愛葬
コンクリートの狭い通路に響く、荒い呼吸音。
それが反響し、あらゆる所から音が耳に届く。催眠状態に陥っているかに錯覚を起こす。幾重にも回る視界が、よりそれを大きくさせた。
目の前を行く皆の姿が逆さになった。天井を走るなど、何と滑稽な光景だろうと、走りながら笑みを漏らした。
皆が立ち止まり、自分に駆け寄る。肩を掴まれ、体を起こされる。そこで自分は倒れたのだと気づく。
レイやウィルソンが自分の名を呼び、頬を叩く。その手を払い、前へ進む。
ザックの脳裏に、ようやく答えが閃いた。こんな簡単な事を何故今まで気がつかなかったのだろうと、ザックは心の中で笑った。
眼前を走り始めた細い肩を掴む。そのまま振り向かせる。若い女は驚きこそしたが、状況が分かっていないのか、小首を傾げた。
奇しくも、自分が最初に異変に気づいた光景と似通ったその状況に、奇妙な縁を胸に秘めて、彼女の肩に力を込め歯を立てた。
そう、これが自分の中に芽生えた答え。
これこそが、今ある本能に従った答え。
ザックはリコの肩の肉を食いちぎった。
一同が足を止める。ジェイムズがリコに振り返る。
ディジーがザックを引き剥がそうと駆け寄る。
全てがスローモーションに感じた。
「リコ―――ッ!」
ジェイムズが目を見開き叫ぶ。
ザックのすぐ後ろにいたディジーが、ザックを羽交い締めにするが、暴れたザックの肘が顎に入り、後ろから来るタップ達の方に弾かれた。
「ザック! お前!」
先頭のレイ達は本館につながる扉に辿り着いていたが、カギを確かめるアンバーとエミリーを残し、数メートル後方のザックに走る。だが、ウィルソンはアンバー達の方へ戻っていく。
「前から来た!」
数人の捕食者が通路を滑走する。アンバー達の前に立ちはだかったウィルソンは、マシンガンを乱射する。
リコの肩に噛みついたまま、ザックは灰色に変わりつつある目を見開き、本館へ通じる扉に突進してきた。ジェイムズと駆けつけたレイは、それになぎ倒される。
扉にカギはかかっていなかった。アンバーが慌てて施錠しようとするが、マスターキーの束を落としてしまう。
迫るザックはリコを抱えたまま、アンバーとエミリーを蹴り飛ばし、扉を開け放った。
「錯乱してやがる! ザックを止めろ!」
タップが叫び、イーリアスに支えられ起き上がったディジーが銃を拾い走り出す。
「ジェイムズ……」
口から血の泡を吹いたリコが手を伸ばす。ジェイムズは這ったまま、その延長線上で手を伸ばす。
「リコ―――ッ!」
ジェイムズが叫んだ。その叫びに応えられず、リコはザックに抱えられたまま、扉の奥に姿を消した。
「マズいぞありゃあ。本館に逃げやがった」
扉に追いついたディジーが、ショットガンの弾を確かめる。その脇から、ジェイムズが銃を握りしめすり抜けていった。扉の先の闇に走り出す。
「待てジェイムズ! ジェイムズ!」
レイの制止もジェイムズには届かない。リコを呼ぶ声が遠ざかる。
「リコ達を追う」
レイがエミリーにバッグを預け、自分はマシンガンのストラップを肩にかけ、ショットガンを掴んだ。
「待て、もう女は助からねえぞ。行くだけ無駄だ」
ディジーがレイを止める。レイは手を払う。
「最悪はジェイムズだけでも連れ戻す。先にパークへ行ってくれ」
「だったら俺も行ってやるよ。甘ちゃん一人に探せるとは思えねえ」
ディジーはバッグから予備の弾薬を掴み、ジーンズのポケットに押し込んだ。
「ウィルソン、皆を連れて先に行ってくれ。ジェイムズ達は連れて帰る」
前方の捕食者を粗方片づけたウィルソンは、レイに深く頷いた。
レイとディジーが闇に消える。微かに見えた背中に、タップは叫んだ。
「生きて帰ってこい! 先にパークで待ってるぞ!」
返事はなかった。タップはただ、その先の闇を見つめた。
「感傷に浸るのはいいがの、奴らが来なすったよ」
イーリアスが後ろを指す。遥か後方に人影が蠢く。
「突破してきやがったか」
タップはショットガンを杖代わりに体を支えると、ウィルソンに合図する。
ウィルソン、アンバー、エミリー、タップ、イーリアス、トレバーの順に、パークに続く通路を走り出した。犬が鳴きながら追走する。
やがて出口の扉が見えてきた。
再び本館に足を踏み入れようとは、ジェイムズは思いもよらなかった。通路は一階につながっていた。
血液が点々と床に続いている。通路の先の倉庫には、それがライトに照らされ、鮮やかに輝いていた。
「リコ! リコ!」
危険もかえりみず、ジェイムズは叫ぶ。案の定、倉庫の奥から物音が聞こえた。
つながる血液の道を辿る。これがリコのものだと思うと、目頭が熱くなった。
今、彼女は苦しんでいる。恐怖に、痛みに、心と体を壊されんばかりに苦しんでいる。
ジェイムズは銃を構え、流れる脂汗を拭きながら、血を辿っていった。
倉庫と売場を隔たる扉に行き着く。血の道はその先まで続いているようだ。
ジェイムズは扉を開けた。
何十、何百の顔が振り返る。崩れたものや骨が露出しているもの、まだ綺麗な状態を保たれたものなど、様々な顔がジェイムズを視界に捉えた。
黒い渦がうねりと共にジェイムズに押し寄せる。
何を考えていたのか。
何を思っていたのか。
弾が尽きるまで目の前の邪魔な存在を消す。
リコを助ける為、目の前に映るもの全てが邪魔だった。
迫る数は計り知れない。赤と黒の波にしか見えない。
次々と倒れていく最中、頭部にダメージを負っていない者は起き上がり、ジェイムズの腕や足にしがみつく。ジェイムズはそれらを振り払い、撃ち、蹴り倒した。
腕の肉が削られる感覚が頭の天辺を貫く。痛みより先に、引き金に力を込める事に神経が集まった。
頭を破裂させた者に巻き込まれ、数人が倒れる。その先に見えた姿に、ジェイムズは髪の毛が逆立つ思いだった。
「リコ―――ッ!」
銃を撃ちながら、前に進む。自身が倒した屍を、その足で踏み越えていく。
空になった銃を捨て、ショットガンを辺り構わず乱射する。
後方からきた捕食者が、三ヶ所同時に皮膚を食いちぎっていった。それに怯む事なく、ジェイムズは周りを蹴散らしながら、見覚えのある背中を追った。
体を振る度、銃を撃つ度、前へ進む度、痛みが全身を駆け巡り、体内から血が流れ出ていく。
ショットガンを撃つ。
肩の肉が噛み砕かれた。
頭を吹き飛ばす。
床に伏せた捕食者に、脛を噛まれた。
頭を踏み潰す。
左腕の腱をちぎられた。
左手の指がない。
頬に大きな裂傷が走る。
左腿の噛み痕の出血が止まらない。
肩で息をつく。
リノリウムの床が真っ赤に染まっている。
血生臭さという言葉以上の臭気が、空気と入れ替わっている。
目の前に蹲る男の後頭部に、ショットガンの銃口を当てた。
男が振り向く。咀嚼していた肉片が、口からこぼれ落ちる。
数分前まで仲間だった男の頭を、ジェイムズは躊躇なく弾き飛ばした。
頭部を失った体が、ゆっくりと床に倒れた。
辺りを見渡す。
自分を中心に、数えきれないほどの屍体が横たわる。動いている者は、一人もいなかった。
男が食らっていた遺体に目を向ける。
白い肌は、鮮やかな朱色に染め上げられ、開いた腹部からは、未だに夥しい量の血液が床に垂れていた。
ショットガンが手から滑り落ちる。
ひざまずき、遺体の頭の下に手を入れ、血で汚れたその顔を拭ってやる。赤みを失ったその頬に、透明な雫が落ちた。
ジェイムズは絶叫していた。
天を仰ぎ、子供のように泣き、消えていった命を惜しみ、声の限り叫んでいた。
守ると誓った命は、自分の手の中で消え去ってしまった。自分の力のなさを嘆くと共に、ジェイムズは天命の理不尽さを怨まずにはいられなかった。
床に優しく寝かせる。手を胸の前で組ませ、その死に顔を歪む景色の中、ずっと見ていた。
失って初めて分かった。
幼い頃からほのかな想いを抱いていた相手を、
あの柔らかな笑顔を贈ってくれる女性を、
小さな肩を震わせ、あの日自分の頬に平手打ちを食らわせた強き意志を持つ彼女を、
「僕は……愛していた……」
返り血で汚れた頬に、涙の道ができた。
ざわめきが空間を取り囲む。
駐車場から、今葬り去った化け物の何十倍の数が集まろうとしていた。蠢く影の波が、自分を狙っているのが分かる。
退路はもうない。逃げる場所も、生きる明日もない。
ジェイムズは拳銃を取り出し、弾数を調べた。
一発だけ残っている。
こめかみに銃口をつけ、引き金に指を当てた。そっと、目を瞑る。
気配が意識を覚醒させる。
振り返ると、そこに愛する人が佇んでいた。
涙が止まらない。
「リコ……」
ふらふらと歩く彼女を、力強く抱きしめた。
もう離さない。ずっとずっと、一緒にいよう。
首筋に冷たい唇が当たり、耳に肉をちぎる音が届いた。
リコを、抱きしめる。
駐車場の群れが建物に入り、ジェイムズ達に走り迫る。
僕は君を愛している
自然と笑みが零れた。口から吐いた血が垂れた。
もう、一人にしない。僕も君と共に行こう。二人で、ゆこう。
ジェイムズは優しく、リコに口づけした。愛する人に、最初で最後の、想いを込めたキスだった。
そのままリコの後頭部に、しっかりと銃口を押し当てた。この距離なら、リコの頭を貫き、自分の頭にも弾丸は到達する。
感情のない、灰色に濁ったリコの目から、一筋だけ涙が零れた。
リコ、愛してる
歯を剥き出し両手を振り上げながら走り来る群衆の中心で、ジェイムズはゆっくりと引き金を引いた。