未踏 9号 「彼との対話」
「彼との対話」
ほんとにひどいなあ---テレビに映し出された歴史の事実に、呟くような声---吸い寄せられていた目がしゃべったみたい---こういうの見るの嫌、怖くなってくる---明るみにされる歴史、現実の数々の惨劇、毎日のように襲っているのに---恐怖と嫌悪の顔---こうして見てくると、人間にとって正義や理想というものほど怖いものはない---ほんと、正義の名のもとに行われる犯罪ほど---国家なんて、権力者のなわばりのようなものなのに---
「彼との対話」
ほんとにひどいなあ---テレビに映し出された歴史の事実に、呟くような声---吸い寄せられていた目がしゃべったみたい---こういうの見るの嫌、怖くなってくる---明るみにされる歴史、現実の数々の惨劇、毎日のように襲っているのに---恐怖と嫌悪の顔---こうして見てくると、人間にとって正義や理想というものほど怖いものはない---ほんと、正義の名のもとに行われる犯罪ほど---国家なんて、権力者のなわばりのようなものなのに---戦争はそのなわばり争い?---人間はいったい何に向かって進んでいるのだろうか?---何ものかに向かっては来た---いったいどこへ?---君自身はどこ?---思い出す過去に彼の声---あれは悪い奴でしょう、独裁者、ヒットラー---ちがったか---そう、独裁者、しかし英雄、かつて世界が求めた理想---正義、平等、真実---彼は大人の入口にさしかかっているのに---大人の話に入ってくる時、子供の顔で入ってくる---君は、彼ともう一ケ月口をきいていない---何も分かっていないくせに---冗談を言ってるんじゃないの---彼は君たちの無言の抵抗に合い、冗談をやめる---友人は険悪さを察知して---どう学校は?---まあ何とかね---君はなげやりな彼の態度に腹をたてる---何をカリカリしてるの、ちょっと冗談を言っただけなのに---久しぶりに、話し声がしていたので、来てみただけなのに---きっかけをつかんで、話したいと思っていたのに---彼は言葉をのみこんで画面に目を落とすばかり---拷門、銃殺、死体の山---政治が価値を主張する時、繰り返されてきた光景---君は歴史を通して、彼とのくいちがいを考えている---親の理想と子の現実---今回の切っ掛けは何んだったか?---そう、彼に専門学校の案内書を買ってきてから---これ見ればどんな職業があるかわかるよ---自分が何をしたらいいのかも---数日前、進路を決めなければならない、どんな職業があるのかと彼---進学しないの?---決まってしまうのよ---一生の問題?---そんなこと分かるわけないよ---勉強なんかしたくないもん---うるさいなあ、二言目には勉強って---それは、お前自身の問題だから---後悔するのは貴方だからね---彼の不安と、狼狽、そして憎悪---君はさり気なく手助けしたつもりだった---が、こんな本いらないよ---拒絶に出逢った---以来、君は黙ったのだった---歴史の暗たんと、君自身の暗たん---そして彼の---
人生を決めるなんて---それを今からなんて---ほんとに出来るのだろうか?---何もわからないのに---何も始めていないのに---何のために?---何をしたらいいの?---子供あつかいしてるくせに大人を求める---無気力、怠惰、無知---何を怒ってるんだろう?---くるくる変わる気分---無視するなら、無視していくだけ---あの暗さ---趣味の違い何が楽しくて?---あのおめでたさ---おしゃべり---何がわかっていると言うの?---
強制されたくない、決められたくない---自分で探して、自分で求めて---
誰かが喧嘩してても嫌で---明るくなければ家庭じゃなくて---時間も物も全部一つにつながっていて---時間の端などはなくて---特別な一日なんかもなくて---日常っていうのは成長で---悔しさや、怒りがあっても---空気みたいに---明日は、葉緑素の光の粒となって---ぼくの上にふりそそいでいて---どうしてぼくの話を聞かないの?---どうしてぼくに人生をきめろと言わないの?---毎日が大切って?---理想が大切って?---考えたこともない---陽に輝いて、風に揺れて---いつも変わることのない、ぼくの朝---自分の成長なんてわかんない---ずっと続いてきたもの---これからだって---
不愉快---一々が不愉快---食事の仕方---歩き方---目付き---なんだろうこれは---彼がわたしを---意識の上にあげていないと思え---わたしは常に上げていると思え---わたしが導くか、寛容になるかだが---この一年、繰り返されてきたシュチエーション---わたしは---タイル貼りで疲れて帰って来た母を思い---バリ取りで疲れ帰って来た母のことを思い---彼らにたいして怒っているのだろうか---わたしは---毎日、夜道が恐いと言う母を---自転車で駅まで迎えに行き---わたしは---妹を世話し、夕飯を炊いて待った---その小四のわたしの心と---そうした境遇を生きた母や父を思い---怒っているのだろうか---豊かさを願い---豊かさに憤っているのだろうか?---
彼らにどうして父が要るだろう---何も求めてなどいないのに---人生いかに生くべきかだって?---どのようにだって生きて行けるさ---君自身、父の死を泣いていない---父を求めていない---千年の後、人は何を求めているのだろうか?---いつの時代にも、失ったものを懐かしみ、求めているだけ---絶対を、完全を求めてなどいない---
君は子供の疑問に答えられるの?---何のために勉強するの?---何のために働くの?---そもそも何のために生きるの?---そして、用意されていた彼らからの答えが---核戦争でいつ人類は死滅するかもしれないのにだったら---幼い頃、彼は核戦争に脅えていた---テレビのちょっとした内戦の報道を見ても---お父さん戦争?---原爆がおちたの?---一番強い武器だから、人は当然使うはず---海の彼方の小さな国のことでも---テレビで育った子供には身近な国---君の保証を待つ彼---大丈夫、あれは国の中の喧嘩みたいなもの---君は笑って答えた---子供は知ってしまっている---核戦争を知識だけではなく---世界の雰囲気として---君自身、雨にあたると髪の毛が抜けるのではないかと、心配して成長した---彼らは、世界の原発事故の只中で育った---オゾン層破壊を---酸性雨を---森林破壊を---すべて大人がやっていることと---すべて人間がやっていることと知っている---そんな、いつ起こるか分からないようなことを考えないの---子供は勉強することが仕事なの---人は生きるために働くの---明日死ぬかも知れないから---毎日を大切に---精一杯---自分を大切にしてさ---何故やめさせれないの?---お父さんがなぜ---君は九才の彼の父親を失格した---何のために生きるのかを---解決しないでは受験勉強など出来なかった---いつ死んでもいいように生きることなど---疎外、不条理、終末、虚無、破滅、不確実、無力、運命、倦怠、無意味、---古い君の日記の常套句---人に死があるのに何故とは聞かない彼---人の愚劣を憤ってはいない彼---死は身近でもあり遠くでもある---人は完全でもあり出来損ないでもある---
彼ら---お笑い番組を見て笑っている---ウヒャ、アハハッ---声が隣室に響いてきて耐えられない---あいつらはあいつらと思っても---彼らの軽薄さは見ていて耐えられない---面白さばかり求める彼ら---彼らが---テレビに、ゲームに使った時間は---5×365×3は5475時間---5175÷12は431日---
こどものアルバムがあるでしょ---あれが私たちのこどもよ---彼が私たちのこどもであったことの何よりの証拠---あなたにしたってあの彼の、親であったことの証拠---そしてよろこび---彼らは彼らなのよ---あなたの喜びはあなたのものであるように---彼の人生は彼のものなのよ---わたしたちが代われるものではないのだから---わたしは今、やっと親を降りられたって---身体だけは親より大きくなってしまう、小鳥のヒナがいたでしょう---戸惑っていた親鳥---いまあんな感じ---
朝のいってきますの声---時間はそれぞれ違うけど---きっと声をかけて出掛けるでしょ---一緒に生活してるのだから---少しの別れ---いってらっしゃいの声がなかったら---ぼくは学校に行けなくなってしまう---家族が一緒に食卓に着くでしょ---みんな楽しく話などしながら一緒食べたいと思うでしょ---どう味は?---おいしい?---いける---親は料理し、子供の喜びを味わい---子供は親の世話を受け取り---そして、いつの日か自分の子供に分け与えて---
家族が一緒に風呂に入るでしょ---風呂の中では誰もが和やかで---その和やかさにぼくはいつまでも漬かっていたい---だから親が入っていると、ぼくは決まって一緒に入って---髪洗いの湯をかけてもらい---親に背中をこすってやる---ぼくが眠るとき---おやすみをしないでは眠られない---今日一日をしめくくって---そのぼくのしめくくりに、返事があってはじめて安心して眠れる---
兄弟喧嘩をしたときは---悔しくて、家出したくなるけれど---しばらくは憎んでいるけれど---憎み続けられない---傷つけた方も、つけられた方も---いつしかお互いに悪く思えてくるの---
昨晩は---十六年間何もおもしろいことはなかったと言っていた---今日---彼が、眉間にしわを寄せ---わたしの顔を見ないようにして食事をしていた---豆を食べようとしていて---豆がこぼれ、床にころがった---それを見て、わたしは---思わず笑ってしまった---そのわたしの顔を見て---彼は一層、不愉快な顔をし---何がおもしろいの?---毎日、ブッとしていて---何がって---おまえがさ---二週間前---話合おうと言ったのに---話など聞きたくないと言った彼だから---いましばらくは---死んでいてやろうと思って---彼が精神的に---わたしを殺しているのだから---
生きてて良かったとは?---今まで人間に生まれて来て良かったなんて---一度も思ったことない---犬や猫の方が?---いや、鳥だったら良かった---空を飛べるから---勉強したり、働かなくても生きていけるから---生きて行くだけだったら---勉強や働かなくても出来るよ---きっとそれでも、人間は人間に生まれて良かったと---どこがそんなに良いの?---悩めるし---悲しめる---楽しめる---鳥だって同じじゃない?---同じだけど---自分で自分を感じることは出来ない---感じてるんじゃない---うれしい時にはうれしいって言ってるんじゃない?---人間には解らないだけで---そうかも知れない---でも人間ほど深く複雑には---深さや複雑さなんていらないよ---単純の方がずっといい---人間は選択する動物なんだ---チーターのように走りたいと思って---車を造り---鳥のように飛びたいと思って---飛行機を造った---そんな選択いらないよ---鳥は鳥で良かったし---チーターはチーターで良かった---何故人間だけ選択しなきゃならないの---羽も、足もないからさ---この頭しかないのだから---創造的動物なんだ---結局、人間て満足しない動物っていうことでしょう---空を飛ぶことだけで満足できる---鳥に生まれたかった---人間には文化がある、人間は素晴らしい---音楽、絵画、文学、映画---そりゃ、歌や映画は楽しいよ---でもそんなのなくたって、鳥は空を飛べるだけで楽しめる---ほんとに、みんな何が楽しくって生きているのかなあ---そりゃデイトしたり、友達とどこかへ行ったり---つまらない奴ばっかりさ---前向きじゃないんだよ---山は登ってみなければ解らない---登りたくないもん---人間は狼にもなれるし、人間にもなれる---でも鳥には成れないでしょ---ちゃかすなよ---真剣に考えてるんだから---おまえが話し合いたいと言うから---誰が嫌いという訳じゃないけど---人間が嫌い---自分は?---自分も含めて---そう---そうだなあ、植物や動物、絶滅していく生きもの達の事を考えると---特別人間を嫌わなくても---彼らのほうが---見た、あの何とかペンギン---山を登るペンギン---あれは泣けゃったよ---人間は素晴らしいというのは取り消そう---鳥だって何んだって素晴らしいにしよう---それなら解るけど---そう、素晴らしいって思えるの---時にはね---それなら良いのだけれど---何も楽しいことなかったなんて聞くと---何しろ前向きに行こうよ---何に向かってか解らないけど---進学問題は自分で判断して---人間て投げ出された動物なんだよ---何れ選択しなければならない---どのように生きたって---悩み考えてしか生きられない---何も選ばなくたって、選ばないことを選ぶことになる---そのうちには---悩みも含めて素晴らしいものに---そうなるといいのだけれど---
親と子というものは---社会と個人---現在と未来のようなもので---託す気持と願いがあって---離れられないものがあって---越えて行かなければならない壁があって---個人、未来というものは---限定され固定されることを嫌って---彼を君に置き換えれば分かるように---君は社会の要請に応えてはいない---本質においてエゴイスト---個人の自由を---自己の責任において行っているだけ---正義、真理、真実、理想、---君は、常にあらゆる事が絶対とは考えられない---君の生命には限界があるから---親と子との関係---願いがあって---託したい気持があって---
おまえには---わたしに抱かれ眠った記憶は---もうないのだろうね---いつも助け、見守ってくれる---人としてのわたしを---見つめたあのおまえの瞳は---もう写真でしか見られないのだろうね---おまえの喜びが---わたしの喜びであった頃のわたしを---おまえはもう思い出さないのだろうね---いつの日か---わたしの悲しみや、嘆きに---耐えられるようになったおまえ---それはそれで嬉しい---まもなく自分の悲しみと---自分の嘆きに出会うときが来るのだから---わたしの---悲しみなどにいつまでも---でも耐えられなくなったら---いつでもわたしの元へおいで---わたしはいつだって---おまえの前方を歩いていてあげるから---話をしなくなっているおまえとわたし---言葉など---ほんとうはいらない---おまえがついこのあいだまで---わたしに発していた言葉は---「あれなあに、これなあに」---「それはどうして、なぜ?」---「ねえ、ぼく学校でさ」と---おまえとわたしの間には---いつも混じり合う空気があって---その空気を互いに吸っている限り---言葉などいらない---空気はいまでもある---おまえが---わたしを意識するその瞳のなかに---わたしが---おまえを意識するこの---わたしの瞳のなかに---
「私との対話」
一九八九年五月、君は---「生きている中で、世界のこれほどの際立ちがあるだろうか---世界に戦争があり、人の病や、死があり、倦怠や不機嫌があるなかで---この五月の、日に数センチも伸びる、草木の緑---新鮮だから、けな気だから、柔らかいから---成長するから、光を反射しているから、吸っているから---唯一生きものだから、今色がこぼれているから、清水のように生命が流れ出ているから---一ケ月前には何もなかったその枝先に、今奇蹟のように、その輝く緑葉が誕生しているから---景色を包み、私の目を覆うから---彼らに包まれる喜び---彼らと共に生きる喜び---触れ、生命に溢れるこの世界を、慈しみ味わう---見い出した私の時---」と、目にする五月を---喜びに満ちて歌っている---
そして、一九九〇年五月---君の目には何も映ってはいない---倦怠感、空洞感、喪失感---君は、今---強制収容所から生還した人が、数年後に陥ったという---心理的なケーソン病(潜函病)のような状態にあるのだろうか?---生還した彼ら、何より先ずがつがつと食べ---次には何時間もしゃべり続け---そして、陥ったのが不満と失望だった---理解されない、一体自分は何のために苦悩し耐えてきたのかと---抑圧と不安が去った後の空白---心理的危機---
君は二年来通い続けている、終点のI病院でバスを降りる---中年の女性二人と、初老の男性一人---しっかりとした足どり---明るい表情---ハイキングにでも来たよう---手術後二年は経過し、転移はなさそう---舗道には、うす汚く八重桜の花びら---タクシー乗り場のくすんだ欅の緑---ドアを開け眠っている運転手---正面玄関には外が見える喫煙室---二人の患者---一人はパジャマ、一人は浴衣姿---こちらを見てはいる---でも何も見えてはいないはず---意味を持ってはいなかった外の景色---
消化器外来の待合ロビー---来院のたびに思い知らされた人の生と死---混み具合で待ち時間を推測する---一時間半---無意識に顔見知りを探す---Mさんはもうこの世にいないはず---Gさんは---Hさん、Sさんは?---朝陽に向かって祈っていた、Sさんにだけは先月会った---二年のうちに、黄疸が土色に変わっていた---君はもはや顔見知りのいなくなった廊下を歩く---突き当りの、廊下を仕切っただけの喫茶室へ---
病人が仕事の打合せをしている---病人が子供と妻を前にして笑ってる---子供は無邪気---恋人と語らう病人---そこは面会室---病院の出島---希望や幸福が出入りした所---車椅子の老人が妻に押され入って来る---点滴台を引いた若い男も---彼ら、時間を楽しんでいる---毎日三本、五時間の点滴---皆楽しそう---外の喫煙ロビー---テーブルを囲んで煙が立ち昇ってる---柱の「君の人生は生くるに値する」の色紙---あの日、絶望の渕にあってだけ意味を持っていた---
きれいだねえ、もう死ねないなあ---一パーセントでも残っていた転移の可能性---蛍光ボードに並べられた君の肝臓のCT写真---残念だったねえ---喜こばない君にいつものT医師の皮肉---あと半年発見が遅れていたら---Mさんであり、Gさんであった君---食べてる?---疲れない?---もう大丈夫でしょう---T医師の目が笑っている---T医師は喜んでくれている---ありふれた死だが、今一つ彼の手から去った---君には終わった癌との闘い---が今も続いているT医師---よく食べて、無理しないで---助かったんだから---
人は自分のために生ききれるものだろうか?---怠惰な自分---日々変化する自分---傲慢な自分---どう料理してやったらいいのか?---人はどれだけ自分への関心を持ち続けられるものなのか?---不思議でもなんでもない自分---分かってしまう自分---日常の中にある掛けがえのなさとは?---失われんとした時に思うだけ---同じ繰り返しの日常に、実感は伴わない---人生はどんな虚構より幻想的であるだろうか?---あの人の人生が---自分の人生が---沈黙の世界?---一瞬、神秘と幻想を感じさせてはくれた---が、今では喧噪の世界だけが---知覚の扉の清掃作業?---無理しなくても輝いていた日々---私の時間?---遠退いた死には無限に---透明な感情?---疑問を忘れていただけ---草木の成長?---木々の緑?---雨、風、鳥?---日常の中の微細な感情?---隠されている心理の発見作業?---生きることのように書く方法?---生きのびてしまった今---何の必要が---何のために---何に向かって---
世界が色褪せちゃってさ---元気になると同時に、不満も憂欝も今まで通りさ---医者にも、死にも見離され---それは良かったじゃない---人間の性格なんて、簡単に変わるものではない---人間の苦悩には底がないのだから---忘却は自然なこと---振り返り、意味を明らかにしないでは---本質的には無、そしてエゴイズム--- 君は君自身の死を体験したのだろう?---その時君はどんなだったの---用意していなかつた---でも今は用意が出来ている---まだ何もやれていないのでは?---いや、自分に出来ることはこんな位---子供は?---今の子供は親などいなくたって---あの時の不安と脅えは?---待ってくれ、もう少しと言った---でも正確な確率を知っていたなら---信頼のおける医師がいたなら---不安と脅え---人は一年もあれば、希望と覚悟が---知らなかったから---世界が輝くことを---時間が実存を始めることを---君は本当には見つめていない---九十パーセント以上の確率で生き残れると考えていた---確率論的な死では---現実性は薄かった---でも引き入れた---不安をもった---死に行く人が周りを囲んでいた---何パーセントか残る転移---ありうる可能性を利用した---生きていたからといって---思索の道は続くのだが---誰からも省りみられることもなく---何も残さず---神を呪って---希望などもたず---最後まで死を受容することなく---死んでいくことなど出来ない君---本当の死など君には体験されなかったのだ---自分の精神とは関係のない所の---医師だけが、運命だけが知っている---多くの人の死のように---地獄を見てきた?---おつりの人生?---何も見ていない---何も聞いていない---何も知らない---でも何かが変わった---何かが---そう---不確実、夢のような現実、自己回帰、運命の気まぐれ---死が身近に---間違ってたら今頃はといった?---不思議ということかな---一人で色々な事を考えた---時間、空間、宇宙、沈黙、木に、石に、と---でも今、ここに来て全部それらを---日常性の中から見つめ直さなければならない---自分で自分の考えたことがよく解らない---日常性の中で意味を持っていない---それが何なの?---それでどうなのといった---人の意見を寄せつけなかった---自分だけを求めた---あの一瞬の死後の世界が不思議---あれはきっと---君が一度死んだのだ---君の肯定的なものが---そして今君は生き始めなければならない---どのように?---一度、信頼関係が断たれ---次に蘇り---今あたりまえの、どちらでもない世界との関係---これをどのように?---
体験に固執しなで---プルーストは延々と作品を書いてきて---ある時、書いてきた自分を振り返り---時を見い出した---やはり---自分と時間というものを対象にして---書き続けて見つけて行くもの---
もし今度、お前が背むしとして生まれら---人の助けなしには生きられず---お前が持っているプライドなど---何千回となく踏みつけられ---人の嘲笑をかうことだけが存在理由で---自らを嘲り---自らを壊すことのためにだけ生き---人が理解し合えることなど考えることもなく---まして言葉を存在させることなど---犬はお前を笑わず---同情せず---そんな犬と暮らし---犬の前では主人で---人間面をし---時には泣き---からかい---他人には、けっして知られることのない密かな喜びをもって---お前は死んでいく---
二人になりたくって---運動をかね、よく病院の屋上に上ったね---景色を眺めているだけだったけど---私には隠してることがあって---苦しんでる貴方には告げられず---あの日、転移がないと分かったとき---初めて告げた---私、癌だということ知ってたのと---もし僕が君の立場で---君が手遅れだったら?---知らせてほしかった?---今なら告げられる---でも以前だったら?---君に手だすけは出来る---が、君と代わることは出来ない---告げないことの強さ?---告げないことの思いやり?---そのうち分かるものよ---が、きっと不満が---君にとってあの数ケ月間は?---思い出したくない---貴方が生きている---それだけで---それだけで?---本当にそう思うの?---君に対してもそう言えるだろうか?---貴方は?---最近は不満が---疲れやすい---無理がきかない---それは胃がないのだから---元に戻るのに五年かかるそうよ---半病人だと思いなさい---何もしなくていい?---ちゃんと食べて、夕ご飯だけ作って---二年間は食べることのためにだけ---病人の幸福だった---病人を自覚し、他人も認め---少し元気になったと思って---最近は言うことを聞かないでしょう---人と同じに歩いている---でも、憂欝、無気力---それでいて焦ってる---どうして?---もう死なないっていうのに---日常や「幸福」に---知らないわよ、まだ体力がないのだから---風邪をひいたって衰弱するんだから---そのうちまた他の癌に---
のぼせがひどくて眠れないとき---ふと死ぬときの事を思い描き---事故死でなければ---脳ミソが頭がい骨には収まっていないで---赤と橙色の液体の中に拡がっていて---その中を意識がもがいて泳いでおり---時々、意識を見失うと暗闇となり---痛みは---唯一生きてる証拠で---痛みが走るときは血の赤色が---意識は言葉を見付け---もうダメだ---待ってと---脳ミソが拡散しているため---外界と自分が区別出来ないで---言葉だけが形になって出---見とる者には、意識の形と思え---死にゆく者には---赤と橙色の液体の中で意識を探して---もがき泳いで---遠退いては蘇り---溺れてはまた浮き上がり---長い長い苦しみだけの意識の中を---時々は手のような形をした人間を見つけるが---液体の中のことで---そのうちには---見失い---底の方に黒く渦巻く流れの中へ---吸い込まれ---吸い込まれ---
胃のない君は、毎日思い知らされて---生かされたということ---人の手によって---手術され助けられたということ---そう、人が人を簡単に殺せるように---人が人によって助けられたということ---二、三十年前だったら、死んでいた---君の十二指腸は、食道にぶら下げられ---二又になっている---食事は子供ほども食べられず---日に何回も食べなければならない慌てて食べれば、詰まる---詰まると、水を飲んでも落ちていかない---吐き出し---食後は食べた物が逆流するから---横にはなれない---ひたすら、腸のぜんどう運動に期待---血が腸に取られ---頭は貧血症状---何も考えられない---音を聞きたくない---物を見たくない---話したくない---体中に汗---腹に土でも詰まったよう---胃がないということ---生命びろいはしたが---生涯背負う不自由---鳥---鳥だと思えば---彼ら、食べ続けている---飛ぶためには---それでも君は---生きていることを価値に---何のためにかは知らない---生きて、何をしたいのか---鳥なんだから、楽しめば---一人で闘うしかなかった---考えることはしたい---あの日、死んだものがある---見せかけの勇気---見せかけの明日---何が出来るかは解らない---が、自分と明日には騙されない---
存在に対する疑問?---君は半ば諦めているのでしょう---何処まで考えたって尽きないと---しかし彼ら、君自身も振り返ってみれば---何故?は未知であり、冒険だった---そして可能性であった---様々な出来事は、初体験---何も知ってはいないということがなによりの特権---見てごらん、彼ら---毎日同じことを繰り返していても---期待、不安、希望、---時間そのものが未知で---あの繰り返しが冒険で---サッカー、マンガ、トランプ、テレビゲーム---彼ら、まだ何もきめていない---まだ何も始めていない---何も知らないということを---初めての今日ということを---
君が生きるとは?---人間に出会うという---今出会っているという---同じ意識体への、精神の出会いという---家族、友人、奇跡的存在としての---もう一人の自分に出会っているという---
君が生きるとは?---明日に出会うという---今という時に出会うという---時はそれ自体で創造的---芸術に限らず、存在とは創造において成立しているという---
君が生きるとは?---不可逆性の時を---ある何ものかに向かってという---ある何ものか---けっして特定、限定できない---昨日の君は、今日の君ではなく---そして明日の君でもないという---
君は---生きるということを、君が感じられるそれ自体の意識において、ノートに書き付け眠りについた---
Iさんへ
昨年より、ベランダに小鳥のエサ台を作り、ヒヨドリ、スズメに食事しに来てもらっています。ヒヨドリはつがいのカップル、スズメは近くの軒に住んでいる二家族の親子づれ---起きるのが昼頃になることもあるのですが、真っ先にエサをやります。ヒヨドリにはミカンとリンゴ、スズメには粟とパンくず。それぞれそに子供ができて私を頼っている気もするものですから---
ヒヨドリとスズメ、ありふれた鳥なんですが、この私たちと同じ都会を、生きている彼らに、共感と親しみを覚えます。エサ探し、なわばりのパトロール、子育てと---限られた自然の中で、人間と共存しながら、たくましく今を生きています。生きもののこと---どの生きもの一つをとっても、それだけで完全であり、完成されていることの驚き。鳥は飛ぶことを生きることにおいて、魚は泳ぐことを生きることにおいて---
一つの生きものに学ぶこと、その不思議と仕組みの妙に驚かされます。でも彼ら、ベルグソン風に言うなら、生命の意志を持って達してきたこと。飛ぶ意志をもって翼を---泳ぐ意志をもってヒレを発展させてきた。
ところで、ホタルにとってはどんな意志が---Iさんの「ホタルの寺田川」を見ると、ホタルの光は求愛の手段、そして古今に歌われ、書かれてきたものは、やさしさ、はかなさ、あたたかさ、と人の心に灯をともして来ている。ホタルの意志とは、やはりIさんが言うように、やさしいこころ、よわく美しいものに、愛と良心を導くことなのだろうか?---
今回の本、ホタルという生きものを通して、様々な人々がある何ものかに導かれている姿が伝わります---ある何ものか---それは、一つになろうとする姿かも知れません
最近私は、生きるということが、正義とか真実とか、時に愛とかという定義付けされたものではなく、ある何ものかに向かってと---考えるのです。
Iさんの生き方を見ていても、瀬戸のファーブルから、合唱団、商工運動、そしてホタルの運動と---生きるとは、これなんだという定義付けは出来ない、ある何ものかに向かってと思えるのです---ホタルはIさんに、人々に心の輪を広げて来ましたが、一千年後、二千年後、またある何ものかに向かって生きていくことでしょう---そして、人間もまた、ある何ものかに向かって生きていくのでしょう---
NHKのうた、あれはいいですね---
さよなら さよなら きみにあえてよかった
さよなら さよなら とてもとてもたのしかった
さよなら さよなら もっとはなしたかった
さよなら さよなら いつまでもいつまでも忘れない
一九九〇年 五月 二七日
「木との対話」
僕ら---生きものには、特別な気持ちを抱いているでしょう---この一本の欅---そこに転がっている石とは違った感情で見ている---僕らと同じように---成長、変化し、子孫を残すものとして---枝を折ればきっと僕らの心が痛む、---彼ら、精一杯生きている---彼ら、木枯らしに耐えて生きている---僕らの感情を移入させて考えてしまう---人に役立つとか、人に喜びを与えているからとかではなく---僕らどこがで生きものというものが---人間も含め、奇蹟的に出現しているものと考えているから---はかなさ、喜びとを同じ生きものとして---感じあえると考えているから---彼らの喜び---空へ伸び拡がる姿に---嵐に負けない太い幹に---陽を受け輝く緑葉に---悲しみ---風に枝を折り、冬の寒さに---病み枯れる姿に---僕ら---感情移入でなく、彼らの声が聞こえるのだった---緑色した彼ら---友愛、静寂、故郷---冬空に枝だけ残し立つ彼ら---忍耐、眠り、休み---春から夏の彼ら---鳥と遊び、虫と遊び、枝を広げ---目鼻だちをもち、優しく、にこやか---ねえ、木の声聞いたことあるでしょう?---何度か---うろの中にふくろうを住まわせていたブナの木が---僕がふくろうを捕まえようとしていたら---やめろ、友達に手を出すな---間もなくふくろうが居なくなったブナの木---僕が通りかかっても、何もしゃべらなくなった---校庭の樫の木---千年以上生きているって言っていた---昼休み---一人背をもたせ掛けていると---しわがれ声でぶつぶつ一人ごと言っ ていた---裏山の樫の木達---いつもうるさかった---ほとんど何を言っているのか分からなかった---でもいつも、僕が泣いて駆け込む場所だったから---笑ったり、関係のないことを言って---僕の気を紛らしてくれた---お寺の杉の木---てっぺ んまで登らしてくれて---僕を揺すって---恐いだろう、どうだっと、遊んでくれた---ターザンごっこの木、シャボン玉の木、クワガタの木、刀の木、グミの木、アケビ、栗、柿の木と---僕らは確かに話していた---記憶をたどれば---子供時代は誰もが、どんなものとでも---話し、一緒に遊んだ---それらの声の記憶が---親しみと、安らぎと---特別な気持ちを抱かせる---
一本の木---僕らの子供時代を---父の子供時代を---またその父の時代からのつきあいなのだと---わかって感じる親しみ---木は僕らよりずっと長生きをする---五百年、千年を---そして僕らの子供---またその子供を---見守り、励まし、記憶していく---この彼らを僕ら今---
裏山にブナの木は無く---寺に杉の木は無く---ただ、校庭に樫の木だけが息も絶え絶えと---
「共感」
キャンプのせいだったからだろうか?---焚火を囲んでいたからだろうか?---酒が少し入っていたからだろうか?---闇と、川の瀬音に包まれていたからだろうか?---その日は、テレビを見ていなかったから?---新聞を読んでいなかったから?---音楽を聞いていなかったから?---電話を受けていなかったから?---流木が様々な炎の色を見せ---火の粉がはじけ飛び---暖かさにエネルギーがあって---闇が半身を照らし---その人の横顔がフェルメールの絵のように浮かびあがって---瀬音はボレロより単純で---それでいて、会話がとぎれた沈黙の中で聞いていると---どんな現代音楽よりも複雑で---包まれる夜気と木々の眠りがあって---星も雲間にあらわれ---人は自然の中で異形だけど---しばし一体を許されて---その人と私は、シンパシーへと誘われたのだろうか?---私は手術後一年で---声に力もなく---考えも散漫で---転移の不安もどこかに残し---自分からしゃべることは少なく---自分のことばかり考えていて---人はどうせ理解してくれないだろうと---でも質問には答え---何か労られているような心になって---いつしか病気の話をして---「助かったから、いま生きていることが不思議ではなくて」---「いま生きていることが無条件で不思議で」---「生きてることだけで」---「不思議」---「ほんとに不思議」---「生きてるだけで」と---無理がなくて、嘘がなくて---引き合って---このシンパシーには境がなくて---私があなたで、あなたが私で---木や生きものへとは違った---生きてるもの同士の哀切があって---人とのはじめてのシンパシー---焚火を囲んでいたからだろうか?---闇と、川の瀬音に包まれていたからだろうか?---このシンパシーには、人を原始に誘うものがあって---焚火を囲む瞳に---瀬音を聞く耳に---遠い遠い記憶をよみがえらせ---一体へ---唯一へ---合一へと---偶然に出会ったもの同士が---闇と、火と、静寂と---あの夏の夜の、忘れ得ぬ私の思い出---