闊走する禍
メインストリートに面した列びの店は、全て扉やガラス窓が破られていた。中では多くの影が蠢いている。あれは皆、正常な人間ではないのだろうと、レイは感じていた。
友人であるルイスの店は、目と鼻の先だった。しかしそこに停まる事を躊躇し、危険であるにも関わらず、もう既にこの区間を三周している。
街の景色からして、生きている人間を見つけるのは絶望的だと思われた。現に、歩道を行く姿や店内に押し入り何かを咀嚼する姿は、一様に狂気の化け物達しかいない。通過した傍で、痙攣した人間の屍が、消火栓にもたれたままで足を噛みちぎられた。
遠くで銃声が聞こえる。生きている者がいるのだろうか。警官隊や軍隊の救援かも知れない。
車内の運転席側と後部座席側を仕切る格子に、ショットガンがかけられていた。銃を見れば何とか勇気が出る。先程の銃声も生きている人間がいる証拠だ。ルイスもそう信じたい。
銃の扱いは経験があるが、幼い頃に父の拳銃を内緒で撃っただけで、ショットガンを扱った試しはない。それでも手にかかる重量が気持ちを大きくさせた。車を停め、弾を確認する。
幸い、ルイスの店の前に人影はなかった。今なら店内を確認できる。
意を決し、車外に出た。ドアを閉めずにおく。何かあればすぐに車に避難する為だ。
『バーガーシティ』と書かれた看板の下には、黒く変色し始めた血痕が広がる。遺体はないが、その場で惨殺されたであろう情景が窺える。ルイスの安否が気がかりだ。
ショットガンを構え、枠しかない扉を開ける。血の匂いの他に、火薬の匂いも混ざっていた。
「ルイス、ルイス」
物音すらしない。レイの呼びかけに返事はない。
店内のテーブルやイスはなぎ倒され、カウンターに並べられているはずのドリンクバーの機械が、床に散乱している。水浸しの床にはジュースの他に、赤い液体も漂っていた。
「ルイス、ルイス」
呼びかけにやはり応答はない。店は生きている者の存在を示してくれない。
レイはイスを一つ起こすと、そこに座った。時間は五時半を回った所だ。朝目覚めてから一時間ほどしか経っていない。しかしレイの疲労は一日歩き回ったぐらいの蓄積度を示していた。ショットガンを杖のように立て、組んだ手をそえた額をつけた。ため息が零れる。
隣人も友人も死んだ。それらを襲ったのは、昨日まで自分達と同じように生きていた者が変わり果てた、死肉を食らう化け物だ。
レイは再びため息をついた。
傾く意識が死を導く。
このままショットガンで自分の頭を吹き飛ばしたら、目まぐるしく変化したこの現実から逃れられるのではないかと考える。
店内を見渡した。ハンバーガーをかじる客が並ぶ風景が、残像のように気持ちに溶け込む。非日常の扉が何故自分に降りかかったのか、予想もつかない。
そんな思いを馳せている最中、カウンター裏の扉が開いた。咄嗟に銃を構える。すると扉から出てきた者も銃を構えていた。
「今日は店じまいなんじゃないのか?」
銃を構える金髪の男はレイにそう告げた。
「あんたも食料目当てか?」
助手席でハンバーガーを頬張る男は、タップと名乗った。西からヒッチハイクをして旅を続けていたと語った。
「向かいにカプセルホテルがあるだろ。あそこに泊まってたんだが、朝っぱらから外が騒がしくてさ。ホテルの人間とかも様子を窺ってるみたいで、どうやら暴動らしいって話してたわけだ」
タップは平らげたハンバーガーの包みを窓から投げ捨て、チキンバーガーの封を開けた。
「ちょうど朝飯を買わなきゃならなかったから、反対側のコンビニに行ったんだが、様子がおかしいのに気付いた。こりゃただの暴動じゃないなと」
マスタードソースがついた口を拭い、ダイエットコーラのボトルをあおった。
「血塗れだったんだ。床や壁や棚なんかも、辺り一面血が飛び散ってやがった。そしたら奥から店員が襲ってきた。完全に目がイっちまってたよ。俺は店から飛び出し、三軒隣のハンバーガー屋に逃げ込んだ。そこじゃ店のオヤジが銃で奴らの頭をぶっ飛ばしてた」
タップはそこまで一気に喋ると、大きなゲップをした。そのままレモンパイの包みを開けた。
「それは……僕の友人だ」
レイは前を見て運転したまま、重々しく口を開いた。
「あんた、あのオヤジに会いにきたのか?」
「ああ……ルイスは……」
そこまで言葉を吐き、口をつぐんだ。店にタップしかいなかったのを見ると、友人はもう……
「オヤジのトドメを刺したのは俺だ。あんたの友人は助からなかった」
レイの考えを察したかのように、タップは語った。少なくとも誰かに看取ってもらえただけ幸せかも知れないと、レイは友人の最後を胸に留めた。
タップが拳銃を取り出す。
「これはあんたの友人の銃だ。形見になっちまうが」
「いや、君が持っていてくれ。この先必要になる。それに最後を看取ったのが君なら、それは君が持つべきなんだろう」
「悪いな」
タップは拳銃をジーンズに差し込んだ。
「あんた、警官か? っても、格好はビジネスマンだが」
「このパトカーは貰いものだ。僕はグラフィックデザイナーをしている」
「インテリか。もっとお高くとまってる連中が多いが、あんたは感じが違うな」
「僕はインテリじゃない。しがない会社員だ」
鼻で気のない返事をすると、タップはタバコに火をつけた。
メインストリートから外れた所を走っているせいか、逃げ惑う人間もそれを追う輩も、今は遠くに確認できるしか見ない。スピードは出していないが、恐怖から逃げている感が気持ちを落ち着かせる。
「これから何処へ行くんだ? 宛はあるのか?」
タップに聞かれたが、レイは答えを出せなかった。無論、行く宛などない。自宅周辺はもうすでに血の海になっているだろうし、友人は死に、恐らく会社ももぬけの殻だろう。
「何だ、あんたも宛はないのか」
タップはおもむろにカーラジオをつけた。
「情報がなけりゃ動けない。軍の基地か避難所の情報でもあればいいんだけど」
ラジオの周波数を合わせる。ダイヤルを回すと、雑音が徐々に澄んできた。
『……などの基地は未だ救援活動に挑んでいますが、すでに三十万人を超えると目されている暴動民をどう対処するかが懸念されています。セントフォース基地では若干の受け入れ体制を敷いていますが、まだまだ難民の受け入れを強化するに値せず―――』
「三十万人っておい……」
タップは額に手を当て目を瞑ると、タバコの煙を吐き出した。
「未だに暴動だと思っているんだろう。あれはもう」
「もう暴動なんかじゃねえよ。人間が人間を食うはずねえ」
タップはタバコの吸殻を窓から投げ捨てた。と同時に、一区間置いた建物から爆発音が響き、火の手が上がった。
「セントフォースってのは近いのか?」
「ここからそう遠くない。十キロも走れば」
そこまで言ったレイは急ブレーキをかけた。新しいタバコに火をつけようとしていたタップは、前のめりになりライターを落とした。
「おいおい、何やって」
「あれを……」
レイの指し示した方向を見て、タップは口を閉じれなかった。唇の端にタバコが引っ付きぶら下がっている。
「マジかよ、冗談じゃねえ」
前方二百メートル先、五十を優に超える数の人影が走ってくる。それらは全て人間ではなくなっている者達だった。
「回り道だ。あんなのに囲まれたらシャレになんねえ」
「……車から出るんだ」
「ハァ? 何わけ分かんねえ事」
「エンジンがかからない!」
レイがカギを回すが、エンジンは一向にかからない。ガソリンメーターを見ると、エンプティを指していた。
「ガス欠だ」
「何でそうなるんだ」
タップは外に出ると、後部座席から自分のバッグを掴み、更にシートの下にあった弾薬ケースを見つけ、引っ張り出した。
「行くぞ、もうヤバい」
レイは銃と自分のバッグを掴み、先に走り出したタップの後を追う。振り返ると追手は百メートルまで迫っていた。
奇声が駆けてくる。疲れを知らないのか、追手はその距離を縮めつつある。タップは後ろを振り返り、スピードを上げた。
「ヤバい! 追いつかれるぞ!」
狭い路地に入る。広い場所と違い、大人数に一度に追われる危険を回避する為だ。
そのまま路地を進む。途中のポリバケツをひっくり返し、自転車を倒して、転がるようにして通りを横切った。振り返ると、路地に入ったのが幸いしたのか、追手の数が減っている。
二人はそのまま休まずに、路地をジグザグに走った。
走り続けると住宅街に入り込んだ。レイは住宅地に留まる事を懸念したが、タップは休憩する為に建物に入らないと危険だと主張し、二人は民家の一つに侵入した。
住宅街に入った時に感じた、生命が生存する気配のなさが、この家にも感じる。扉は開け放たれ、至る所に血痕が付着していた。朝食の用意をしていたのだろう、テーブルにはトーストとコーヒー、キッチンには作りかけのスクランブルエッグが放置されていた。それらには全て赤い点が降りかかっている。
「誰もいない。死体すらない」
「殺られた奴らも皆、連中みたいになるんだろ」
レイの言葉に、タップはソファに身を沈めながら答えた。
窓から外の気配を窺う。人影は皆無だった。密集している為か、炎に包まれている家の隣にまで飛び火が移ったようで、所々の屋根から煙が上がっている。炎上したワンボックスカーが一台、道路の真ん中に横たわっていた。
「……朝の光景じゃねえな」
タップが外を見ている間、レイは二階に上がった。ショットガンを構えるが、生きた人間も死体も見られない。
一階に降りキッチンに向かって、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出すと、それを中ほどまであおった。
「これからどうする? 宛もないし、足もない。下手に動くより、ここで立て籠るか?」
タップはハンバーガーをかじりながら問う。
「できればセントフォース基地に行きたい。そこで保護してもらおう。足はこの近くの家から調達すればいい」
「本当に安全なのか?」
「軍の基地だ。物資も装備もある」
「軍や警官隊がいるのに、何故こんな状態なんだ? 期待しすぎない方がいいぜ」
タップはフィッシュバーガーの包みをレイに投げてよこした。
「食料ならまだある。幸運な事に、あのハンバーガー屋から山ほどかっさらってきた。朝だから作りたてだぜ。冷めちまったが」
「食料はいつまでも続かない。それにここは、立て籠れるほど強固じゃない」
レイはフィッシュバーガーをかじりながら話した。
「強固な造りの建物って何だ? この辺には何がある?」
「ここから北に行けば、国立図書館がある。大きなコンクリート造りの建物だ」
「生憎俺はヤギじゃない。立て籠っても本は食えねえ。食料がある所じゃないと死ぬぞ。この騒ぎがあとどのくらいで終息されるのか、見当もつかないんだから」
「ならば尚更基地に行こう。少なくとも民家よりは安全だ」
タップはタバコに火をつけると、両手を広げた。
「負けたよ。よっぽど基地がお好きらしいな。軍事マニアか、あんた」
「僕はただ、安全な場所を―――」
「分かってるさ。俺は土地勘がないんだ。あんたの意見に従うよ。車で連れ出してくれなきゃ、俺はあのハンバーガー屋で『食われる』側になってたかも知れねえ」
タップは立ち上がりバッグを拾うと、冷蔵庫のものを物色しバッグに詰めていった。
「使えそうなものも貰っておいた方がいい。どうせこの家の住人は、ここに戻らないだろうからな」
タップの言葉に、レイはキッチン棚の扉を開けた。そして三カートンのタバコとシリアルの袋、オイルサーディンの缶詰を見つけ、テーブルに置いた。
外を窺う。
時間はまだ午前六時半。本来なら寝起きのシャワーを浴びている時間だった。贔屓の女性キャスターが番組の最後の挨拶をする所を見届け、眠そうに郵便受けから新聞を出すバートに挨拶をし、マークと共にルイスの店でビーフトマトバーガーとバナナジュースを食していたはずだった。
会社の受付嬢の髪型を褒め、同僚と誰が最初に新人の女性社員のアドレスをゲットできるか賭け、上司の顔色を窺いながらパソコンの前に座っているはずだった。
何もかもが崩れ、何もかもが消え去った。わけも分からず逃げ惑い、人の家の冷蔵庫を知らない男と漁っている。
悪夢のような現実だった。
「どうした?」
タップがレイの顔を見る。
「顔色が悪いぜ。真っ青だ。連中と同じ顔をしてる」
「やめてくれ」
レイは頭を振ると、テーブルに広げたものをバッグに詰め込んだ。
外には誰もいない。恐らくこの辺りの人間はタップの言う通り、追手の仲間に変わってしまったのかも知れない。人間を求め、この地を離れたのだろう。
二人は銃を構え、民家の前に停めてある車を調べて回った。しかしカギが開いている車など一台もない。
遠くから発砲を伴い、車の走る音がする。
「まだ人間がいるのか」
「近づいてくるみたいだ」
車の音は、住宅街を抜けた通りを走っているようだった。通りにはレイ達が撒いた追手が、多数群がっているはずだ。
「あわよくば乗せてもらえるかも知れない」
「ヤバいヤツだったらどうするよ」
「奴らよりはマシさ」
二人は通りまで進む。エンジン音が近づく。慎重に移動した先に、黒の軍用ジープが大勢の追跡を受けているのが見えた。車の後ろには血みどろの追手が何人かしがみついている。
「やられるぞ、ありゃあ」
「助けなきゃ」
「バカ言え! 巻き添えくらっちまう」
ジープは放置された車をかすめながら走る。
「僕に考えがある。こっちだ」
ジープの経路の先に位置する場所に走る。目の前にはカーブがあり、玉突き事故のように放置車が列を成している。
「ここがいい」
レイは道路の中央に出ると、カーブに差しかかるジープに手を振った。
「バカ! あんた何やってんだ!」
「いいんだ!」
レイはショットガンを手にすると、車の列の間を進むようにジープに合図した。ジープはそれに気づいたのか、真っ直ぐ向かってくる。
「いいかタップ。ジープがここをすり抜けたら、放置車を撃つんだ。いいね? ガソリンタンクを狙うんだ」
「……そんなの、上手くいくのか? 下手すりゃ、あの大群の餌食だぞ」
レイの考えを理解したのか、タップは銃を構えたが、不安の色が濃く浮き出る。
「やってみなきゃ分からないだろ! いいな?」
タップは渋々頷いた。その直後、ジープが二人の前を横切る。
「今だ、撃て!」
二人は手前に見えるワゴン車のガソリンタンクに発砲した。追手が迫る。その数は当初の倍に膨れ上がっていた。
二人の放った弾がボディに穴を空ける。そのうちの一つが給油口に直撃した。
周囲を襲う光と爆音が二人を包む。
爆風が建物を揺らし、窓ガラスが砕けてきらめく雪を降らせた。道路に伏せた体に、あらゆるものの礫が降り注ぐ。レイが目を開けると、目の前に半分砕けた頭がこちらを睨んでいた。
「あんた……何て事してくれてんだ……」
先に立ち上がったタップが、額に垂れる細切れの肉片を拭いながら、呆然と言葉を出す。
周囲は埃と車の残骸と、吹き飛ばされた追手の肉片が散らばっていた。遠くでは無傷の連中がアスファルトでもがいている。爆風でなぎ倒されたのだろう。
「車に残ってた燃料が多かったんだな」
「焼け野原じゃねえか。一歩間違えりゃ、こっちも無事じゃなかったぞ」
振り返ると、数十メートルの地点に、ジープは停まっていた。爆風の衝撃に巻き込まれずに済んだようだ。それがこちらにバックしてくる。
ジープが二人の前に止まると、若い男女が降りてきた。幼さを残した顔をしている。疲れが見えるが、生気を失っていない。
「大丈夫ですか? ありがとうございます」
「助かりました」
男女はレイ達に礼を告げた。
「君達二人だけか?」
「はい、友人達は皆……」
爆発を逃れた追手が起き上がり、歩みを再開した。爆発音に誘われた者も、路地から姿を現せる。
「とりあえず乗って下さい。話はそれから」
レイとタップは荷物を拾うと、車に乗り込んだ。
「何処へ向かっているんだ?」
「この先のモールに行くつもりです。あなた方は?」
「セントフォース基地に向かうつもりだ。できればこのまま送ってもらいたいんだが」
男女は顔を見合わせた。
「セントフォースはダメです。誰も生き残っていません」
「何故だ? 避難所になっているはずだ。軍の人間がいるだろ」
男が前を見ながら、重々しく口を動かす。
「僕達はそこから逃げてきたんです。基地は壊滅的被害を受けて……」
レイは目を瞑り、項垂れた。