三題囃(講義録、ブナ、駅)
今回の題は「講義録」「ブナ」「駅」でした。
かかった時間は2時間15分。
よく知らないものがある上に、どう組み合わせたらいいのかわからなくて苦戦。
無理矢理登場させた感がいなめない。もうちょっとうまくつなげられたらいいのだけれど。
知らない事については書けない。とうぜんだ。例えばブナという木の事をぼくはまったく知らない。そういう名前の木があるらしい事くらいは知っている。でもそれだけだ。どのくらいの大きさになるのか、どんな枝の広がり方をするのか、どのような葉を付けるのか、どんな場所で生育するのか。実は広葉樹か針葉樹かすら知らない。目の前にブナがあってもぼくはブナだと気がつかないだろう。だから、もしかしたらぼくはブナを目にした事があるのかもしれない。それすらもわからない。
でも本当に何も知らなかったら、ここまでの「ブナを知らない」という文章すら書けないだろう。そういう意味では、ぼくはブナを知っている。知らないけれど知っている。知らない事を知っている。ブナという名前の木があり、それについての知識なり情報なりがあるだろう事を知っている。だから「ブナを知らない」という事も書ける。
知らないという事を知っている。
それが好奇心のスタートなのかもしれなかった。
ブナと呼ばれている女の子と出会った。大学の友達に飲もうと誘われて行ってみたら友達のひとりが女の子を連れてきていて、それがブナだった。
「え、なに? 彼女?」
いつも通りの野郎だけの飲みだと思っていた友達各位はブナを連れてきた友達を質問攻めにした。ぼくはそれを遠巻きに聞いていただけだったが、彼曰く、彼女ではない。ぼくたちと同じ大学の学生で同じゼミに所属した事で知り合いになったらしい。学年は同じ。言われてみれば授業で姿を見た事がある気がする。あまり目立つ子ではないから印象が薄かったのだ。
「それがもうとっくに二十歳を過ぎているというのに酒を飲んだことがないっていうからさあ」
それで試しに「今日友達と飲みに行くんだけど来る?」って聞いてみたら「行く」と答えたらしい。
そして現在に至る。
いつもの野郎5人に紅一点の女の子だ。
ぼくはブナの隣に座っていた。せっかくだからと友達が彼女を真ん中に座らせたのだ。ブナの右隣が彼女を連れて来た友達で、左隣がぼく。どう見てもおとなしめの彼女が野郎だけの飲みに参加しているだけでもおかしいのに、男に囲まれて座っている姿はどこか奇妙だった。
ブナに関する質問攻めが終わると野郎たちはいつも通り男同士で馬鹿騒ぎをはじめた。そんな中で彼女はおとなしい見た目を裏打ちするかのように静かにゆっくりとカシスオレンジを飲んでいた。野郎たちもそんな彼女をいじりすぎるのも悪いからとひとまず話しかけるのをやめ、彼女のペースで飲ませる事にしたらしかった。彼女はゆっくりと飲みながら男の馬鹿な会話を観察するように聞き、ときおり微笑んでいた。
ぼくは彼女に若干の親近感を覚えた。ぼくもどちらかというと馬鹿な会話には参加せずにのんびりと飲むほうだった。こう書くと彼らを馬鹿にして上から傍観しているように聞こえるかもしれないが、もちろんそんなつもりはない。ぼくは彼らの話しを聞いているのが好きだった。会話に参加しなくても、特におもしろい事が言えなくても、ここにいさせてくれる彼らが好きだった。
ほどなくして飲み会は終了した。
家が近くて歩いて帰るもの。駅へと向かうもの。それぞれの帰路へと着いた。
駅へと向かった3人のうち、ぼくとブナは同じ方向の電車だった。扉の近くにぼくたちはふたり並んで立ち、電車に揺られた。はじめてのお酒だというからどうなるかと思ったが、彼女の足取りはしっかりとしていたし顔色もよかった。ぼくと違ってお酒に強いのかもしれない。
「お酒はどうだった?」
ぼくは彼女に訊ねた。
「少しふわふわする。でもあまり変わらなかった。そんなに酔っていない気がする。もっとおかしな事になるのかと思ったんだけど」
「どうしてこれまでお酒を飲まなかったの?」
「特に飲んでみたいという気にならなかったし、飲む機会もなかったから……。実はうちの親が禁酒家で、お酒を飲んだら理性を失ってダメだとか、脳が萎縮するとか、そういう事を聞いて育ったから。それにお酒を飲んだら酔っているあいだ勉強ができないって。変にストイックで、私にもそれを求めているの」
「なるほど。でもブナちゃんは今日お酒を飲んだ」
「うん。やっぱりどんな味がするのか知りたいもん。飲んだらどうなるのか。実際に体験してみないとわからないし。私ね、これまで勉強漬けだったの。勉強することが世界を知ることだって、そう親に言われて、世界を知るために一生懸命勉強してきた。でも気づいたの。講義録を読むのと実際に講義を聞くのとでは温度が違う。講義を聞くのと実際にそれを体験するのとではもっと違う。言葉ってやっぱり抽象的だよね。必ず何かを言い落とす。体験しないとわからない事がどれだけあるか。私、しゃべり過ぎかな?」
そこまで一気に言うと、やっぱり酔っているのかも、と彼女は言った。
そうかもね、とぼくは答えた。
「ねえ、どうしてブナって呼ばれているの?」
「どうしてだと思う?」
ぼくは首を振った。
見当もつかない。
その時電車が駅に停車し、開いた扉から彼女がホームに飛び降りた。
「私、この駅だから」
彼女は振り向いて手を振った。
扉が閉まるまで彼女は何も言わず、微笑んでいるだけだった。
彼女の降りた電車がぼくを運んで行く。
ぼくは帰ったら、どこに行けばブナの木を見られるのか、調べる事にした。
それまでに酔いを覚まさなければならない。