけを考えれば、必要な物というのは案外少ないと言える。半年間しかホームレス生活を経験してはいないが、とりあえずは大きめのスポーツバッグ1個で事足りた。結局、人間が欲する物は食欲と睡眠欲であり、生きていく上で必要な物は大して無いのだろう。
洗濯をする前提であれば服の量も少なくていい。金は掛かるがコインロッカーに物を預ける事も出来る。風呂や洗濯もそれなりに必要ではあるが、とりあえず何とかなった。冬のホームレス生活では毛布や防寒具は必要ではあるのだろうが、それでもきっと何とかなるのだろう。現に真冬でもホームレスは存在する。食事と寝床、それさえあれば何とかなるのだろう。そう考えると、どこでも生きていけそうな気がする。といっても、自分の寿命が尽きようとしている今、そんな自信に今更意味は無い。
ベッドの上でそんな事を考えていると、次第に瞼が重くなっていった。その時、「お風呂沸いたよー!」と、母親の声がした。その声でうとうとしかけたアキラの目が覚めた。
アキラは返事する事無く、気だるそうにベッドから起き上がると、寝起きのような重い足取りで1階の風呂場へと向かった。今日は昼間にもシャワーを浴びた。故に風呂に入らずとも良かったが、湯船には浸かりたいという事もあって、改めて風呂に入る事にした。
寮にいた時はシャワーだけだった。寮と言っても派遣会社が借り上げているワンルームと言うだけである。光熱費は天引きされ、毎日風呂を沸かすとそれなりの金額を引かれる事から、シャワーを浴びるだけという生活だった。
ホームレスとなってからは3、4日に1度の頻度で、マンガ喫茶やチープホテルでシャワーを浴びていた。
たまに行く銭湯では満喫するために1時間は入っていた。1回だけなら安いと言えるが、毎日入るとなるとそれなりの金額になる事から、やはりたまにしか行かなかった。
アキラは湯船に浸かる前に軽く体を洗い流し、数年振りの実家の湯船に「う”あ”~」と、唸るような低い声をあげつつ、徐々に体を沈めて行く。とはいえ、まだ満腹感が続いている。お腹には水圧も掛かり始め、油断すれば湯船が大惨事になりかねないので注意をしながら深々と体を沈め、口元まで湯に浸かった。
アキラは風呂の良さに改めて気付いた気がした。家に住んでいた時には毎日入るのが単なる習慣だった。感謝するような事では無かった。そして今は何かに感謝をしていた。
アキラはふと、今も東京でホームレス生活をしているであろう伊藤の事が頭に浮かんだ。
伊藤はどれくらい湯船に浸かっていないのだろうか。おそらく自分と同様に、何日か置きにシャワーを浴びてはいただろうが、湯船に浸かる事はあったのだろうか。
今は家があるという事がとても有り難く、風呂に入れるという事がとても有り難い。そうはいってもホームレスの時のように必要最低限の物以外に何も持たない生活と言うのも、考え方としては悪くはない。全ての縛りから解放されたかのような生活。とはいえ、その日その日の食事や寝床を心配する毎日は、やはりきつい。
バカみたいな考え方かもしれないが、使いきれない程の金があってのホームレス生活が出来たなら最高だなあと、アキラは天井を見つめながら思う。そんな事を考える自分が可笑しくて1人で笑ってしまった。
アキラは湯船からあがると、昼間も洗ったにもかかわらず再び頭と体を洗い、再び首まで湯船に浸かった。そして1時間近く、汗が流れる程に風呂を満喫した後に風呂から上がった。
脱衣場には部屋に脱ぎっ放しだったはずのパジャマが畳んで置いてあった。それと共に新しいバスタオルも用意してあった。アキラは遠慮なく新しいバスタオルを使って体を拭き頭を拭く。そして流れる汗もそのままにパジャマを着ると、首にバスタオルを掛けて居間へと向かった。
居間のちゃぶ台の上には2本の缶ビールとコップに注がれたビールが2杯。そのちゃぶ台を挟んで父親と母親が向かい合わせに座り、2人とも枝豆をつまみに飲んでいた。
「アキラもビール飲む?」
「ああ、飲む」
母親が立ち上がるのと同時に、アキラが父親の隣りに腰を下ろした。母親は冷蔵庫から冷えた500mlの缶ビールを取り出し、食器棚からコップを取り出すとアキラの前に置いた。アキラは缶ビールの蓋を開けると、コップに注がずに直接口をつけて飲み始めた。
プハーッと、久しぶりのビールに舌鼓を打つ。アキラが派遣で働いていた時には節約を目的にほとんど飲む事は無かった。路上生活に於いても同様ではあったが、熱帯夜と呼ばれるような夜には、睡眠薬のつもりで安くて度数の高い日本酒を飲む事が何回かあった。だがそれ以外にはほぼアルコールを口にする事は無かった。それはもっぱら節約のためである。特にビールでは度数が比較的低い事もあり、買う事はほぼなかった。
苦みと清涼感を持つビールという飲み物に、「そういえばこんな味だったなあ」と、感慨深げに二口目を口にした。そして父親がジッと見つめるテレビへと視線を移した。
アキラは寮へ引っ越した時点より殆どテレビを見ていなかった。寮にもテレビは無かった。携帯電話にはテレビを見る機能は付いてはいたが見た事は無かった。
それは路上生活に於いても同じであり、何年もの間テレビを見ずに、ネットだけを見ていた。チープホテルではテレビが付いているホテルもあったが、ただただ布団の上で足を伸ばして寝られる事を目的に、部屋にはテレビが付いていないような安いホテルに泊まっていた。
久しぶりに見るテレビにはバラエティ番組が映し出されていた。初めて見る番組。その出演者の中には見覚えのある顔もあったが、アキラが知っている時のその人より、随分と老けて見えた。
暫く無言のままにテレビを見ていた後、アキラがビールの残りを一気に飲み干すと、「もう1本飲む?」と、母親が笑顔で聞いてきた。
「いや、今日はもう寝るよ。おやすみ」
朝のシャワーと合わせて2度も風呂に入ったせいなのか、アルコールのせいなのか、それとも実家に戻って来た事で気が抜けたせいなのか、アキラは自分の部屋に戻った途端に酔いを感じ始めた。それと同時に睡魔が襲ってきた。
アキラの髪はまだ完全に乾いていなかったが、そのままベッドへと潜り込み、目を瞑るとそのまま眠りに就いた。
翌日の午前6時。アキラは自然と目が覚めた。路上で寝ていると空腹や空の明るさで目が覚めるといった感じではあったが、今日はそこまでの空腹感は無く、カーテンも閉じらた薄暗い部屋の中、外の明るさで起こされる事も無いが、勝手に目が覚めた。とはいえ、まだぼんやりとはしてはいたが、とりあえず起きるかと、ベッドから這い出した。
アキラがパジャマ姿のままで1階へ降りると、台所のテーブルでは父親と母親が朝食を食べていた。父親は新聞を読みながら、母親は居間のテレビを見ながら食べていた。
父親は来年で還暦を迎える。家から10キロ程離れた農協の職員として今でも働き、毎日のように6時半頃に出勤する。
アキラに気づいた母親が「アキラも朝ごはん食べるでしょ?」と聞くと、アキラは無言で頷きテーブルを前に父親の隣に座った。
母親はすぐに台所へと立ち、アキラの為の朝食の準備に取り掛かった。アキラは居間のテレビを何の気なしに眺めていた。
数分後、アキラの目の前には、湯気の立つご飯がよそわれた茶碗と、豆腐とわかめの具が入った味噌汁。そして紅鮭の切り身とお新香という和風の朝食が並べられた。
アキラは「いつもこのような朝食だったなあ」と、まだ家に居た頃を思い出しつつ、箸を手に取り無言で食べ始めた。
アキラが食事をしている最中、父親が仕事に出かけていった。父親を玄関まで見送った母親が戻ってくると同時に「こんな時くらい仕事休んでもいいのにねぇ」と、愚痴っぽく口にした。
それは「自分がもうすぐ死ぬのに」という意味だとアキラはすぐに理解したが、その言葉に何の反応も見せず、黙々と食べ続けた。
「今日はどうするの? 家にずっといる?」
「……ん? ああ、どうしようかな……ちょっと出かけたい場所があるんだけどさ、悪いんだけど2千円程貸してもらえない? 電車賃が無くてさ……」
アキラは自分の言葉に違和感を覚えた。「お金を貸して」と口にしたものの、返すあても時間も無い。それなら「貸して」では無く「下さい」が正しいだろうなと。それにも増して、電車賃すら持たない自分が情けなく、そんな息子を持った母親が不憫に思えた。他人に対して自慢できる息子でなくて申し訳ないという気持になった。
「2千円で大丈夫? もっと出せるわよ?」
「いや、それで充分だよ」
母親はすぐに財布から千円札を2枚とりだしアキラに手渡すと、「ありがとう」と、アキラは俯き加減に小声で言った。
「ちょっとアキラ、あんたまさか1人で終末ケアセンターに行くんじゃないでしょうね? それの交通費って事じゃないでしょうね? それとも友達の所にでも行くの?」
「違うよ。終末ケアセンターなら歩いても行けるし。それにタクシーで行ったとしても2千円もかかんないよ。友達っていっても今付き合いのある奴なんていないし」
「じゃあ、どこ行くのよ?」
「ちょっと東京のドヤ街で世話になったというか、最後に知り合った人に挨拶に行こうかなって。まあ、そこまで世話になったとか義理がある訳じゃないけど」
「ドヤ街?」
「ああ。ほぼ素泊まり専門の安い料金の宿が集まってる場所の事でね。確か「宿」っていうのを逆さに読んで「ドヤ」って言って、ドヤの集まる街でドヤ街って呼ばれるようになったとか」
「そう。あんた仕事を辞めた後、そんな所にいたのね」
「まあね」
時刻は午前7時過ぎ。朝食を済ましたアキラは、居間のちゃぶ台を前にテレビを見ていた。まだ出かけるにしては早過ぎ、この時間に家を出ると通勤ラッシュに巻き込まれてしまう事から、アキラは数時間、居間のテレビをボンヤリと眺め続けた。
この時間のテレビはワイドショーが殆どで、アキラがそんな番組を見るのも数年振りの事だった。画面に映し出されていたのは地方アイドルの特集と言う事で、16,17歳といった若い女の子がアイドルという夢に向かって頑張っているという内容だった。
アキラは自分が若い時にそんな夢を持っていただろうかと考えるが、特に何かを持っていたというような記憶は無かった。
テレビに映るアイドル等に対しては特に気にした事も無く、どちらかと言えば、一生続けても決して日の目を見る事も無いという可能性が大いにある、そんな不安定すぎる職業とも言うべきアイドルという物に、若い時を賭けて目指す子の事を卑下していたような記憶さえ残っていた。
しかし今のアキラからすれば、そのような夢を持って生きている人間と言うのは、羨ましくもあり、輝いても見えた。
熱心に勉学に励んでいたとは言えないが、それでも大卒という肩書を得た自分のその後を、社会人となってからの事を振り返ると、その子達はとても輝いて見える。とはいえ、そのアイドルという夢に向かって一心不乱に生きている最中に、自分と同じように終末通知の葉書を受け取ったとしたら、その子達はどう思うのだろうか。
悲観して即座に自殺したりするのだろうか、それとも自暴自棄になって社会に対して牙を剥く様な真似でもするのだろうか。それともギリギリまで夢を追うのだろうか。夢が無かった自分には分からない。
そんな事を考えながらテレビを見ているうちに、時計の針は午前9時を回っていた。そろそろ電車も空いた事だろうと思い、アキラは自分の部屋へと戻るとパジャマを脱ぎ捨て洋服へと着替えた。そして唯一の荷物と言える財布をズボンの後ろポケットに入れると、手ぶらで家を後にした。
アキラは自宅から鎌ケ谷駅へと続く道を、俯き加減に歩いていた。地元であるため、もしかしたら小学校、中学校時代の同級生に鉢合わせするかもしれず、会えば今の互いの近況の話になりかねず、その際に自分の事を説明するのは面倒だという思いであった。
30分程歩いて駅へと到着すると、アキラの予想通りに駅周辺の人通りはまばらで、すでに通勤ラッシュは終わっていた。アキラは母親から貰った千円札を使って切符を買い、電車へと乗り込んだ。通勤ラッシュが終わったと言っても席が空いている程では無く、アキラは電車の扉付近に立ったまま、車窓を眺めつつ行く事にした。
電車を2本乗り継ぎ更に1本のバスに乗って約1時間半。アキラはドヤ街に一番近いバス停へと降り立った。そのバス停から更に10分程歩いて、ドヤ街の端に位置する公園、いつもボランティアによる炊き出しが行われている公園へと到着した。
公園内では、今日も炊き出しを求める多数のホームレスの姿があった。とはいっても、既に炊き出し自体は終了していたようで、ボランティアの人達は後片付けをしていた。
アキラは炊き出しが目的では無かったので、公園内とその付近の道をキョロキョロしながら歩き始めた。そしてすぐに、公園からほど近い住宅のブロック塀に背をあずけ、地面に座る1人の男性の姿が目に留まり、おもむろに近寄っていった。
「伊藤さん。おはようございます」
伊藤は何をするでもなく、ただただぼんやりと地面に座っていた。伊藤の脇には食べ終わったばかりと思しき、炊き出しの白いプラスティック容器が置かれ、今日の炊き出しが何だったのか見当もつかない程に綺麗に食べられていた。
「……あれ? アキラ君じゃないか」
伊藤は不意に声を掛けられ事に驚くと共に、それがアキラだった事に再び驚いた。伊藤はアキラが終末通知を受け取った事を聞いていた。先日別れた際に実家に帰る事にしたと聞いていた。故に、もう2度とアキラと会う事は無いと思っていた。
「どうしたの? 実家に帰ったんじゃなかったの?」
「はい、昨日帰りましたよ。でもって最後にもう一度ここに来てみようと思って」
アキラが来た理由は伊藤に会う事だったが、「あなたに会いに来ました」というのは変な感じがしたので、それは言わなかった。
「そうなの? 折角家に戻ったってのに、わざわざこんな場所に来るなんて、アキラ君も変ってるね。というか終末日ってまだ先なの?」
「終末日は明後日です」
「明後日? ちょっと、こんな所に来てていいの? 友達とかご両親と一緒に過ごさなくてもいいの?」
「ああ、大丈夫です。今日もちゃんと家に帰りますし」
「そうなんだ。で、最後はどうするか決めたの?」
「最後? ああ、安楽死するかしないかって事ですか? 正直悩んでます。安楽死するなら明日が期限って事になるんですけどね。とりあえず実家の敷居は跨がせて貰ったし、そのまま最後まで家に居ても良いのかなって」
「そう。どちらにしても、まともに過ごせる時間は少ない事には変わりない訳だし、思い出のある実家で過ごしたら? 友達とかには話したの? どちらにしても、こんな所に思い出は無いでしょ? あははは」
「確かにそうですね。ここに思い出はないですね。あははは。まあ、あるとすれば炊き出しでご飯を食べさせてくれたボランティアの人達に感謝してる位ですね。
まあ、残り時間が無いからといって家に居ても、何かする事がある訳でも無いですし、友達っていっても、学校を卒業してからほぼ連絡も取って無いですしね。なので最後に少しだけ思い出というか、世話になったこの場所に来ようかなってだけです」
「そうなんだ。でも御両親は一緒に過ごしたいって言ってなかったの? まあ私が言えた義理でもないですけどね」
「まあそうなんですけどね……。とりあえず横座っていいですか?」
「ああ、ごめんごめん。どうぞ」
アキラは伊藤の横、1人分の間隔を開けて、地面に直接腰を下ろした。
「そういえば昨晩、久しぶりにファミレスで500グラムの牛肉を食べました。まあ恥ずかしながら親のおごりですけど。しかしファミレスといえども美味しかったなあ」
「へえ、羨ましいな。最近は定食を食べるのも一苦労な状況だから、肉なんてボランティアの炊き出しの豚汁くらいだなあ。まあ豚汁だから豚肉ですけどね。あははは」
そんな他愛の無い会話をしていた時、伊藤が頭を抱え出した。
「あ……い、痛い」
伊藤の頭の中では、何かに強く握られ捻じられる様な激痛が走っていた。
「ん? どうかしたんですか?」
「ぐあーっ! 痛い痛い痛いっ!」
伊藤は頭を抱えたままにその場に転がり、激しく痛がり始めた。
「ちょっ、伊藤さん! 大丈夫ですかっ!」
そんな伊藤の様子に周囲にいたホームレスの人達も気付きだし、炊き出しの後片づけを行っていたボランティアに救急車を呼ぶように声をかけた。そしてボランティアの1人がすぐに携帯電話で救急車を要請した。
伊藤が痛がり始めて1分程、伊藤は苦虫を噛み潰したような苦悶の表情を浮かべつつ、「う”~う”~」と唸りだすと、意識を失ったかのように急に静かになった。
伊藤の周囲にはホームレスの人達が集まって様子を伺っていた。この街の路上で人が死ぬ事は珍しい事では無く、心配はすれども騒ぐ事は無かった。
そして救急車を要請してから5分程が経過した頃、遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。その音は次第に大きくなり、アキラ達のすぐ傍まで来るとサイレンの音が消え、エンジン音だけを轟かせながら、ゆっくりとアキラ達のすぐ傍まで来て停車した。
赤色灯を回したままに救急車のバックドアが開かれると、2人の救急隊員がすぐに降車した。1人がストレッチャーを下ろし、もう1人が「怪我人はどちらですかっ!」と声を張り上げた。
アキラを含むホームレス達は、地面に倒れる伊藤を指さしながら「この人だ」と声を張り上げ、救急隊員は伊藤の元へと駆け寄って、すぐに伊藤の意識状況を言葉で確認し始めた。
一切の返事をしない伊藤に対してもう1人の救急隊員も駆け寄り、2人して伊藤の瞳孔をチェックし脈を取り始めた。
2人の救急隊員は小声で話し始めた。それが終わると1人の救急隊員が携帯電話を取り出し、どこかへと電話を掛け始めた。
もう1人の救急隊員は、伊藤を囲むようにして、様子を伺っていたアキラを含むホームレス達の方へと振り向いた。
「こちらの方は既にお亡くなりになっているようなので救急車では運べません。今、警察に電話しておりますので、誰も近づかないようにお願いします」
それから1分もしない内に、けたたましいサイレンを鳴り響かせながら、1台のパトカーが現れた。パトカーが救急車の真後ろへと停車すると、赤色灯はそのままにサイレンの音だけが止んだ。
パトカーからは直ぐに2人の警察官が降車し、野次馬を排しながらアキラ達の元へと小走りで近寄り、その場にいた救急隊員とボソボソと話し始めた。
「この方の異変に最初に気付かれた方はどなたでしょうか?」
警察官のその問い掛けに「……私ですが」と、アキラは恐る恐る手を上げた。
アキラは状況を飲み込めていない。先程まで話をしていた伊藤が既に死んでいるという事が不思議でしょうがない。
終末通知を受け取った自分より伊藤が先に死んだ。まさかこのような状況で死ぬとは想像だにしていなかった。そんなに人は簡単に死ぬものなのだろうか。
アキラの足元に寝転ぶ伊藤の顔は、苦しみで歪んでいるように見えた。
「じゃあ状況を確認したいのでお話を聞かせて頂けますか? 救急車で運ばれていれば良かったんですが、すでに亡くなっているという事なので、一応事件性も疑わないといけないのでね。あなたを疑うというよりは、これも警察の仕事だと思って気を悪くはしないで下さい」
軽い笑みを浮かべる警察官からの言葉に、アキラは「はい」と短く答えた。そうしている内に、複数台のパトカーが集まって来た。それと入れ替わる様にして、救急車は静かに去って行った。
アキラは最初に到着したパトカーの後部座席に1人で乗せられると、最寄りの警察署へと連れて行かれた。
赤色灯を点け、サイレンを鳴らしながら走るパトカーは、すぐに最寄りの警察署へと到着し、玄関前に横付けされた。
助手席の警察官が早々に降車すると、後部座席のドアを外から開け、丁寧な言葉遣いでアキラに降車を促した。アキラがパトカーから不安げな表情で降りると、警察官はアキラを警察署の中へと誘導した。
警察官の誘導のもと、アキラが連れて行かれたのは『取調室2』という札がかかった部屋であった。
「ちょっとっ! 私何もしてないですよっ!」
「ああ、すいません。他にゆっくりとお話が聞ける場所が無いだけなので気にしないで下さい。ちゃんとドアは開け放しにしておきますから。別に疑っている訳ではありませんから安心して下さい」
笑顔を見せる警察官に、納得はしてはいないものの「早く帰りたい」という気持ちもあったので、アキラは渋々取調室へと入った。
「奥の椅子に座って待ってて下さい」
ドラマでよく見る取調室そのものといった灰色一色の部屋の中、中央に配された事務机を挟んでの奥にある椅子を、警察官は手で指し示した。アキラはその指示に素直に従い、奥の椅子へと腰を下ろした。すると直ぐに、私服を着た1人の男性が部屋へと入って来た。50代程に見えたその男性は短髪で恰幅よく、話しかける事すら躊躇させそうな雰囲気を醸し出しつつ、アキラの向かいの椅子にドスンと腰を下ろした。
「わざわざ来て貰ってすいませんね。すぐに終わらせますんで協力して下さい。では早速ですが、あなたの身分を証明出来る物は何か持ってますか? 免許証とかで結構です。あ、名乗ってませんでしたね。私、刑事課の桧垣と言います」
桧垣は笑みを浮かべていたが、そのハッキリと通る低い声は、普通にしゃべっているだけでも気圧される程に威圧的で、アキラは何もしていないのに「お前が悪い」と言われている気すらした。
「……ああ、はい、あ、あります」
アキラは少し焦りながら、ズボンの後ろポケットから財布を取り出し、その中から運転免許証を取り出すと、桧垣に差し出した。
「亡くなった方はホームレスと聞いていますが、あなたとその人はどういう関係? というかあの人の事を教えてください。まだ身分を証明する物が見つからなくてね」
桧垣はアキラの免許証を、眉間にしわを寄せながらじっと見つめていた。
「いや、私も一昨日までホームレスでして……。まあ半年間くらいでしたが……伊藤さんとはボランティアの炊き出しで出会って、ちょっと話をしただけの関係です。あ、あの人は『伊藤』という名前の人で、私はそれしか知りません。下の名前も聞いた事が無いです」
「ああ、そうなんですか。ちなみに話って何の話をしたの?」
「私が炊き出しを食べている最中に話しかけられました。私が本当にホームレスなのかといった事で話しかけられました。伊藤さんには私が若く見えたみたいで」
「ふーん。他には?」
「……まあ、後は私が終末通知を受け取ったって事も話しましたね」
「えっ? 君、終末通知を貰ってるの? 永富さんだっけ? 君まだ若いよね?」
「はい、明後日が終末日です。それで短い時間ではありましたけど、伊藤さんと最後に話してみたいかなと思って、わざわざここまで来ました」
「あーそうなんだ。ちょっと確認してくるから待ってて」
桧垣はアキラの運転免許証を手に取調室から出ていった。アキラは桧垣が何を確認するのだろうと思った瞬間、父親は自分の捜索願を取り下げてくれたであろうかとふと思った。もしも取り下げていなければ、親を呼び出す事態になるのだろうかと不安が過った。
アキラは兎にも角にも「早く帰りたい」と願うばかりであったが、今は何も出来ず、手持無沙汰に天井を見つめるしか出来なかった。
10分後、桧垣が取調室へと戻って来ると、運転免許証をアキラに返した。
「確認してきたよ。本当に君、終末通知を受け取ったんだね」
「ああ、確認ってその事だったんですか」
「悪いねぇ。警察ってのは全ての言葉の裏どりをしなければならないんでね」
「いえ、別にいいですよ」
アキラは少し会話が和んだ事で「こういう人が刑事って呼ばれる人なんだな」と、ようやく目の前に座る桧垣を冷静に見る事が出来た。そしてそんな会話の途中、桧垣とはまた別の私服の男性が取調室へとやってきた。
男性は桧垣に「ちょっといい?」と言って、取調室の外に来るよう促した。桧垣はその言葉を受けて「ちょっと待っててくださいね」と、アキラに一声かけると、取調室の外へと出ていった。
外へと出て行った桧垣は、先の男性と取調室を出たすぐの廊下で立ち話をしていた。会話の内容までは聞こえないが、ボソボソという感じでアキラの耳に聞こえていた。
そんな状況から数分後、桧垣がアキラの前へと戻ってきた。
「あーごめんね。事件性は無いみたいだね。確認できたよ」
「何か分ったんですか?」
「あー。最後に立ち会ったとは言っても君も部外者だから、本当は言ってはいけないんだけど……。まー君もそうだから話すけどね。彼の荷物の中に日雇いの資料がいくつかあってね、それで名前がわかったんで調べてみたら、彼にも終末通知が出ていたんだ。で、今日が彼の終末日だったと言う事がわかったんだ」
「……えっ!? 伊藤さんも終末通知を貰ってたんですか? いや、でも私が終末通知を貰ったって話をした時には、すごい残念がってくれたし、伊藤さんが貰ったなんて話もしなかったし……」
「それは多分、伊藤さんが知らなかっただけじゃないかな? 伊藤さんの奥さんから捜索願が5年前に出ていて、その捜索願は今も有効だから奥さんとも連絡を取って無かったんだろうね。だから伊藤さんの奥さんがいる家には終末通知は届いていたんだろうけど、それを伊藤さんが知る術は無かったという事だろうね」
「5年も前? そんなに期間が空いていても終末日が特定出来る物なんですか?」
「いや、伊藤さんの最近の医療記録があるらしいよ。病状までは知らないけど、今年の4月位に一度救急車で運ばれたらしくてね。その医療情報から終末日を特定したという事じゃないかな。
生活保護も受けてないようだし、保険証とかも持っていなかったから、支払とかはどうしたのかは分からないけどね。とりあえずその場は本名を名乗ったみたいでね。それで今、伊藤さんの奥さんの家に連絡を取ってる最中だから。で、結論として、事件性は無く寿命で亡くなったという事。なので君はもう帰って頂く事ができますよ。すいませんね。お時間とらせて」
アキラは数秒間、目の前の机をじっと見つめた。そしておもむろに顔をあげ「じゃあ、帰ります」と、半ば呆然としながらゆっくり席から立ち上がると、桧垣に先導されながら取調室を後にした。そしてそのまま桧垣の先導で警察署の玄関口まで行くと、「じゃあ気をつけて」という桧垣の言葉に背中を押されるようにして、警察署を後にした。
アキラを見送った桧垣が署内の自席へと戻ると、となりに座る同僚に話しかけた。
「そういえば伊藤さんの奥さんの連絡先分かった?」
「捜索願に書いてある番号に掛けてるんだけど、全然繋がんなくてさ」
「ふ~ん。旦那さんが家出しているという事は、奥さんは仕事でもしていて出られないのかもしれないな」
「かもな。でさ、俺、報告書を書かないといけないから電話替わってくんない?」
「おう、じゃ俺があとやるわ」
時刻は午前11時半。桧垣が電話を数分間鳴らし続けていると、耳にあてた受話器から「もしもし?」という言葉が聞こえた。
伊藤の妻である真季子は、昼の時間帯のみというパート仕事へ自転車で向っている途中、ふと自宅のキッチンに携帯電話を忘れた事を思い出すと同時に、万が一にも娘の麻美から緊急を要する連絡があったら大変だと、すぐに自宅へと引き返した。
真季子が玄関ドアを開けると、キッチンの方から微かに音が聞こえた。その音が携帯電話の着信音である事に即座に気付くと、靴を履いたままにキッチンへと駆け込み、流し台に置き忘れていた携帯電話を手に取った。「非通知番号」という発信者名に一瞬安堵したものの、それでも「もしかしたら娘に何かあったのかも」と、すぐに着信ボタンを押した。
「もしもし?」
「あ、もしもし。伊藤さんのお宅でしょうか?」
「はい。そうですが、どちら様でしょうか?」
「こちら○○警察署ですが、失礼ですが伊藤重彦さんの奥さまでしょうか?」
真季子は警察と聞いて「やはり娘に何かあったのか」と一瞬ドキッとした。だが、そのすぐ後に出てきた伊藤重彦という名を聞いて、娘に何かあった訳では無い事に安心はしたものの、それが誰の事なのかすぐには分からず、眉をひそめた。
そして「伊藤重彦さんの奥さま」という言葉にハッとした。その名前が自分の夫だと気付くと同時に、その夫の捜索願を出していた事を思い出した。
音信不通から5年。ここに来てようやく伊藤が見つかったという連絡だろうか。娘と2人、すぐにでも切れてしまいそうな程の細い糸を5年掛けて紡いできた。ようやくここまで立て直してきたのに、今更伊藤が見つかったから何だというのだ。私と娘にとって伊藤の存在は迷惑以外の何だというのだ。
全てを壊した伊藤が現れる事で、また全てが壊されてしまう。いっそこのまま永遠に、見つからなければ良かったのに……。
「……はい。伊藤の妻ですが、ひょっとして主人が見つかったという事ですか?」
真季子は恐る恐る聞き返すと共に、必死で思案を巡らせていた。
今更、夫が見つかったとしても会いたくもないし、娘にも会わせたくない。とはいえ、夫の捜索願を出していた以上は何らかの対応をする必要がある。ただでさえ夫が蒸発したと奇異の目で見られている。そんな状況で下手な事をすれば、娘の将来に影響する可能性すらある。何か策は無いものだろうか。
「ああ、見つかった事は見つかったんですが……。非常に申し上げずらいのですが、ご主人はお亡くなりになりました」
「……亡くなった? 主人がですか?」
「ええ、そうです」
「……あの……何かの事故や事件に巻き込まれた……という事でしょうか?」
「いえ、寿命でお亡くなりました」
真季子は瞬時に思い出した。伊藤宛に終末通知の葉書が自宅に来ていた事を。そしてその葉書を自分がゴミ箱に棄てた事を。
「あの……何故、寿命で亡くなったという事が言えるんですか?」
「あ、それはですね。今日がご主人の終末日だったからです。こちらでも確認しました。ちなみに、ご自宅にご主人宛の終末通知の葉書は来ていませんでしたか?」
「……さあ、覚えていませんね。もしかしたら、何かのチラシと一緒に棄ててしまったのかもしれませんが」
真季子はうまく嘘をつけただろうかという不安が過った。終末通知の葉書は自らが棄てた。その事がばれたら、後々娘や自分に何らかの害を及ぼすのではないかと。
「ああ、なるほど。どちらにしても失踪中のご主人に奥さんから連絡の取りようがありませんからね」
桧垣は真季子の声に違和感を覚えた。根拠は無いが真季子のその言葉と声色に、どこか嘘があるように感じた。といってもただの勘であり、違法な要素は一切なかった。
「それで、ご主人の御遺体の引き取りについてですが、そちらで手配をお願いできますか? 今、署内の霊安室に御遺体を保管しておりますので」
「……遺体の引き取り? 私が?」
真季子は嫌悪感を隠さなかった。なぜ自分と娘を棄てた人間の遺体などを引き取らねばならないのかと。今は別れるに別れられないから伊藤の姓を名乗ってはいるが、出来れば旧姓に戻したいくらいであると。
「ええ、ご主人のご遺体ですので、奥様がお引き取りになるのが筋かと思いますが?」
「……あの、遺体の引き取りを拒否って出来ますか?」
「拒否ですか? 出来はしますが……捜索願を出されていたご主人が見つかったんですよ?」
「そんなの世間体を考えれば出さないと駄目に決まっているじゃないですか? 出さずにいれば、私が殺したんじゃないかなんて思われかねませんよね? だから出したに過ぎません。主人は私と子供を棄てたんですよ? 棄てられてからどれだけ苦労したと思っているんですか。そういう事ですので拒否します」
「ただ拒否するとなると、御主人の資産やらを全て放棄するという事になるかと思いますが大丈夫ですか?」
「はい、それでも構いません。全て放棄します。例え今住んでいる家を取られる事になったとしてもです」
「……そうですか。わかりました。その辺の事はまた正式な手続きが必要になりますが、奥様の方針は了解いたしました」
「はい。よろしくお願い致します。では」
真季子はそう言うと終話ボタンを押した。そして目を瞑り深呼吸をした。再び目を開くと、携帯電話を手に、急ぎパート先へと向かった。
「まったく、あんな電話のおかげで、仕事に遅刻しちゃうじゃないのっ!」
捜索願を出してから既に5年。あと2年もすれば法律上は死亡扱いとする事が出来る。それまで見つかって欲しくなかったと思っていた所に、夫がもうじき死ぬという葉書が届いた。その時には「夫はもうすぐ死ぬのかな」と、あまり関心も無かった。それをすっかり忘れていた所に、警察から夫が死去したとの連絡を貰った。
真季子は「これで夫とは完全に切れる事が出来た」と、1人ほくそ笑んだ。
桧垣は真季子との電話を終えると、天井を仰ぎ見ながら深い溜息を吐いた。
「引き取り拒否かあ……そこまで恨まれちゃうなんて……何か辛いなあ」
警察署を後にしたアキラは、最寄りのバス停へ向かい、バスと電車を乗り継ぎ、そのまま鎌ヶ谷の実家へと戻った。そして今、自分の部屋のベッドの上で、仰向けに寝転びながら天井を見つめていた。
ほんの数時間前、直前まで自分と会話をしていた伊藤が死んだという実感が未だに無い。あれ程までにあっさりと、目の前で人が亡くなったという事実が今でも信じられない。
苦しんで死にゆく伊藤の最期を見た。あんな死に方はしたく無い。死ぬのを回避できないなら、せめて伊藤の様に苦しまずに死にたい。しかし伊藤は本当に、自分に終末通知が来ていた事を知らなかったのだろうか。もしかしたら家族に対しての負い目を感じ、敢えて安楽死を選ばずに死んでいったのかもしれない。
午後6時。父親が帰宅すると、それに合わせて母親が夕食の準備を終えた。母親はご飯が出来た事を1階から大声でアキラに伝えた。
アキラが居間へとやって来ると、居間のちゃぶ台には鍋の用意がされていた。
家族3人がちゃぶ台を囲むと、母親が土鍋のふたを開けた。白菜、キノコ、エノキに鶏肉といった具材の寄せ鍋。アキラとしては鍋の季節にはちょっと早い気もしたが、ガスコンロの上でぐつぐつと音を立てている土鍋を見ていると、久しぶりの鍋とあって食欲が湧いてきた。
「アキラ。その……、決めたのか?」
アキラが鍋に手を付けようとした時、父親が呟くように聞いてきた。母親は口にはしないものの、何も今する話では無いでしょと、困った表情で父親を見つめた。
「安楽死するかどうかって事? それなら決めたよ。明日、終末ケアセンターに行ってくるよ」
父親もそれなり悩んだ末に質問したのだろう。自分の息子に対して死に方は決めたのかなんて、きっと聞き辛かっただろうなとアキラは思いつつ、手に持ったおたまで以って、鍋から白菜や鶏肉をごっそりとすくった。
翌日に安楽死を行う事を決めた事で、今日のこの食事がアキラにとっては人生で最後の夕食という事になった。アキラは「ひょっとしてそれを予想した上での家族揃っての鍋なのかな?」と、少しだけ勘ぐったが、流石にそれは考え過ぎだろうと、すぐに頭から振り払った。
アキラは手に持った小鉢に息を吹きかけ冷ましつつ、一口目を口にした。
「じゃあ明日、お父さんが車で終末ケアセンターまで送ってあげるから」
「別にいいよ。お父さんは明日も普通に仕事でしょ? そんなに遠い場所じゃないんだし。ゆっくり歩いて行くから」
「そんな訳にはいかないだろう? 最後くらい親の言う事を聞いても良いんじゃないか?」
「そうよアキラ。最後なんだから家族3人で行きましょ?」
父親の表情には少し苛立ちが見え、母親は哀しい表情を浮かべていた。
「で、何時に行くつもりなんだ?」
「……とりあえず時間は決めてないけど、お昼ごはんを食べて少ししてから……まあ、午後3時位には家を出ようかなとは思ってる……」
アキラはわがままを言っているつもりはなく、ただ単にこの期に及んでも照れがあり、1人で行こうと思っていただけであったが、母親の表情を見るに、それ以上は何も言えなかった。
「じゃあ明日の午後3時に家族3人で行く。それでいいな?」
「……まあ、別にいいけどね」
「じゃあ明日、お父さんは午前中で帰って来るから、ちゃんと待ってるんだぞ?」
その父親の言葉を最後に話は終わり、再び家族3人が黙々と1つの鍋をつつき始めた。その最後の夕食を終えると、アキラは最後の風呂に入った。
昨晩程の風呂に対する感動や有難味は無いものの、それなりに最期の風呂を堪能した後、アキラは居間へと向かい最期のビールを口にした。
一休みを兼ねつつ汗が引くのを待ち、10分程でビールを飲み干すと、アキラは父親と母親に向かって「おやすみ」と一声かけつつ立ち上がり、そのまま2階の部屋へと戻った。
部屋に入ったと同時に睡魔がアキラを襲う。アキラはそれに抗う事無くベッドに潜り込んだ。そして目を瞑ると、すぐに自宅に於ける最期の眠りに就いた。
翌日の午前7時。アキラは自然と目が覚めた。いよいよ今日の午後、アキラはこの世を去る事になるが、目を覚ましたばかりという事もあり、アキラにはその自覚は無く、今日の夜には自分がこの世に居ない事等、想像も出来なかった。
早朝から目を覚ましたものの、アキラには今更何かやらなければいけない事は何も無い。いっそこのまま終末ケアセンターに行く時間まで寝ててもいいかと思いはしたが、目を瞑ろうにも目が冴えて寝付く事も出来ず、ただただベッドの上に横になっている事にすら苦痛に感じ、仕方なくベッドから起き上がると、そのまま1階の洗面所へと向かった。
アキラは洗面所の鏡に映る自分を、今更歯を磨く必要があるのかなと、不思議に思いながら歯を磨いていた。
歯を磨き終えると顔を洗い、洗面所を後にしたアキラはそのまま台所へと向かった。台所のテーブルには食べ終わった朝食の食器を前に、新聞を読む父親の姿があった。
「お父さん、仕事どうしたの? 午前中は仕事じゃなかったの?」
「今日は休む事にした」
「ひょっとして俺の為に休んだの?」
「ひょっとしたらアキラ1人で行くつもりかもしれないからな」
新聞から視線を離さずにそう言った父親に、「嘘をついてまで1人でいかないよ」と、アキラは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「そうなんだ。じゃあ、午後3時位に送ってよ」
「ああ。そのつもりだよ」
父親は新聞に視線を預けたままに素気なく言った。アキラは父親のその言葉に何を思うでもなく、父親の隣の椅子に腰かけた。母親は台所に立ち、アキラの朝食の準備を無言で進めていた。
数分後、アキラの目の前に、鮭の切り身をおかずに御飯とシジミ汁という朝食が並べられた。アキラは昨日同様の朝食に少し落胆しながらも箸を手に取った。
昨日と同じ鮭ではあったが、食べ始めれば美味しく感じると共に、改めて和食といった朝食はホっとするなと、アキラは黙々と箸を進めた。
特に会話も無いままに最期の朝食を終えたアキラは、そのまま2階へと上がって行った。部屋に入ったアキラはパジャマ姿のままに、ベッドの上へと仰向けに寝転び、何の気なしに天井を見つめていると、いつの間か寝てしまった。
次にアキラが目を覚ました時、部屋の壁にかかっている時計を見やると、時計の針は午後2時を過ぎていた。いよいよカウントダウンという意識が、アキラの胸の内に高まってきた。
アキラは気だるさを感じつつもベッドから起き上がると、パジャマをベッドの上に脱ぎ棄て洋服に着替えた。そして何の気なしに、ベッドの上に脱ぎ捨てたパジャマに目を留めた。
「次に寝る時は死んでるって事か……」
昨日まではすぐに安楽死してもいいと思っていた。が、1時間後に家を出て、その後間もなくして自分がこの世から居なくなるという現実が、アキラに重く圧し掛かってきた。
自分が消える。未来が無くなる。全て無くなる。明日が無いという事が想像できない。
アキラには「自分が生きた証を残したい」といった考えは無かったが、自分がこの世から消えるという事が一体どういう事なのか、理解も想像も全く出来なかった。
アキラの目からは無意識に涙が流れ始めた。そして力が抜けるかのように膝から崩れ落ち、床に座り込み、嗚咽を漏らしながら泣き始めたが、自分でも何故泣いているのか、何が悲しいのか、全く分からなかった。
父親と母親は居間のちゃぶ台を挟んで向かい合わせに座り、呆けたようにテレビを眺めていた。数時間後には自分達の1人息子が死んでしまうという話が未だに受け入れられず、現実感も無く、母親に至っては終末通知そのものが嘘なのではないのかと今でも思っていた。
事件や事故等で亡くなったという連絡を受けた訳でも無く、もうすぐ死ぬという1枚の葉書を貰った過ぎず、現に息子は同じ屋根の下で今も生きている。自分達より先に息子が死ぬという事があっていいのだろうか。そんな理不尽な事があっていいのだろうか。そもそも息子がもうすぐ死ぬのは本当なのだろうか。
テレビや新聞などでは若くして亡くなるというニュースが数多ある。そんなニュースを見て可哀そうにと思う事はあるが、それでもどこか他人事だった。しかしそれが自分たちに降りかかってきた。終末通知は間違いではないのか。冗談なのではないのだろうか。
テレビを眺めつつ、そんな事ばかり考えていた父親と母親の耳に声が聞こえた。アキラが嗚咽を漏らしながら泣いている声が聞こえた。
母親は堰を切ったかのように涙が溢れ始めると、両手で顔を押さえながら声を上げ、泣き始めた。父親は歯を食いしばり我慢していたが、勝手に涙が流れ始めた。目はテレビを見つめたままに涙が止まらず、ときおり鼻をすすっていた。
家族3人がようやく実感し始めた。アキラが数時間後には死んでしまう事を。この世から消えていく事を。
アキラは5分程泣き続けた。気が付くと涙が止まり、嗚咽も止むと同時に何かが吹っ切れた気がした。アキラは服の袖で涙と鼻水を拭うと、おもむろに立ち上がり、1階へと降りていった。
アキラが居間へとやって来ると、母親は俯きながら涙を流し、父親はテレビを見ながら泣いているという2人の姿が目に入った。目を真っ赤にしたアキラはその2人に何を言うでもなく、「最後に昼ごはん、食べたいんだけど」と、未だに俯きながら泣いている母親に向かって言った。
「そ、そうね。すぐに用意するからね」
母親は鼻をすすりながらも両手で涙を拭い、笑顔を見せつつ立ち上がり、台所へと向かった。父親は何も言わず、アキラの顔も見ずにずっとテレビを見ていた。その父親の横にアキラは腰を下ろした。
既に午後2時を過ぎてはいたが、母親は鼻をすすりながらも昼食の準備を始めた。アキラはテレビでも見ながら昼食が出来るのを待とうと思い、視線をテレビに向けた。すると、その横目に父親の姿が入り、すぐに視線をちゃぶ台の上に移した。理由があった訳では無いが、なんとなく横目であっても父親の顔を見る事が憚られた。アキラは仕方なく、ちゃぶ台の上をジッと見つめていた。
10分後、母親が3人分の食事をちゃぶ台の上に並べた。アキラは3人分の食事が並べられたことで、父親と母親が自分との昼食を待っていた事に気付いたが、その事には何も言わなかった。
母親の手による最後の食事はチャーハンだった。母親としてはもっと手の込んだ食事を作ってあげたかったが、そんな気力も時間も無く、冷凍庫にラップで包んであったご飯を使って急いで作った。そうして母親の手によるアキラの最後の食事が始まった。家族3人で取る最後の食事が始まった。
3人は黙々とチャーハンを口に運んだ。アキラを含め、父親も母親も泣きやんでいたが、3人の目は真っ赤だった。
「ごちそうさまでした」
一粒残さず食べ終えたアキラは、珍しくそんな言葉を言った。今まで言った事が無い訳ではなかったが、あまりそう言った言葉を言わなくなっていた。そしてその言葉と同時に立ち上がると、そのまま2階の部屋へと戻っていった。
時刻は2時50分。部屋へと戻ったアキラは、仰向けにベッドへと倒れこむように寝ころんだ。最後の食事も済み、いよいよ終末ケアセンターに行って安楽死をするだけとなった。
アキラは小さい頃の思い出を頭に巡らすかと思いつつ、天井を見つめた。だが頭に浮かぶのは成人となってからの境遇の事ばかりだった。
何十社も廻ったのに、1社として自分を雇ってくれなかった。一体あの就職活動とは何だったんだろう。あの時の自分は何の為にそんな事をしていたんだろう。
未成年と呼ばれる時には強制的に勉強を強いられ、自主的に行事をこなせと命令され、社会人と呼ばれる頃には自主性を持って自分で決めろ、仕事も自分で探せと変遷した。そして自分はそれを探しきれずに、結果ホームレスになった。いっその事、仕事も住む家も、結婚相手すらも政府が決めるような社会体制であれば楽だったのになあ。
一体、今まで生きてきた30年は何だったんだろう。
結果で言えば意味は無かったという事だろう。まあそんな意味の無い人生もそろそろ終わる。何だか疲れた。終末ケアセンターにいって安楽死する事すらも面倒に思えてきた。目を瞑れば今すぐ死ねるというなら目を瞑ろう。もう2度と目を覚ます事が無いのならば今直ぐに目を瞑ろう。
アキラは目を瞑った。当然死ぬ事は無く、瞼の裏には小さい頃に両親と行った海水浴や、潮干狩りといった思い出の場面が映しだされた。
それほど詳細な思い出では無いが、瞼に映し出されたその景色は、懐かしくも美しかった。取るに足らない場所での単純なそれが、とても美しく見えた。
結果で言えば全てが無意味だったのかもしれない。無意味なのかも知れないが、これで終わってしまうと思えば、それはそれで悪くはなかったのかなと、アキラは自分に言い聞かすと共に鼻で深呼吸1つした後、パチッと目を開けた。
「そろそろ行くか」
アキラは「よしっ!」という掛け声と共にベッドから起き上がり、机の上に置いてある財布と終末通知の葉書を手に取ると、2つ一緒にズボンの後ろポケットに入れ、部屋を後に1階へと降りていった。
「じゃあお父さん、送ってくれる?」
「……ん? もう行くのか?」
居間でテレビを見ていた父親は、意外な事を言われたとでも言う様な表情を見せた。アキラとしては予定していた時間通りに声をかけたのに、何故に父親がそんな意外な表情をするのか分からなかった。
父親はこのまま時が止まってくれればいい、息子がこのまま生きてさえいればそれでいいと思っていた所に、その思いを打ち砕くような息子の言葉に、分かっていたはずの当り前の言葉に動揺してしまった。
「まだ時間はあるんじゃないの?」
父親の横に座る母親は哀しげな笑顔を見せつつ言った。行かなければならない事は分かっている。それでもギリギリの時間まで家にいて欲しいと、母親の表情が語っていた。
「まあギリギリ行くのもなんだしね。万が一って事もあるし」
アキラは俯き加減に答えた。その自分の言葉に、「今から死ぬって人間が万が一なんて変だな」と、ふと笑いそうになった。あくまでも車の故障や事故といった事を懸念しての「万が一」という言葉を使っただけだったが、他に良い言い方が思いつかなかった。
「じゃあ準備するから、ちょっと待ってろ」
仕方が無いと、父親は諦めた様子で立ち上がり、1階にある夫婦の寝室へと向かうと、グレーのジャケットを手にすぐに戻ってきた。
「準備できたぞ」
父親は居間に向かってそう声をかけると、そのまま玄関へと向かった。アキラもすぐに父親の後を追うようにして玄関へ向かった。
父親は靴べらを使って茶色の革靴を履き、玄関ドアの際に立つと、上がり框に腰掛けながら、スニーカーの靴紐を結ぶアキラの姿を黙って見ていた。そこで、まだ母親が来ていない事に気付いた。
「おーい、お母さーん。どうしたー。行かないのかー」
父親は居間にいるはずの母親に向かって叫んだが、母親からは何の返答も無かった。父親は「まったく」と、面倒臭そうに履いたばかりの靴を脱ぎ、居間へと向かった。アキラは靴紐を結び終えると、「外で待ってるよ」と、父親の背中に向かって声を掛け、そのまま玄関のドアを開けて外へと出て行った。
「おい、お母さん。どうした? 行かないのか?」
母親はちゃぶ台を前に、背中を丸めて正座していた。
「……ねえ。本当にアキラ死んじゃうの? お父さんは、それでいいの?」
「いいも何も、寿命だと言われれば仕方ないだろう? それとも安楽死させずにアキラが苦しんで逝く姿を見たいとでもいうのか?」
「そんな事いってないでしょ! もしも終末通知が嘘とか、間違いだったとしたら安楽死なんて言っても、ただの自殺じゃないのって言ってるのよっ!」
「そんな嘘を政府が言うってのか? 安楽死を選ばない人が終末日を過ぎても生きているって事があるなら、そんなの大ニュースになっているよ。きっとアキラは今日死なないなら明日死ぬ。その時は苦しんで死ぬかもしれない。それでも良いのか? 最後は苦しまずに逝かせてあげる、その時には私達が傍にいてあげる。それしかないんじゃないのか?」
「そんなの分かってるわよっ! 分かっていても自分の子供がこれから死んでいくなんて事、受け入れられるはずないでしょって言ってるのよっ!」
「……なあ? アキラには少しでも気持よく終わらせてあげようよ。もう我々には出来る事なんてもう無いんだから」
「……」
選択肢が無い事は母親も分かっている。だが自分の子供が死に逝く様を見るなど耐えられない。かといって、その場に立ち会えずに息子が死んでしまう方が良いかといえば、良いはずも無い。
大学を卒業するまでの22年という歳月をかけて育て上げた息子が死んでしまう。それも自分達よりも先に死んでしまう。贅沢をさせてあげる事は出来なかったが、可能な限りの愛情を以って育て上げた子供が死んでしまう。
息子の就職は上手くいかなかった。だとしても、どんな形でも良いから生きていて欲しいと願うのは、母親として当り前の事ではないだろうか。最後は傍にいてあげたいし傍にいたい。だがそれでも死ぬ姿を見たくない。
そんな葛藤が母親の中で続いていた。
父親は感情という物を、言葉や表情だったりで表現する事が得意では無かったが、気持としては母親と同じつもりであった。母親のように表だって表現する事が出来ないだけで、大事な一人息子が自分より先に死んでしまうという理不尽とも言える状況に対して、言いたい事もあるが言葉に出来ない、態度で示せないだけであった。特に「愛情」といった表現は、男よりも女の方が、というより「母親」と言う存在の方が上手なのかもしれないなと、ある意味で忸怩たる思いがあった。故に今はただ、感情をストレートに出せる妻に対して、夫として冷静に務めるという事が正しいのだと、自分に言い聞かせた。
アキラは駐車場の中、父親の車の傍に立ちながら、口を半開きに空を見上げ、流れる雲を何の気なしに眺めていた。
するとそこへ、父親と母親がゆったりとした足取りでアキラの元へとやってきた。ゆったりというよりは、あきらかに不貞腐れている母親の手を父親が引っ張るという具合で、ノロノロと歩いてやって来る。アキラはこの短時間の間に父親と母親がケンカでもしたのだろうかと思ったと同時に、その原因は自分だろうなと、この期に及んで自分が原因で争わないで欲しいなと思いつつ、俯き嘆息した。
母親はグレーのズボンに着古したブラウンのスウェットという家着姿のままだった。アキラはその姿を見ても何ら変には思わなかったが、父親は外出するのに家着のままで良いのか、着替えないでいいのかと優しく質問したが、「お洒落する必要がどこにあんのよ!」と逆に怒鳴られた。父親は「分かった、分かった」と諌めつつ、母親の手を引きながら、ようやく家から連れ出した。
父親は不貞腐れたままの母親を助手席に押し込むと、自分は運転席に乗り込んだ。その様子を黙って見たいたアキラも後部座席へと乗り込んだ。アキラと母親の2人がシートベルトを締めたの確認した父親は、「じゃあ出るぞ」と一声かけると同時に車を発進させた。車が発進した直後、アキラは軽く振りむき、もう2度と帰る事の無い、20年以上住んだ我が家にチラリと目をやった。
エンジン音だけが車内に響き渡る車が走る事およそ10分。アキラ達3人は終末ケアセンターへと到着した。
父親が先日と同じ駐車場の同じ場所へ車を停めると、無言のままに3人は降車し、終末ケアセンターの中へと入って行った。アキラはその光景にデジャビューを感じ、いっその事昨日に安楽死しても良かったのではと、改めて思う。
「安楽死をお願いしたいのですが」
受付に座る女性に向かって父親がそう言うと、「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」と、女性はそう言って、どこかへと電話をかけ始めた。
アキラ達が受付付近で待つ事数分。コツ、コツと、ゆっくりとした足音が響いて来た。その足音は徐々にアキラ達の方へと近づき、アキラ達3人の1メートル手前まで来て止まると、3人に向かって恭しく頭を下げた。そこには、先日3人が来た時に応対した、終末ケアセンターの職員である井上正継が立っていた。
井上は「では、こちらへどうぞ」と、先日3人が来た時と同じ打合せルームへと3人を案内し、先日同様に3人は同じ椅子に腰かけた。
「本日は安楽死をご希望されるという事で、宜しいでしょうか?」
その井上の問いに「はい。お願いします」と、アキラがきっぱりと答えた。
「分かりました。では最期となる場所についてですが、あちらの庭か当建物の上階にある個室がありますが、どちらが宜しいでしょうか?」
井上は打合せルームから見える庭を手で指し示すと共に、持参していたタブレットで個室の写真を提示した。写真に写る個室からの光景は、ほんの少し高い位置から見る住宅街という何の変哲もない景色だった。
「……あー、じゃあ、庭で」
「了解致しました。では準備致しますので、こちらで少々お待ち下さい」
井上はそう言って、アキラ達3人を部屋に残し、建物の奥の方へ去っていった。
井上を待っている間、父親は天井を手持無沙汰に見つめていた。母親は艶の無いステンレスのテーブルの上をじっと見つめていた。アキラは打合せルームのすぐ横に広がる庭を眺めていた。
暫くして、コロコロと軽い音を立てるキャスター付きのワゴンと共に井上が戻ってきた。
井上が押してきたそのワゴンの上には、一見ブランド品に見える焦げ茶色をメインに金色の装飾が施された万年筆。バインダーに挟まれたA4書類。そして先日サンプルとしてアキラ達が見たのよりも少し幅のある、使い古された感じの残る高級そうな木箱が乗せられていた。
その木箱の中には、今度は赤いサテン生地のクッションの上に、シャンパングラスと呼ばれる細長いグラスと、終末ワインが横に寝かされていた。サンプルの時には空だった細長い薄茶色の意匠のある瓶には、どす黒く見える液体が入り、スクリューキャップできっちりと封じられていた。
「では、参りましょうか」
井上はアキラ達3人に向かってそう言うと、3人はおもむろに席を立ち、そのまま打合せルームを出て行った。
ワゴンを押し歩く井上を先頭に、アキラ達3人が打合せルームから30メートル程歩かされると、そこには全面ガラスの扉があった。そして井上が壁に設置された開閉ボタンを押すと、両引き戸のガラス扉がゆっくりと開き始め、ドアが完全に開いたところで、井上を先頭に4人は庭へと出た。
「お好きな場所へお座りください」
井上がアキラに向かってそう言うと、アキラは庭を見渡した。
アキラの目に留ったのは、丸型の白いテーブルを囲むようにして、1人用の白い椅子が4つ置いてある場所。アキラは「じゃあ、あそこで」と指さし、「承知いたしました。では参りましょうか」と、再び井上を先頭に4人は歩き出した。
井上は芝生の上を、書類や万年筆がワゴンの上から落ちない様にとゆっくりと歩き、その後をアキラ達3人もゆっくりとついて行く。
最後の場所と決めた丸いテーブルの場所に4人が着くと、アキラは無造作に4つの内の1つの椅子を引いて、どかっと腰掛けた。母親はアキラの隣りの椅子に静かに腰掛け、父親はアキラの対面の椅子へと腰掛けた。
井上は空いている椅子付近にワゴンを置くと、「ではこちらをお願いできますか?」と、ワゴンの上のバインダーに挟まれた書類と万年筆を手に取り、テーブルの上、アキラの目の前へと置いた。
「終末ワインを提供するにあたって承諾書に署名が必要となります。こちらが承諾書の書類になりますので、ご確認頂けますか? 質問や疑問があれば仰って下さい。ご確認頂き、問題等無ければ、こちらにご署名なさって下さい。ご署名なさって頂いた後、こちらの終末ワインを提供致します」
【終末ワイン摂取承諾書】
このワインを摂取すると、直ちに安楽死を迎える事になります。
あなたがそれを望むのであれば、下記に自筆でご署名をお願いします。
そんな短い文面の承諾書で、いちばん下に署名欄。アキラは承諾書を手に取り目を通した。短い文書なので確認する事も特に無く、目の前に置かれた万年筆を手に取りキャップを外すと、署名欄に自分の名前をサッと書き入れ、署名を終えた承諾書と万年筆をテーブルにそっと置いた。
井上は書類を手に取り、名前が正しく記載されている事を確認した後、担当者欄に自らの名前を署名した。
「確認致しました。ありがとうございました」
井上は承諾書と万年筆をワゴンの上に戻すと、細長いワイングラスをテーブルの上、アキラの目の前に置いた。そして終末ワインのボトルを手に取り、スクリューキャップの栓を開けた。
井上はそのままワイングラスへとそっと注ぎ始め、そのまま全量を注いだ。全量といっても100ccといった量であり、井上は注ぎ終わった空のボトルのキャップを締め、再び木箱の中へと戻した。
「ではこちらの終末ワインを提供させて頂きます。ただ、ご家族様でタイミングを計ってお飲み頂きたいのは山々ですが、職員帯同の下でお飲み頂くという事がルールとなっておりますので、私は少し離れた場所で見させて頂く事を御容赦ください。では。」
井上はそう言うと共に一礼し、ワゴンを押しながら10メートル程離れた場所へと行くと、その場でアキラ達3人の方向に向き直り、アキラを監視するよう両手を前に組みその場に位置した。
時刻はもうすぐ午後4時。太陽もだいぶ傾いていた。アキラは目の前に置かれたワイングラスを見つめていた。そして、ふと伊藤の事を思い出した。自分と会話している最中に突然苦しみ出し、突然亡くなったその人の事を。
今自分はこうして最期の時を家族と過ごしている。今際の際と言っていい状況ではあったものの、自分には帰れる家があった。そしてその家には家族がいた。伊藤の場合には自らが家族を棄て、帰る場所を棄てた。帰れる場所も無く、待っている人もいない。その結果、最期は数回会話しただけのホームレスであった自分に看取られた。
そんな路上で苦しみ悶えながら死んでいった伊藤が不憫に思えて仕方がない。こうして父親と母親に看取ってもらう、親しい誰かが最期に傍に居てくれるという事は、とても有り難く、幸せと呼べる事なのかもしれないな。
アキラの頭の中に『感謝』と言う言葉が浮かんだ。とはいえ、それを直接口にするのはこの期に及んでも恥ずかしく、口には出せなかった。そんな事を頭で考えていたら、ふと笑ってしまった。
父親は諦めたかのような顔をしながら、目の前に座る息子の様子を見ていた。母親は泣くのを我慢するかのように、歯を食いしばりながら息子を見ていた。その母親の両手は膝の上に置かれ、ハンカチを力いっぱい握りしめていた。
そして不意にアキラが笑った。その事に父親も母親も理解できなかった。
この期に及んで何が可笑しいのだろう。きっと親の思いは理解出来ないのだろう。もし息子が結婚して子供がいたならば、少しは自分達の思いも分ってくれただろうに。
そういった悔しさとも悲しさとも言えない複雑な感情が、両親の心を過った。アキラとしては感謝という物を表現出来ない自分を笑っただけであったが、それ自体も言葉や態度で表わさない為、アキラの中の感謝という気持ちが父親と母親に通じる事は無かった。
アキラは空を仰ぎ見つつ溜息をついた。自分には特に夢というものは無かった。逆に夢を追っている途中で終末の宣告をされるよりは良かったかなと、アキラは自分を納得させる。
いよいよ終わる。今にして思えば、死んでもいいからやってみたいという事が欲しかったなあ。そう言うのを何と言うのだろうか? それが『生きる糧』『生き甲斐』という奴なのだろうか?
アキラは空を見ながらそんな事を思いつつ俯き目を閉じた。そして目を開くと同時に顔を上げた。
「……じゃあ、そろそろ逝きます。30年間お世話になりました」
アキラは両親と目を合わさずにそう言って、軽く頭を下げた直後、ワイングラスをガッと掴み、一気にワインを飲み干した。そしてワイングラスをテーブルにソッと置いた直後、アキラの頭にふと過った。
『そういえば俺、親孝行ってのをした事あったかな?』
◇
アキラの葬儀は家族葬という目立たない形式で行われ、火葬された後、急ぎ購入した真新しい墓の下に納骨された。還暦を間近に控えた両親は、1人息子が早々に旅立ってしまった事に、しばらくは憔悴しきりといった状況であった。
父親は普段と変わらぬように過ごしていたつもりではあったが、見るからに白髪が増え、周囲の人々から見ても生気が無くなっていた。
母親はアルバムを見ていた。アルバムには20年近く前、家族3人で海水浴や潮干狩りといった旅行の様子を写した写真が貼られていた。そういった写真を眺めるといった日々を過ごしていた。
写真には幼いアキラが映っていた。そのアキラとまだ若かった母親が体を寄せ合い、満面の笑みを浮かべながら2人揃ってピースサインをしているといった写真が多数あった。勿論、幼いアキラを真ん中に、父親と母親との3人で映る写真も沢山あった。母親はそんな写真を見る度、笑顔であるが涙を流すといった日々を過ごしていた。
しかし日々を重ねる毎に、そういった涙を流すといった悲しみは薄れていくと共に、2人は徐々に元気を取り戻し、今も仲良く健やかに過ごしていた。
伊藤がかつて勤めていた会社は年を追う毎に経営が厳しくなり、起死回生を狙った公共工事に赤字覚悟で入札するも、資金繰りが追いつかず、結局は倒産した。
夜逃げ同然で倒産した事により、退職金も出ずにそのまま全員が解雇となった。以前にリストラによって会社を去っていった人達がこの報を知ると、「退職金を貰えただけ自分達の方がましだったかな」と、溜飲を下げた。
ホームレスとして路上で亡くなった伊藤の遺体は、伊藤の妻である真季子から引き取りを拒否された為、行政の手によって火葬が行われ、遺骨は無縁墓地へと納骨された。火葬納骨された事を行政当局から真季子へと電話で連絡をしたが、真季子は素気ない様子で「ご苦労様でした」と一言だけ言って電話を切った。
真季子は遺体の引き取りを拒否した事に対して多少の自責の念を感じた。しかし、自分たちを棄てた人間という意識が変わる事も無く、そんな感情も数日で消え去った。
その半年後、真季子はかつて家族で暮らしていた家から娘の麻美と出ると同時に、真季子のパート先の同年代の独身男性と再婚した。
麻美は暫く経ってから父親が路上で死亡したという事を母親から聞かされ、数日間だけは悲しんだ。しかし、母親同様に自分達を棄てた父親であるという思いが強く、悲しみはすぐに消え去り、別の男性と再婚するという母親を応援した。
伊藤が亡くなってから後、真季子も麻美も、伊藤が埋葬されたという無縁墓地を参ってはいない。
◇
20XX年『終末管理法』制定。
制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人たちへのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。
終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。
それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年 09月11日4版 誤字含む諸々改稿
2018年 12月 1日3版 誤記修正、冒頭説明を最下部に移動
2018年 11月20日2版 誤記修正、冒頭説明一部修正
2018年 11月 1日初版