幸福という名の憂い
ブルーチーズの匂いに、エミリーが鼻を押さえて遠ざかる。アンバーとリコが、その姿に肩を揺らして笑う。その横でウィルソンが、ヨーグルトのカロリー表示を真剣に眺めていた。
「このワイン、随分前から狙っていたんだが、まさかこんな機会に巡り会うとは。しかもタダときた」
ワインのボトルを何本かカゴに入れたアルフレッドは、満面の笑みを送る。カゴの中には、大量のスナック菓子も入っている。
「クリームチーズがきれてるじゃない。またマイケルの発注ミスね」
アンバーが口を尖らす。
一つのフロアが全て食料品で埋めつくされたこの階に、アルフレッドとザック以外の人間が入るのは初めてだった。
チェスター、ランディ、ゲイブの死から改めて編成された探索部隊は、探索途中の五階を経て、貴金属や玩具売場とアーケードゲームコーナーを設置した四階、衣服や生活雑貨売場の二階の探索を済ませ、三階の『リビング』の改造と共に、一階の食料品売場から食材を調達していた。
タップは部隊から外され、ウィルソンの監視の目が入った。代わりに手錠を外されたディジーが加わり、ザックの監視の目の元、武器も持たされず探索に回された。
本館で探索が必要な箇所は地下の一階、二階だけとなり、それらを調べる前に腹ごしらえをする提案が為された。
「レイ、タップは本当に……」
カートを押すレイの隣で、ジェイムズはパスタの徳用パックを見つめたまま言う。意識は一キロの束に注がれていない。
「ああ、歯形がついていた」
レイの言葉は、何気なく発したつもりでも、あまりにも重かった。仲間の一人の死が確実なのを意味しているからだ。
「どうにか治らないんですか」
「……分かっているだろ」
それきり、二人は三階に戻るまで言葉を交わさなかった。
食料品を調達した後、探索の際の捕食者の返り血で汚れた服を変える為、アルフレッドとザック、ウィルソン達は二階に向かった。その間、アンバーとエミリー、リコは簡単な食事の用意をしている。
ディジーは隅でタバコを吹かしながら、一階から持ち出したバーボンをあおり、ジェイムズはリコの隣でフルーツの缶詰をガラスのボールに移している。
レイは離れた所に座るタップの隣に腰かけた。ウィスキーの小瓶を前に置く。
「怖くないのか」
下を向いたタップがレイに問う。
「何が」
「俺が怖くないのか」
「怖いね。そんな暗い君を見てると、鳥肌が立つよ」
レイは自分の分のウィスキーを開けると、顔をしかめながら口に含んだ。
「あんた、酒飲めないのか」
「飲んだのは高校の卒業パーティー以来だよ」
タップは口角を上げると、自分の前に置かれた小瓶のキャップを捻った。
「俺も最近は飲んでないんだ」
「どうして」
「酒で失敗しちまってさ」
「すまん。知らなかったとはいえ」
「いやいや、気にしないでくれ。ありがたいよ」
タップは小瓶をあおった。
芳醇な香りが体を抜けていく。棘がなく、思うより舌に合った。
「安酒でも旨いな」
「僕には分からん。酒は合わないな」
レイはタバコを吸い、煙を宙に散らせた。
「傷の具合はどうだ」
タップが左腕の袖を捲り、傷口を見せた。前歯で引っかけたような傷がついている。こんな小さな傷でも、人の命を奪ってしまうのかと、レイは胸の苦しみをこらえた。
「体はピンピンしてるんだがなぁ。参ったよ。ホント、参った」
タップは寂しそうにウィスキーを飲み干した。
キャンドルの灯りがともる。ちょうど夕食の時間になっていたので、細やかながらも大量に広げられた料理に、皆の目は輝いていた。特にジェイムズとリコはろくな食事も摂らず、タップのハンバーガーにも結局手をつけていなかった為、嬉しそうに席についた。
「信じられんよ。このワインは特別な時に買おうと思っていたんだが、いやぁ旨い!」
アルフレッドが上機嫌でワイングラスを傾ける。
「充分特別な時じゃないか。これ以上特別はないだろう」
ザックがしたり顔でバーボンをグラスに注ぐ。
「全くもって、最悪の方の部類だがな。美味い酒でも飲まなければ、やってられんだろ」
キャンドルの淡い灯りは、ほんの少しでも穏やかな気分にさせてくれた。地下の発電機に余計な負担もかけたくない為、夜は一階以外の売場の電源は落とす事にした。雑貨売場にあったキャンドルをリコが大量に持ち出し、その機転と効果にアルフレッドは酔った口で何度も誉めた。
「ねえ、ジェイムズとはどういう関係なの」
アンバーがワイングラス片手にリコの隣に座る。彼女から漂うアルコールの匂いが強い。
「え、どういうって」
「付き合ってるんでしょ」
「いや、そういうんじゃ」
「なぁに? まだ何にもなし?」
「私達は幼馴染みで」
「幼馴染みだからこそ、あなた一筋なのよ。彼は」
二人はジェイムズを見る。ジェイムズは慣れない酒に酔い、ソファに寝そべっていた。
「私は羨ましいです。リコにはジェイムズがいて」
目の据わったエミリーが、アンバーとリコの前に陣を取る。
「飲み過ぎよ、エミリー。フラフラじゃない」
「いいんです。いいんですよ」
エミリーはずれた眼鏡も直さず、バーボンのボトルに口をつける。
「ちょっと、エミリー」
ボトルを取ろうとするリコを、エミリーは制した。
「勉強一筋できた私には、青春もクソもあったものじゃなかったんです。そしたらこんな事に巻き込まれて、私の人生って何だったのかしら。そう思わない? アンバー」
「あなたってそういう性格だったの?」
アンバーは苦笑いでエミリーのボトルを奪った。
「あ~クラクラする」
エミリーはそのままソファに転がり、途端に寝息を立てた。
「あなた達みたいに若い人には辛いわよね。これからって時に」
「それはアンバーもそうでしょ」
「私はいいの。結婚もしたし、子供も産んだし、離婚も経験した。とりあえず全部経験したから、もう充分。三十も越えたから、これからは私の人生を歩むだけだもの。でもあなた達は誰かと歩む人生じゃない? 未来があるわ」
「私とアンバーは年齢が違うだけで、他は何も違わない。未来があるのは、アンバーも一緒よ」
リコは微笑む。アンバーはリコの肩を抱いた。
「あなた良い子ね。頑張んなさいよ、ジェイムズの事」
リコはジェイムズをチラリと見て、顔を赤らめた。
「私は、そんな」
赤くなった顔を酒のせいにしようと、リコはワイングラスを一気にあおった。
アルフレッド、ザック、アンバーの笑い声が響く。酒の効果は束の間の休息には充分だった。ジェイムズ、リコ、エミリーは何も考えずに眠る事ができた。
「本当に出来た女房だ。私はね、女房がいなけりゃ今の私はないと思っている。あれが私の所にきてくれる事になった時、そりゃあ嬉しかったなぁ」
アルフレッドは財布から写真を取り出した。アルフレッドと同じような体型をした女性の周りを、若く背の高い青年達が取り囲む。写真の人物達は皆、顔に幸せを写し出していた。
「息子達だ。皆、フットボールをやっている。私も若い頃は州の代表にも選ばれた事もあった」
アルフレッドは得意気に写真をしまった。
「あいつらは今、女房と一緒にいるだろう。だから私は何にも心配いらないと思っている」
言葉とは裏腹に、アルフレッドの顔は一瞬曇った。
「あんたの家族なら無事だろう。あんたを見てれば、そんな気がする」
ザックがアルフレッドのグラスにワインを注ぐ。赤の液体はキャンドルの炎を溶かし、映えた色をテーブルに現す。流れる心地よい音が、グラスに波紋を作った。
「いいザマだな」
キャンドルの灯りが僅かに届く空間に蹲るタップの横に、ディジーが座る。バーボンのボトルをあおり、焼けた息を吐き出した。
「笑いにきたのか」
「ああ、楽しい結末だな」
「怒る気にもなれねえ」
ディジーは鼻で笑い、ボトルをタップに渡した。
「何のつもりだよ」
「連中の仲間になっても、俺を噛むなよ」
「あんたから最初に噛んでやるよ」
ディジーはタバコに火をつけ、腰を上げる。すると振り返り、タップを見下げる。
「まだ何か用か」
ディジーはタップの言葉にほくそ笑む。
「……いや。せいぜい残りの人生を謳歌するんだな」
そう言って去るディジーの後ろ姿を見て、タップはバーボンのボトルを少し掲げ、口に含んだ。
ディジーと入れ違いで、アンバーが皿とキャンドルを手に現れた。
「あなた食べてないんでしょ。はい」
皿とキャンドルをタップの前に置く。皿には料理と温められたハンバーガーが乗っていた。
「……悪いね」
「いいんだよ」
タップはレンジで温かくなったハンバーガーを頬張った。
闇が完全に空を覆った世界には、灯りが存在を許されない。屋上から見ている景色に、心が安らぐ色は皆無だった。ただただ闇が世界を包んでいた。
しかし徘徊する気配は数えきれないほど存在している。今や重なる唸り声は、闇と共にこの世に君臨している。
レイはタバコを吹かし、この忌まわしき風景を眺めていた。レイから見える蠢く者は、一様に獲物を求めてさ迷っている。恐らくこの辺りの人間は、もう残っていないだろう。このモールにいる自分達しか生き残っていないのかも知れない。
火のついたままのタバコを落としてみる。タバコは駐車場に落ちる前に人影にぶつかり、小さな火の粉を撒いて散った。頭に当たったはずの人影は、何の動きもせず徘徊する。
持ってきた缶ビールを開ける。苦い液体を一気に胃の中に流し込んだ。そして半分ほど飲み、それを地上の群衆に投げつけた。
何なんだ、この事態は何なんだ、何でこんな事になってしまったんだと、例えようのない怒りと戸惑いが沸き起こる。自分が措かれている状況に、未だに納得していないもう一人の自分がいる。
ただ平凡に暮らしていけたらいいと思っていた。高望みも深い欲も、自分は必要なく生きてきていた。
だがこれは自分のその生活を全て消し去っていく。この世界にいてはいけない者達が、自分の人生を一夜にして消し去っていく。
叫びたい気持ちを必死に圧し殺し、レイは高ぶった感情のせいで震える手で、再びタバコに火をつけた。
何をしていいか分からない、何を考えていいか知れない朝が、またやってくる。時間は着々と過ぎていくのに、それと比例していた自分の生活は、今までのように流れない。
タバコの煙の流れ方は、無情にもいつもと同じ消え方だった。
「おはよう」
髪の毛が爆発したジェイムズが、顔をしかめたまま挨拶する。二日酔いなのか、額を押さえていた。
「飲み過ぎよ、ジェイムズ」
先に起きていたリコが水を渡す。それを受け取り、一口飲んでテーブルに置いた。
「皆は?」
「屋上よ。外の様子を見に行くって。それと昨日のを片付けに」
モップで拭かれた血溜まりの後を、リコは目配せした。昨日の惨劇の後始末をしているのだろう。
「僕も行かなきゃ」
「寝てていいそうよ。レイが言っていたわ」
ジェイムズはソファから立ち上がる。
「そうもいかないよ。皆に悪い」
衣服を直し、ソファに立てかけてあったショットガンのストラップを肩にかける。
「アンバーとエミリーは?」
「顔を洗いに行ってるわ。もうすぐ戻ると思う」
「そうか。じゃあ行ってくるよ」
「あ、待って」
リコはジェイムズの傍に行き、辺りを見渡した後、ジェイムズに軽く口づけした。
「気をつけてね」
「あ、ああ、屋上に行くだけだし……」
ジェイムズは呆けた顔でエレベーターに乗った。扉が閉まる瞬間、頬を赤らめたリコが小さく手を振っていたのが見えた。
「大丈夫か、若者よ」
アルフレッドが笑顔で迎える。肩を叩き、ジェイムズの顔色を見る。
「どうした。二日酔いで真っ青かと思ったら、意外と血色がいいな。朝から酒を引っかけてきたのか? 赤いぞ」
「え? いえ、そんな」
ジェイムズは顔を手で拭う。
「それより何か進展は」
「何もないさ。今、昨日の遺体を処理した所だ」
ウィルソンとザックが双眼鏡で周囲を見ている。レイとディジーが手袋を下に投げ捨てている所だった。遺体処理に使ったのだろう。
「アルフレッド、ちょっと来てくれ」
ザックがアルフレッドを呼ぶ。その声に皆が集まる。
「あれを」
北の空を指さし、アルフレッドに双眼鏡を渡す。
「ヘリか?」
双眼鏡を覗くアルフレッドの言葉に、ウィルソンもその方角を見る。
明るくなった空の彼方から、軍用ヘリコプターの姿がある。それはモールの方へ飛んできていた。
「助けか? 軍の救援がきたのか?」
アルフレッドが興奮気味に叫んだ。レイが双眼鏡を受け取り、ヘリの行方を見る。
「何か変だ」
ヘリコプターはモールに向かってはいたが、その動きはおかしなものだった。蛇行や上昇下降を頻繁に繰り返し、レイ達の見ている最中、後方から煙を噴いた。
「おかしいぞ。あれじゃ落ちる」
噴煙は尾を引き、モールの上空を越え、その先の街に進む。
「そんな、街に……街に墜落する」
怒号を響かせ、軍用ヘリコプターはモールから離れた街の一角に、家々をなぎ倒しながら大爆発と共にその身を大地に落下させた。
「何てこった……」
火の手が広がる。家々に引火したヘリコプターの残骸が降り、被害は拡大していった。
「今の軍のヘリ、助けじゃなかったんですか」
赤く染まる街を見ながら、ジェイムズは唖然とした表情で口を開く。
レイが目を瞑り、声を絞り出す。
「恐らく……奴らが乗っていたんだろう……乗組員はやられたんだ」
「そんな……」
アルフレッドが膝から崩れ落ちた。
「私達は、もう、もう助からないんだろうか」
救援と思ったヘリコプターの墜落により、今まで張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。アルフレッドはその場に座り込んでしまった。
ザックが肩を叩く。
「『助かってる』じゃないか。俺達は助かってる」
そう言うザックの背中も、落胆を隠せずにいた。
エレベーターが降り、屋上に向かった一同が姿を現す。昨日の宴とはかけ離れた表情だった。
「ねえ、何なのあの爆発は」
ザックは駆け寄るアンバー達に首を降り、ソファに身を預けた。ジェイムズがショットガンを肩から下ろしながら説明した。
「軍のヘリが飛んできて。でも街に墜落したんです」
「墜落?」
「乗っていた人が多分連中に」
「誰も助かってないの、そのヘリコプターの人は」
「ヘリは粉々で、街は燃えて……」
ジェイムズはそこまで言うと、ソファに座り深いため息をついた。
「救援は来ない、つうわけだな」
ディジーがタバコに火をつけながら、煙と共に言葉を吐く。
「そんな、まだ決まったわけじゃ」
「あのヘリは北からきた。ここから北の基地は確かクラスフィートしかねえ。あの様子じゃあクラスフィートは墜ちたんだろうな」
「セントフォースもダメで、クラスフィートもダメなんじゃ、もう助けは望めないって事」
「だろうな。期待する方がバカだ」
アルフレッドがディジーに詰め寄る。
「期待してはいけないのか? 救援を期待して何が悪い! 家では女房が、息子達が待ってるんだ! こんな所で、こんな所で死ぬつもりはない! 私は帰らなきゃならんのだ!」
「やめろアルフレッド。帰りたいのは皆一緒だ」
ザックがアルフレッドを制す。アルフレッドの目には涙が浮かんでいる。
「女房は待ってる。私を待ってるんだ。いつものように私を玄関で出迎え、息子達と朝食を食べ、女房と二人でドライブに行くはずなんだ。女房はきっと、寂しがっている」
ザックはアルフレッドの肩を抱き、ただただ言葉を聞いている。
「私達は必ず帰る。帰れる。そう信じています」
リコが皆の目を見て言った。力強く発した声は、揺るぎない思いが含まれていた。
「そうだな。そう、私達は必ず帰る。皆、必ず帰ろう」
アルフレッドは鼻水を拭くと、リコに笑いかけた。
雨が降る。
久方の雨が街を包む。
ヘリコプターの墜落から三日間燻り続けた煙は、この雨によって鎮火していった。家々を焼き、車や道路を真っ黒に染めていたが、二百メートル四方程度しか被害が大きくならなかったのは、不幸中の幸いだった。
その爆発に巻き込まれ、かなりの数の捕食者が姿を消したが、それは氷山の一角が崩れただけに過ぎず、モール周辺に集まる人数は、数えるのが困難なほど増えていた。
捕食者は雨に打たれながらも、その歩みを止めたりはしなかった。
リビングに持ち出していたテレビから、以前のニュースは流れていなかった。『緊急特別番組』のテロップが固定された画面が、ただただ時を刻んでいる。誰ともなしに、代わる代わるテレビに注意はしていたが、今ではとりあえずつけているだけになっていた。
ウィルソンが五階から持ってきたラジオが、更なる生存者の存在を明確にしたのは、一同驚愕した。短波で発せられた個人の局から、生存の人数や状況を説明するラジオが度々流れた。これにより、この街にまだ生存者が僅かにいる事が判明し、皆の心を高揚させた。
そしてもう一つ皆を驚愕させたのは、セントフォース基地から程近い国立図書館からのSOS放送が受信された事だった。図書館にラジオの電波に乗せてSOSを送る機材があるのかどうか分からないが、生存者がいる事は判明した。特にジェイムズとリコは、神妙な面持ちでそれを聞いていた。
「ヤギがいたんだな」
レイからその話を聞いたタップは笑っていた。目の下に隈ができていたが、その話に笑顔を見せた事で、レイは胸を撫で下ろした。タップの容態は思うよりも進行していなかった。
雨は更に二日降り続いた。その間、ザックから地下の二つの階を探索する提案が為された。地下の一階は駐車場、二階は巨大発電機や貯水タンクのあるスペースとなっているのだが、発電機や貯水タンクに異常が見られた場合、ライフラインが絶たれ一気に生命の危機に陥る可能性がある為、その前にいつでも行き来できるように探索をしておこうというものだった。
「施設の事は全て把握している。私が案内しよう」
アルフレッドはショットガンを片手に、意気揚々としている。長期を目している現状では、やはりライフラインのメンテナンスはかかせないと、アルフレッドはザックの意見に賛同した。
探索部隊はアルフレッド、ザック、ウィルソン、レイ、ジェイムズ、ディジーに決定した。ザックはタップの監視を置く事を主張したが、レイの説得と、閉塞空間への立ち入りに人数は多い方がいいという皆の意見により、ザックの主張は却下された。ただ、念の為に女性達に一丁ずつ銃が渡された。
「だったら俺も連れていけ。そうすれば見張りにもなるだろう」
タップは弱くなった声を向ける。
「休んでいろ、タップ。僕達で行くから心配ない」
レイはタップをベッドに預けた。生命に関わるほどの変化はないが、それでも体力的に弱くなっている気がする。日に日に隈が濃くなっていた。
地下に行く方法はエレベーターと階段だが、エレベーターでの行動は懸念され、階段での行動が優先された。他の階との隔たりに、分厚い防火扉が行く手を阻む。普段は開かれているそうだが、早朝に異変を察知したアルフレッドが閉じたらしい。
「これを閉めなかったら、食料は確保できなかったかも知れんな」
アルフレッドは慎重にマスターキーでカギを開けた。
「深夜からの客がいる可能性があるんだ。たまに駐車場の車の中で寝ている者がいるからな」
地下へ続く扉が開かれる。
銃を構える。
地下駐車場の電源はオートメーションで点灯するが、それでもやはり薄暗い。五階から持ってきたライトが役に立った。
「奥にエレベーターがある。その横が外に通じる道になっている。地下二階に行く階段は、エレベーター前まで行かないとないんだ」
ザックとアルフレッドを先頭に、一群は駐車場を進む。車の数は疎らだが、気になるのはその状態だった。
車の大半は破壊され、フロントガラスやミラーは粉々に散乱している。更には破壊箇所に血痕が見れた。
「奴らか」
血痕は車だけではなく、そこかしこに点在し、底気味悪さを存分に醸し出す。
「あれを見て下さい」
ジェイムズの持つライトが、コンクリートの床を照らす。皆のライトが集結したその場所には、何かの肉塊が赤黒く変色し放置されていた。考えるでもなくそれは食い散らかされた人間の破片だった。
「いるぞ。気をつけろ」
緊張が走る。
車の数を想定してもそう多くはないと予想されるが、近くに危機が迫っているのに変わりはない。銃を握る手に汗がまとわりつく。
生温い風が頬を打つ。冷や汗がより冷たく感じる。自分の鼓動が空間に反響し、この世で一番大きく聞こえる音と錯覚する。
進んだ先の壁に、片腕と腹部の肉の消えた男が寄りかかっていた。ライトを当てると、粘着性の血液を床に垂らしていた。恐らく襲われてから幾らも経っていないようだ。
ザックとウィルソンが銃とライトを構え近づく。男の指が微かに動いた。
「早くとどめを」
アルフレッドが促す。ザックは頷くと、緩やかに顔を上げ始めたそれに向かい発砲した。コンクリートが剥き出しの壁に粉々の頭部が付着する。頭を失った体が倒れた。
銃声の反響が鼓膜に衝撃を与える。雷のそれに似た音圧が駐車場内を駆け巡る。
「これで連中が集まるぞ。注意しなければ」
そう声を発したレイの元に真っ黒に変色した捕食者が走る。よく見ると、全身に垂れたそれは血液が酸化したものだった。
「レイ!」
ジェイムズが立ち塞がり、捕食者の足を撃ち抜く。捕食者はもんどりうち、顔面を打ちつけた。
「こっちからも来たぞ!」
ザックがショットガンを撃つ。五人の男女が目を剥き出して走り迫る。ウィルソンがザックに加勢する。
アルフレッドがリロードをしている間に、捕食者が彼の前に躍り出た。慌てて弾を込めようとするが、ショットガンの弾は手から滑り、床にスローモーションで落ちていく。
捕食者がアルフレッドの肩を掴んだ。焦る手が銃をも落とす。
「アルフレッド!」
ザックが異変に気づき、アルフレッドを襲う捕食者の頭を狙う。しかし彼の陰になり、狙いが定まらない。
「た、助け―――」
アルフレッドが震えた声を出す。捕食者の口が開いた。喉の奥から生臭い吐息が顔に降りかかった。
砕けた歯が宙を舞う。ショットガンの銃口が喉の奥に押し入る。
ディジーの突き刺した銃をくわえたまま、捕食者は後退する。その勢いで更にディジーは壁際まで突き押していく。
「何やってんだ! 銃を拾え!」
アルフレッドは放心したが、すぐに銃を拾い弾を込めた。
ディジーは壁まで押した捕食者の口にそのまま発砲する。弾けた頭が転がり落ちる。
「エレベーターまで走れ! 数が多すぎる!」
ザックの声に、一同はエレベーターに急ぐ。追ってくる数は、車の数を大きく超えたものだった。
いち早く着いたジェイムズがエレベーターのスイッチを押した。レイ、アルフレッドと続き、ディジー、ウィルソン、ザックが銃を撃ちながらエレベーターに走る。
「エレベーターはまだか!」
ディジーが扉を蹴る。エレベーターが起動していない。
「どうなっているんだアルフレッド」
「分からん。地下一階までエレベーターは来るはずなんだ」
レイとアルフレッドは扉を抉じ開けようとした。捕食者は薄明かりから駆けてくる。
「ダメだ! 階段で行こう」
アルフレッドが階段の扉を開け、皆を先導する。
「ザック! 早くこい!」
レイが叫ぶ。ザックはウィルソンを先に行かせ、自分は扉の前で捕食者の追跡を足止めしている。
「アルフレッド、上に戻ろう。更に地下に行ったら、全員やられる」
「しかし、奴らが追ってきたら上に押し入られて」
「バリケードを作ればいい。最悪はモールを捨てよう」
レイの提案にアルフレッドは唸る。
「ならば別館に行こう。あそこなら発電機も貯水タンクも別にある。奴らがいるかも知れんが」
ザックが内側に入り、扉を閉めようとした。しかし無数の手がそれを止める。
「ザック! 上に戻るぞ!」
「先に行け!」
ザックは扉を押さえている。捕食者の一人が肩まで内側に侵入してきた。
「ザック!」
レイがザックを引く。二人の後ろからディジーが扉に向け発砲する。
「上だ! 走れ!」
ジェイムズを先頭に、アルフレッド、ウィルソン、ザック、レイ、ディジーと続く。階段を昇るすぐ後ろには、扉を突破した追跡者達が駆け上がってくる。
「急げ! すぐ後ろにきているぞ!」
その数は三十あまりだったが、迎え撃つほど体力と弾数に余裕がなかった。
先に到着したジェイムズが一階の扉を開けようとした。しかしカギが閉められている。
「アルフレッド、カギが!」
「三階しか開けていないんだ! 今、開ける」
アルフレッドはポケットからマスターキーを取り出すが、後尾からザック、レイ、ディジーが上がってきた。
「何やってんだ! 奴らが来たぞ!」
「カギが開いてないんだ! 三階なら」
「だったら三階まで行け!」
ディジーに急かされ、一同は三階まで階段を走る。踊り場でザックとウィルソンが下に向けて銃を唸らせた。
三階の扉が目前まで迫る。息が切れ、足が上がらなくなってきた。三階までの滑走と極度の緊張で、足の疲労が濃くなる。
踊り場で弾を撃ち尽くしたザックとウィルソンが上がってきた。ジェイムズが扉を開ける。
一同が扉を抜け、三階の通路に出た瞬間、扉の向こうに捕食者の群れがぶち当たった。アルフレッドが真っ青な顔でカギを閉めた。
「これで安心だ」
「ダメだ」
アルフレッドの言葉をザックが打ち消す。
「おかしかった。数が減らない。それどころか、増えていた」
「軽く二十は殺ったはずなのに、減った様子はなかった」
ウィルソンが切れた息混じりに声に出した。
「増えているって、どういう―――」
その時、皆の後ろから機械音が響いた。振り返るとタップが、台車に機材とガスボンベを乗せて運んできた。顔色が優れないが、体はまだ動くようだ。
「タップ、動いて大丈夫なのか」
「それどころじゃねえよ。大変なんだ」
タップは機材を降ろすと、扉の前にセットする。
「扉を溶接する。奴らがなだれ込んできやがるぜ」
「それはどういう事だ」
タップが通路の窓を指す。皆が外を窺った。
「……増えるわけだ。マジかよ」
ディジーが顎先に流れる汗を拭いた。




