AM 4:43
目覚まし時計より早く起きたのは、一体何年ぶりだろう。決してよい目覚めではなかったが、それでも不快な電子音に叩き起こされるよりはマシだと感じた。
ベッドから起き上がるのにたっぷり二十分かけ、脇に置いたペットボトルのぬるいコーラをあおった。
シャワーを済ませ、タバコを吸いながらテレビのリモコンを探し、スイッチを入れる。朝の見慣れた情報番組を眺め、贔屓にしている人気女性キャスターの声に耳を傾けた。少し甲高いが、甘いイントネーションの回しが心をくすぐる。
画面にはハイウェイの交通事故や山火事の映像が流れていた。隣町に近い所の山が半分やられたらしいが、自分の町までは何ら被害はないだろう。
レイ・リチャードソンの世界を知る術は、テレビが全てだった。新聞を購読していない彼にとって、毎朝のニュースは世の中の歯車である自分が知るべき内容が全部詰まっていた。
ただ、あくまでもそれは建前で、半分ほどは女性キャスターの笑顔と声をチェックする為だった。不純な動機でも、情報を知らないよりはマシだ。心の中でそう、レイは言い訳していた。
何処かでパトカーのサイレンが走る。物騒な世の中だけに、法の犬達も忙しいのだろう。欠伸をしながら窓を眺めると、まだ陽も上がらない道をパトカーが五台通り過ぎた。
自分に関係のない事は興味がない。それよりも、早く起きたのなら早めに出社して、昨晩残した書類を片付けようと考えた。今から行けば、始発のバスに間に合う。途中のコンビニかルイスのハンバーガー屋で、朝食と昼食を買えばいい。
レイは支度を整え始めた。着替えをしている間、救急車が三台通った。
テレビの画面が臨時速報に変わったが、構わずスイッチを切ると、自宅でプログラミングしたデータが入ったパソコンと書類をショルダーバッグに詰め、玄関を開けた。
道路を挟んだ向かいのバートの家に、パトカーが一台停まっている。ランプはついたままだった。大方夫婦喧嘩の仲裁に呼ばれたのだろう。夜中だろうと見境なく始めるのは、近所でも周知の沙汰だ。
「やあレイ。今朝は早いんだね」
ジョギングウェアに身を包むマークが手を上げた。小太りの体型にウェアは少し小さいようだ。
「やあマーク。精が出るね」
「あと五キロは痩せないと、彼女に叱られるんだ」
「アンジェは家に?」
「まだ寝てるよ」
マークは苦笑いを浮かべた。尻に敷かれているのが手に取るように分かる。
「バートはまたケンカかい?」
「そうみたいだ。パトカーがきたのは今年に入って何度目か」
「バートの酒癖は治らないからね」
腕時計を見ると、バスの時間が迫っていた。マークに別れを告げ、レイは歩みを進めた。そこでふと振り返り、後ろ姿のマークに話す。
「そうそう、今度ルイスが新作のバーガーを」
その瞬間、銃声が轟いた。
銃の嘶きはバートの家から聞こえた。レイとマークは顔を見合わせていた。
「今、バートの家から」
「銃を出すなんて、そんな」
二人の足がバートの家に向く。玄関が開け放たれているが、その奥は暗闇の聖域だ。何も見えない。
「警官がいるだろうから、平気じゃないか?」
「でも……何か変だ」
銃声から一分も経過していないが、あれから何も物音がしない。言い争う声も、警官の制止の声もない。
「まさか、死んでるんじゃ」
「そんな、滅多な事を」
足音が会話を中断させる。二人同時に玄関の奥の闇を見つめる。
何かの吐息が聞こえる。
犬の呼吸音に類似している。
足音が大きく、走りのそれに変わった。
玄関から入る僅かな光に照らされる。
それを見る二人の目が大きく開かれた。
全身血塗れのバートが駆けてくる。その顔は明らかに正気の沙汰ではなかった。
叫び声を上げ、マークが玄関先の芝生に倒れた。それにバートは覆い被さる。レイは何もできぬまま、それを見つめる。
バートの歯がマークの頬に深く食い込んだ。恐怖と痛みに駆られ、バートをはね除けようとしたマークの右手の指がバートの口の中に入り、中指と薬指を食いちぎられた。芝生の顔が緑から赤に変わっていく。
「バ、バート、バート。やめろバート」
滲み出た声が余りにも小さかった。叫んだつもりが、自分でもようやく聞こえるぐらいの音量しか出ていなかった。
いつのまにかパトカーが腰に当たった。知らず知らず後退りしていた。それに気付いたバートがレイを見つける。
バートの顔は普段の表情が微塵も感じられないものになっていた。見開いた目は人間のそれではなく、開いた口の端には、マークのものと思しき皮膚片が歯に引っかかり、喉の辺りまでぶら下がっていた。
バートが唸り声を上げた瞬間、銃声が鳴り響き、こめかみから鮮血を流しながら、彼はマークの血で赤い絨毯と化した芝生に身を横たえた。
「逃げろ」
玄関の扉に寄りかかるように、警官が銃を構えて立っている。怪我を負っているのか、血が滲む腕を庇っていた。
「逃げろ」
警官は苦しそうな表情で繰り返した。顎でパトカーを指す。車で逃げろと言いたいようだ。
「あ、あんた、大丈夫なのか?」
「いいから逃げろ。まだ中に化け物がいるんだ」
「バートは一体……」
「そいつはもう死んでる。化け物になっていた。そいつの家族もだ。もう助からない」
「じゃあ、あんたも一緒に」
その言葉に何か言おうとした警官の顔に手がかかり、彼の体は叫びの最中、家の中に引きずり込まれた。銃声が二発、断末魔のように響いた。
レイはそれだけを見届けると、パトカーの助手席にバッグを投げ、運転席に飛び乗った。
窓を開けていないのにも関わらず、悲鳴は耳に届く。車が進む道の先々では、追う者と追われる者が縦横無尽に走り回っていた。その大半が捩じ伏せられ、追う者が次々と群がり肉を引き裂いていた。
昨日までの平穏な街並みは、一夜にして景色を変えた。
「何だこれ……何が起きてるんだ」
よそ見をした瞬間、女が道に飛び出した。避ける間もなく、女はパトカーに弾き飛ばされた。
レイは急ブレーキをかけたが、放心のまま道に倒れた女をフロントガラス越しに見つめた。
すると女は立ち上がった。安堵が頭を過ったが、それもすぐに覆された。
女はあらぬ方向に向いた左足首を引きずり、口から赤い帯を垂らしたまま、レイの乗るパトカーに近づく。その顔はバートの表情を携え、肩や腕には大きな歯形をつけていた。
「どけ! どけよちきしょう!」
レイはクラクションを鳴らすが、女は真っ直ぐにパトカーに歩み寄る。引きずる足からパンプスが転がった。
目に入ったルームミラーに、大勢の人間が走り来るのが映る。クラクションが引き金になったようだ。それは全て正常な人間ではなく、バートや女のような狂気に駆られた者だった。
レイは車を発進させ、女の脇をすり抜けると、アクセルを強く踏んだ。ミラーに映る大群が徐々に遠ざかる。
レイはルイスの店にハンドルを切った。会社に行くつもりは毛頭なかった。異常事態が起きているのは、ひしひしと感じている。
備え付けの無線を適当に弄り、連絡を試みた。しかし雑音が入るだけで応答は皆無だった。ポケットから取り出した携帯電話も、音声ガイダンスすら聞こえない。
ルイスの店が間近に見えた。