三題囃(フェンシング、コーヒー、神経症)
今回のお題は「フェンシング」「コーヒー」「神経症」。
かかった時間は1時間44分でした。
「コーヒーを飲まないと気が済まないんです」
ぼくは医者に訴えた。
「それも日に5杯や6杯じゃありません。10杯は飲まないと気が済まないんです。はじめはカフェイン依存症なのかと思いました。でも飲みたくなるのはコーヒーだけで緑茶や紅茶ではダメなんです。震えたり発疹が出たり、そういう体の異常はありません。でもしばらく飲んでいないとどうにも心が落ち着かなくなって、いまでは外に出るのにも缶コーヒーを2、3本持ち歩かないと不安になってしまうくらいです。先生、いったいぼくはどうなってしまったんでしょう!?」
先生は静かにうなずいてから言った。
「コーヒーはブラックですかな?」
「え? あっ、はい。だいたいそうです」
「ミルクは入れない?」
「はい」
「砂糖はどうです?」
「ときどき砂糖入りも飲みます」
「砂糖入りはブラックを飲んだときと同じ効果がある。でもミルク入りでは効果がない。そうではないですかな?」
「言われてみれば……。そうかもしれません」
「チョコレートはどうです? 黒いチョコレート」
「あっ! よくコーヒーと一緒に食べてます!」
「ホワイトチョコレートではダメ」
「たしかに、ホワイトは食べません」
「ひじきや海苔は?」
「はい?」
「黒豆やナスなんかも食べたくなりません?」
「あの、おっしゃっている意味がよくわからないのですが」
「つまりはこういう事ですな」
先生は咳払いをしてから続けた。
「あなたは黒い飲み物や食べ物を飲み食いしないと気分が落ち着かない。その中でもコーヒーというのは比較的接種しやすい。だからあなたはコーヒーを常に飲むようになり、コーヒーを飲まないと気が済まないのだとあなたは思った。そうではありませんかな? でも重要なのはコーヒーではなく黒いかどうかなはずです」
ぼくは口にしてきた食べ物を思い出してみた。
ホワイトシチューよりビーフシチュー。
海苔なしおにぎりより海苔の巻かれたおにぎり。
角砂糖より黒糖。
クリームパンよりチョコレートパン。
みたらし団子よりあん団子。
たしかにここ最近、黒かそうではない食べ物かという場面で黒いものを選んできた気がした。
そういえば、レストランのメニューにイカスミパスタがあって異様に食べたくなったこともあった。口の中が真っ黒になりそうで結局は食べなかったが、我慢するのが大変だったのを覚えている。
「言われてみれば、コーヒー以外にも黒い食べ物をよく食べていた気がします」
ぼくは答えた。
「それで先生、これはいったいどんな病気なんですか!?」
「ふむ。これはつまり、黒いものを腹に収めてる事によって自分はほんとうは腹黒いのだと無意識に確認、あるいは周囲にアピールしておるのですな。最近周囲からいい人だとか、正義感があるだとか、そういう褒められ方をされたのではないですか?」
「すごい、その通りです!」
「しかしあなたはそれが過ぎた褒め言葉だと感じている。ほんとうはそんなにいい人じゃないし、正義感もないと思っている。自分の中身への自分の評価と周囲の評価のギャップ。それが罪悪感のようなわずかな軋みを生みだし、結果、あなたを黒いものを腹に収めるという行動に走らせておるのです。まあ、一種の神経症ですな。しかし、黒いものをいくら食べたところで周囲からの評価は変わらない。それではただの自己欺瞞。黒いものは飲みこむのではなく、吐き出さなくては」
「なるほど。でも具体的にはどうすればいいのでしょう」
「ふむ。ならばひとつ治療を施して差し上げましょう」
そう言って先生は椅子から立ち上がると、近くに控えていた看護士に「あれを持ってきてくれ」とつぶやいた。看護士は診療所の奥から長い長い針を持ってきた。ぼくは脇から汗が流れるのを感じた。どう見たってそれは……。
「先生、それはフェンシングで使う剣ですよね?」
「正確にはフルーレという」
先生は看護士から剣を受け取り、話しを続けた。
「はい、上の服を全部脱いで、背中をこちらに向けて」
「ぬ、脱いでどうするんですか?」
「腹の虫を少し刺激してやるのです」
「どうやって?」
「いいから脱ぐ! 後がつっかえているのですよ!」
とつぜん大声を上げた先生に怯えたぼくは、とっさに服を脱いで背中を向けてしまった。
やっぱりぼくはだたの小心者だった。正義感なんてありそうもない。
「それでは、行きますぞ。息を吸って!」
背後から指示を出す先生。おそらくすでに剣を構えて立っているのだろう。それを思うと背筋が凍りそうだった。でもよく考えてみれば先生はこの数分間の診察だけでぼくの現状を言い当てたのだ。もしかしたらこの人はとてもすごい先生なのかもしれない。フェンシングの剣を使った治療も最新医学に基づいたもので、まだ巷に知られていないだけで、5年ほど経った頃にはどこの診療所にもフェンシングの剣が置かれるようになっているのかもしれない。うん、きっとそうだ。そうに決まっている。
だからぼくは息を吸って、先生の次の指示を待った。
「はい、ゆっくり吐く!」
ぼくはゆっくりと息を吐いた。それに伴って全身の力が抜けていく。
その時だった。
「はあああああああああ!」
先生の雄叫びが診察室に響いた。
先生はぼくの腰を二カ所突いた。それは一瞬のできごとでほとんど同時だった。二カ所のどちらが先かわからないほどだ。「ぼぐぉ!」というおかしな声がぼくの口からこぼれた。
「はい、終わりましたぞ」
と先生は言った。
一瞬全身を痛みが駆け巡った気がしたが、終わってみればもう痛みはなかった。
「せ、先生、これでほんとうによくなるんですか?」
服を着ながらぼくは訊ねた。
「もちろんです。心と体はつながっておりますからな」
「そうですか」
「それでは、お大事に」
ありがとうございました。
そう言ってぼくは診察室を出た。
数日後。
ぼくは診察室の椅子に座り、医者に訴えていた。
「先生。今度は牛乳を飲まないと気が済まないんです。それだけではありません。白米とかマシュマロとか、とにかく白いものが食べたくて仕方がないんです。食べないと気が済まないんです。いったいぼくはどうなってしまったんでしょう!?」
「なるほど」
先生はそう言うと椅子から立ち上がり、近くに控えていた看護士に「あれを持ってきてくれ」とつぶやいた。
戻ってきた看護士の手には、木刀が握られていた。