#1とうか
ファンボードに座りかれこれ1時間は漂う。
波のピークが浮標の外にあることがもどかしくて仕方がないのだろうか「なぁ兄ちゃん!」といまにも泳ぎだす勢いで声を張る。
本土と太平洋に挟まれる水脈島は大橋という名の片側一車線歩道有りの橋が架かる小島で、人口はおおよそ40人の小さな漁村がある。
小学校は島で一校、中学からは本土に出て海岸線を自転車で10分のところに位置する寮完備の学校に通うことになる。
本土と周辺の小島からも生徒を集めるも、全校生徒62人の自他ともに認める過疎地域である。
廃校にならないだけマシという声もある通り、島の中学が廃されて寮に住む生徒も少なくない。
挙句、意欲さえあればお遊び入試と揶揄される市内にひとつの高校、道立東八尺高校がそびえ立つ。
倍率1.02%を誇る彼の高校はほぼ中学のエスカレーターと考えてよい。ほぼとは予想の通り、物好きがいるというだけの話である。
しかし、この高校がお遊び入試とまで言われるにはもう一つの理由があるが、この話は一次募集の倍率が1.02倍とだけ伝えておこう。
そして、そんななかで寮生活という楽しそうなものを味わうことは叶わないが、橋の架かる恵まれた環境の水脈島には4名の自転車組と7名の小学生、あとは老男女と数組の若夫婦が住む。
「ダメェ言ったっしょ。」
幾度も聞かされる駄々に飽き飽きしながらロングボードに背中を預け、ゆらゆらと浮かぶ兄の桜木とうかは家事全般をこなせる高校男児である。
「いいべや~?もう海さ入ったっしょ~や。」
それに対し、『洗濯』『掃除』『炊飯』の3Sを見事なまでに兄に依存するも、『学力(特に数学)』『運動』『飽きっぽさ』には誰にも負けないと自負する妹の桜木えみ、中学3年。数日後の4月からは例に漏れず、東八高校(尺八とも言われているらしい)に通う身でもある。
そのえみの言い分にそれもそうだが、と痛いところを突かれては雲一つない晴天を眺める。
春手前の海には入るものではない。いくら陽気が良いからといって、冬明けの海は冷たすぎる。
岩場を囲むように浮かべられた浮標を軽く見て、荷物のある岩場を見る。
冷たい海水を撫でるようにさわりながら起き上がった。少しずつ波が近付いてきているのか、流されはじめていた。
「もう少し待てって。」
「分かったよ、とうかのアホウ。」
と言い放ち、えみは顔を水平線に向けた。ムスッとしているようにも見えるが、濡れたショートボブがいまかいまかと揺れている。
「きた!」
砂場と違い、潮の満ち引きに左右される岩場の波が、うねりが、沖の浮標を押し上げる。
エミはすかさず腹這いになり泳ぎ出す。波の進行方向に向きを変えた。
手と足を使い、速度を出す。波がボードを押し上げ、えみはさらに水を掻いて滑り出す。
腕立て、足を引き付け中間姿勢、テイクオフ
自身の背丈を大きく上回るボードを、大きくゆっくりと扱う。
前で波が崩れ、白く乱反射する。
後ろ足に体重をかけ、先端を浮かす。そして一気にターン。
日光と海水で茶色くなった毛髪が、動きに合わせておおきく揺れる。
崩れた波に挟まれる前に波の奥に抜けると腹這いになり、パドリングで戻ってきた。
「兄ちゃん、どうだったか?」
ほんの20秒にも満たない全力に首を少し傾げながら、いつものように訊いてくる。
『飽きっぽい』を自負するえみが唯一長期に取り組んでいるサーフィンは筋力が追い付かずいつもワンテンポ遅れてしまいがちである。
ボードを小さいものに変えれば良いのだが、163cmの本人はいささか大きい7フィート(210cmほど)のファンボードに固執する。
しかし、機嫌を損ねると数日間は厄介になるので、ボードのことには触れないようにしている。
今回は調子がいいのか身体だけが先行するようなことはなくボードを扱えていたと思う。
「よかったんじゃねぇか。」
頭を撫でると、えみは白い歯を見せて笑う。
しばらく撫でていると、ガキ扱いすんな!と手をはじかれるのはお約束。
2時間ほど経ったころだろうか、また浮標の外に波のピークが出て行ってしまった。
「そろそろあがんべ。」
「うん…」
えみは疲れているのか、だるそうに答えたえみを先に岩場に押し上げると、ボードを渡す。
腕を伸ばせば簡単に登れるはずの岩場が酷く高く見える。はいと伸ばしてきた腕を掴み、這い上がる。ほんのり暖かい岩場に寝そべり、タオルを顔から被った。
「早くすれ~、おなか空いた。
あっ!えみな、オムライスが食べたい!!」
急かすように荷物で脇腹をつつかれ、2リットルペットボトルが2本入ってるバッグが、鈍い音を出して地面に落とされた。
起き上がりバッグから真水と工具を取り出し、フィンを取り外してから海水を洗い流す。
うわ~兄ちゃんまてにやって…
という言葉を聞き流しながらタオルで水滴を拭き取る。
「えみ、先もどっとるさ~。」
ファンボードを両手で持ち上げたえみは家の裏手の階段に向かいながら「今日買い物さ、行くべ?」と振り返らず確認を取るように聞いてくる。
張り付いたスーツが鬱陶しいのか、首元からファスナーを開ける。
日に焼けてない背中が白く輝く。
「まだ外だ。」
「家の裏、んなら問題ないもん。」
そういった問題ではないが、毎回注意しても一向に直らない。
石積みの階段をゆっくりと進むえみが見えなくなると、再びボードの水気を取る。
拭き終わると、ボードをぶつけないよう気を付けながら階段を登った。
開けっぱなしの離れ小屋に荷物と置く。ボードをスタンドに立て掛け、少しほこり臭い小屋を出る。
潮風でなかなか育たない芝生を避けながら石畳を踏む。
裏口を使い脱衣所に入ると、脱ぎ捨てられたえみのスーツを拾う。
「えみ、スーツくらい自分で洗え。」
「えみはね、兄ちゃんが一緒に洗ってくれたらめっちゃうれしいなぁ~。」
風呂場から脱力した声が聞こえる。
「シャワー使っとるべや。」
ほんの少し、間が空く。無い頭を使って考えているのだろう。
「んじゃ入れれ。」に対して、分かったと返事をした瞬間にためらわずドアを開けて2着にスーツを投げ入れる。
「え?ちょっ!!なして兄ちゃんのも?
いや…ドア全開にすっか!?てか、おのれの前を隠せバカァ!!」
慌てて隠された双丘も恥部も罵倒も気に留めず、ドアを閉める。
奏ちゃんに言い付けてやる!!と叫んでいるが、無視して洗面台で頭の潮を洗い流す。
2足のサンダルをもって脱衣所を出る。
べたつく体が気になるが、買い物と昼ごはんを先に済ませないと、またえみがうるさくなる。
正面玄関にサンダルを置くと、父の書斎の前を通り階段を登る。
踊り場を抜けて2階に上がると、すぐ右側にある部屋に入った。
ボディーシートで体を拭き、半袖のTシャツに腕を通してハーフパンツを履く。
机に投げ置かれた財布を手に取り、棚から自転車の鍵を探し出す。
自身の部屋を見渡しては、片付けなければと思うものの、実行に移せずにいる。
布団の上に重ねられた服、机に広がった読みかけのマンガ、床に転がる空のペットボトル。どれも大した量ではないが、無造作に並べられているためか、部屋に汚さを付与する。
ドタドタと階段を駆け上がる音が響く。
「えみ、すぐ出るべ…や……
…兄ちゃんずっとな、えみは裸族でないかと疑ってんだった。
うん、こんで疑いは晴れたな。」
開けたドアをもう一度閉める。
「うるさい!!小さいくせに!!」
「小さい言うな!!
比較できるだけん経験ないべ?」
ンンゥグッ
ドアの向こうで少女らしからぬ音を奏でる。
さっさと着替えろよと軽く追い立てると、えみは素直に自室に入っていく。
ドアの閉まる音を聞くと、1階に降りてリビングと一体となったキッチンに入る。
上から順に観音開きのドアを開けて、野菜室を開けて、冷凍庫を開ける。
「卵……ネギが少ない…んで…」
「ぶつぶつ言っとるとハゲさ進むよ?
ほらぁ~、さっさと行くさ~。」
暴言と腕を引っ張る力業で催促するえみを振りほどく。
「…兄ちゃんこまいんだよ。」
「仕方ないだろ。」
そう。仕方がない。
母は週に1回帰ってくればいいほうなのだから、仕方がないのだ。
えみの催促空しく、きっちりと買うものをメモに取り、家を出る。
メモをえみのポケットに押し込むと、表の玄関から外に出る。
斜面に密集した住宅地には個人の駐輪場は無く、階段で平地まで下ったところの駐輪場にいく必要があった。駐輪場まで合わせて153段に及ぶ急勾配の階段は、海に出た後の身体には非常にきつい。
車はもちろん、自転車を乗り入れるのも難しい細い坂道は住宅を縫うように張り巡らされている。
いつの間にか敷地に入っていたりと境界も曖昧で、親類が立ち寄った際は気を付けなければいけない。
そんな道をするすると進んで自転車を取りに行く。
67歳になるのキクばあちゃんが管理する駐車場には数えられる程度の自転車と自家用車が必要最低限の通路を残してぐちゃぐちゃに置かれている。
軽くあいさつをして、自転車にまたがる。
「よし兄ちゃん、行くとしますか!」
えみはどかっと背中合わせに、荷台に腰掛けてきた。
「降りれ。」
背中で押し出そうと試みる。
「帰りはえみが前さ乗るからぁ。」と前かがみになり押し出されないようにねばる。
「前科者がなに言っとる。」
「あれはノーカン!ノーカウント。
大事なんでもう一度、ノーカウントだべさ!!」
しばらく不毛な言い合いが続くと思っていた矢先、えみが急に黙り込む。
「自転車取ってくる……」
「お?うん、早くな。」
「おばちゃんよくなってきたよ。ありがとうな。」
不意に声をかけられた。
「うるさくしたって申し訳ないです。」
会釈程度に軽く頭を下げる。
なんもなんも
と手を振りながら答えてくれた。
あっという間におがってねぇ
これから買い物かい?
ちえちゃん(母の名は知恵子)は元気しとるか?
など世間話をしているとえみが戻ってきた。
おそらく、わいわい言い争う姿をニコニコ見ているばあちゃんに気付いたのだろう。
「なした?」
耳打ちする。
「なんもない。
ほらちゃっちゃと行くべさ。」
ばあちゃんに挨拶をして自転車を駆る。
長い大橋を渡り、島から本土に入る。
魚介類は島で賄えるが、野菜や卵は本土に出ないと良いものが買えない。
「そうや~さ、トヨばあんとこ行ってなかったか?」
斜め上に住むばあさんのことを気にかけているのだろうか。
「トヨばあなら、そろそろ野菜さ切らすと思う、一緒に買って帰んべ。」
したらさ
とえみが振り返る。
「ご飯作り行くさ」
あぁ
と答えて少しだけ漕ぐ力を強めた。
涼しい風を浴びながらショッピングモールに到着すると、早々にえみは食品コーナーに向かう。
ねぎをはじめ、キャベツやジャガイモをビニールに詰めていく。
えみは
にっくにっくに~く~
と鼻歌まじりで牛肉を眺めている。
そんなものをほっておき、鶏肉をカゴに入れる。
えみは
なぁ、ボタンエビば買うか?
などとどこかに行ったかと思えば、いつの間にか目の前を歩いていたりとふらふらする。
食品から日用品まで買い、袋に詰まった物を自転車のカゴに押し込み、ハンドルバーに引っ掛けて帰路に就く。
地元民しか通らない大橋は風が良く吹き抜けるため、荷物が多いと特に体力を使う。
橋を渡りきればすぐに自転車と自動車がごちゃ混ぜになった駐車場に着く。
自転車は自身で決めた位置から滅多に違う場所に置かない。
家の前に着くと「トヨばあに持ってく」と荷物を奪い、さらに島の上部に登っていく。
強靭な心臓の持ち主を軽く息が上がった状態で眺める。
鳴る腹をさすりながらえみの要望通りオムライスを作っていると、えみがむくれながら台所に入ってきた。
「もうお昼食べたぁ言ってた。」とぼやきながらチキンライスを覗き見る。
これ混ぜれるかと聞くもう~んと唸るだけで手を出さない。
「んなら卵割ったら混ぜれ
メシ遅くなんべや。」
「うん、分かった。」
遅くなるとなると話は別なようだ。
卵を3個取り出すと両手を使って割っていく。
えみはなにかと器用にこなす。運動はもちろん、勉学もそつなくこなしていく。
おそらく料理を含めた家事もできるはずだが、多少手伝えども全てはやらない。
やらせようにも「めんどう」や「兄ちゃんやって」と言うばかりである。
横でかちゃかちゃと混ぜる音が鳴る。
もう一つのフライパンにバターを溶かしてのばすと、ミルクの甘いにおいが漂う。
「兄ちゃん、もう入れていい?」
えみが近くに寄ってくる。いいよと答えると、上手く半分を流し込む。
表面に浮いたバターが端に押されたのを見てから、弱火にしてフタをする。
「なぁ、えみ。」
「なん?」
少しだけ背が低いえみは、近くだと上目遣いになる。
「料理ば覚えないか」
「いやさぁ
えみの予定だとな、兄ちゃんに養ってもらうんだよ。」
微笑みながら言うためか、冗談に聞こえない。
「俺がかなと暮らしたらどうすんだべ?」
「一緒に住んだげるよ。」
と即答する。
続けて「かなちゃんなら許してくれたよ。」と言い放った。
えみに何度も「本当か」と聞いても本当だよと答える。
今度かなに聞いてみることにして同じ質問の繰り返しを断ち切った。
えみは食べるときにいい笑顔で人を魅せる。
今日は出来立てのオムライスをおいしそうに頬張り、右に左に体を揺らす。
一緒に足も左右交互に、前後にブラブラ揺らす。
えみ曰く「人に作ってもらうからおいしいのだよ」らしく、自身で料理をするつもりがない。
いつか困るぞと言ってもやはり駄目であった。
しかし、ここまでおいしそうに食べてもらえると作った側としては非常に嬉しい。
そんなこともあり、あまり強く言えないことは確かである。
ただ、買い物に行き、昼食をとっている間も浴槽で水に漬けたままだった2着のウェットスーツは、片付けが終わったあとに発見されるのであった。