プロローグ
「今日はサンディはいないのかい?」
声に、店主は首を振る。
「ズル休みだ。珍しい」
「何だよ、デートか?」
「最近男が出来たんだろ。あんたじゃ無理だ、トルップス」
トルップスと呼ばれた若い男は、店主からマフィンを受け取ると、両手を広げた。
「心配ない。『味見』済みだ」
店主はやれやれといった表情で、トルップスにコーヒーを手渡した。
「うちの店員に手ぇ出すなよ」
「まだ三人目だぜ」
「角のクリシュナがあんたを何て言ってるか知ってるか?」
「あんな老いぼれババアが何だってんだ」
「穀潰しだと」
「だったらババアに言っといてくれ。死に損ないってな」
トルップスはカウンターに金を置くと、『フィッシュ&マフィン』の看板をくぐった。
顔を出し始めた朝日がアスファルトを照らす。雲一つない空だった。風が柔らかく体をすり抜け、コーヒーの湯気が鼻をくすぐる。
店の前に置いた車に戻りかけた時、その異変に足を止めた。
「おい、ジジイ。何してやがる」
銀色の愛車のボディにもたれかかるようにして、白髪の老人が座り込んでいた。
トルップスの声に、蹲った老人は反応しない。近くに寄ると異臭がした。鼻で感じ取った事のある臭いだった。
老人の服装は崩れ、所々破れていた。裂かれた服の間から、くすんだ赤の筋が流れている。
「どけよジジイ。俺の車だ」
再度声をかけるが、老人は反応しない。
「死んでんのか?」
トルップスはマフィンを一口かじると、左手に持つコーヒーのカップを、老人の頭上で傾けた。
「熱いっ! な、何しやがるんだ!」
老人は手足を悶えさせ、歯切れの悪い発音で言葉を発した。トルップスにかけられたコーヒーが、薄い頭のボリュームを消していた。
「呑んだくれ、俺の車だ。どけ」
老人は口の中で文句を言うと、体を揺らしながら立ち上がり、トルップスの車から離れた。老人の蹲っていた場所からは、再びトルップスの鼻に酒の臭いを届かせている。
車のカギを開け、トルップスはシートに体を沈ませた。
運転席の窓が叩かれる。見ると老人が歯のない笑みを浮かべていた。
「何か用か?」
ほんの少し窓を開けると、老人から発せられる異臭が車内に流れ込む。トルップスはアルコールの脅威に顔をしかめた。
「ちょっと、金を貸してくれねえか? ケンカして財布を盗られたらしい」
ひげ面が揺れる。歯のない笑みがまた目に映った。
「知るか。そこをどけ」
「いいじゃねえか。少しでいいんだ」
「鼻をへし折られたいか? どけ」
「後生だからさぁ。旦那」
トルップスは運転席から出ると、有無を言わさず老人の鼻めがけ拳を叩き込んだ。
「消えろジジイ!」
老人は言葉にならない声を挙げ、流血する鼻を押さえて立ち上がる。
「てめえ! 下手に出てりゃあいい気になりやがっ」
そこまでようやく発した老人に何かが体当たりした。トルップスは素早くかわしたが、後ろから不意を突かれた老人はうつ伏せで道路に叩きつけられた。
トルップスの目の前で老人と男が組み合っている。男は老人を組伏せ、首筋にかぶりついた。絶叫を生む老人。
「おい! お前何やってんだ!」
老人の首筋から血が散布された。トルップスは男を引き剥がそうと肩に手をかけた。
男が顔を上げる。
その目を見た事を、トルップスは瞬時に後悔した。そして男に手をかけた事を悔やみ、二度目の後悔の波を受けた。
男の目は血走り、白眼は濁った赤と灰色のグラデーションを映していた。
口からは老人の血液と男の涎が混ざった粘液が滴り、男の着る白のワイシャツを見る見るに染め上げる。その口でトルップスに唸り声を浴びせた。
トルップスは踵を返すと、『フィッシュ&マフィン』の扉を開け、素早くカギをかけた。直後、ガラスの扉の向こうに男が貼りついた。
「何だ? 何だコイツ」
震える足が後退を呼ぶ。いつしか背はカウンターに当たっていた。
店内に客の姿はない。元々繁盛している店ではなく、朝からトルップス本人しか足を運んだ者を見ていない。この空間が異常に恐怖を増加させた。
「モルゾフ! モルゾフ大変なんだ!」
店主を呼ぶ声と、外から男がガラスを叩く音が重なる。トルップスは男の様子を窺いながら、店主を更に呼んだ。
「モルゾフ! とっとと来やがれ、このウスノロが!」
入口の扉のカギを目で確認する。しっかりと止められたそれを見て、微かに安堵が生まれた。
ガラス戸の向こうでは、道路に突っ伏した老人の体に、幾重にもの人間が重なっている。それは走り来る者で更に増え、老人の姿は徐々に見えなくなっていった。幸いトルップスの姿は、最初の男しか見ていないらしい。
「モルゾフ! モルゾフ!」
カウンターに身を乗り出し、奥に引っ込んでいるであろう店主の名を叫ぶ。しかし応答はない。
トルップスはカウンターを越え、奥に向かう廊下に足を向けた。が、ふと思い立ち、カウンターの内側に投げ出されていたペティナイフを取った。
「モルゾフ、モルゾフ来てくれ」
無意識に声のトーンが落とされる。謂れのない恐怖が、ナイフを持つ手に力を加えた。
「モルゾフ、誰か、誰かいないのか?」
後ろを振り返り、通路から見えるガラス戸に目を向ける。扉に貼りついている者の数が増えていた。いつガラスを破られるか分からない。こんな萎びた店では、厳重な強化ガラスなど使っていないだろう。
奥の厨房から音がする。人間の咀嚼音によく似ている。だがこれは、それより明らかに荒々しい。飢えた獣が肉に食らいついているような感覚だった。
左手に厨房の入口がある。正面には裏口の扉が位置している。裏口のカギを確認し、厨房の入口に立った。
咀嚼音が暗がりの厨房に谺している。
「……モルゾフ?」
暗がりの奥が震えた。外で聞いた唸り声が耳に入る。拒絶を許さぬ侵入に、トルップスの腕の毛が逆立つ。
店主と思わしき巨漢が、ゆっくりと立ち上がった。足元に転がる散乱した生ゴミが人間の四肢だと認識した時、振り向いた店主が暗がりから飛び出した。
眼前に迫る巨体が自分の顔に影を作る。小さな武器を持っていた事など忘れ、突然の衝撃が体を貫くのを防御もなく受け入れていた。背中が壁にぶち当たり、呼吸が困難になった。
両肩を掴まれ、血と肉に汚れた前歯が迫った。モーションを起こしたくても、蛇に睨まれた蛙の如く痺れた手足は動かない。前歯から滴る唾液の粒が、一つ頬に落ちた。
ガラス戸が破られる音が響いた。