Berry Merry Christmas..
からん、ころん。
カウベルの明るい音とは対照的に、ひどく切羽詰まった様子で客が入ってきた。
「すいませ……ん!!」
ひどく呼吸を乱し、髪がぼさぼさな男だった。右手にきつく紙きれを握りしめている。
「これと同じケーキ、作れますか」
クリスマスのことである。
いらっしゃいませ、と言うタイミングを逃した雪は、あいまいな笑みを浮かべて客を迎えた。
「同じケーキ……ですか」
「はい」
頷いた男はケーキのたくさん並んだショーケースに近づき、雪の目の前に握っていた紙きれを置いた。
雪はそれを広げ、少し目を見開いた。
「ホテルグランディアーノ……すぐそこにある三ツ星ホテルですね」
男は頷き、雪を食い入るように見つめた。雪は形のよい眉を少しひそめ、困った顔で男を見返した。
「どのケーキですか」
「この──グランディアーノ・サン・ノエル・ベリーです」
長い名前をすらすらと言った男に少し驚き、また雪はチラシに目を向けた。
二段重ねのスポンジに、溢れんばかりの苺がのっている。
──大きい苺……一つ二百円近くするんじゃないかしら。
雪が驚いたのはそれだけではなかった。白い生クリームがきらきらと光っているのだ。よく見ると金箔がちりばめられていた。断面図には三層のクリームがあり、どれにもびっしりと苺の断面が見える。きめ細かいスポンジはしっとりとおいしそうだった。
そして雪は価格を見て驚いた。
「二万!?」
「ユキさん、何かあったんすか」
雪の声に、若い男の声が続いた。ショーケースを兼ねたカウンターの後ろ、厨房の方からコック姿が現れた。低いコック帽の下にツンツンとした茶髪がのぞいている。きつい目付きでコックは男を見た。
「なんすか」
「カイくん、お客様よ。……このチラシのケーキ、作ってほしいんですって」
小柄な雪は海と並ぶと余計小さく見える。雪は黄色いかわいいエプロンに、長くまっすぐな黒髪を二つに束ね、愛らしい顔をした娘だった。そんな雪と並ぶとひどく人相が悪く見える海を見て、客である男は小さく身を縮めた。
「お……お願いします」
「は!?……いや、何言ってんすか。んなのムリっすよ。ねぇ、ユキさん!!小さいケーキ屋だからって、金さえ払えば何でもすると思ってんすよ。バカにするなっての。さあ、とっとと帰ってくれ。うちは小さいけど、ホテルの高級ケーキを真似しなきゃやってけないほどじゃねぇっすよ」
口を開いてすぐ、喧嘩腰で海はまくし立てた。雪も男も呆気にとられて海を見たが、男はかぶりを振ると紙きれに手を伸ばした。
「すいません……失礼なこと言いました」
落胆した男を雪は気の毒そうに見つめた。
「どうした」
厨房の方から低い声が響く。三人がそちらを見ると、海のものよりもずっと高いコック帽をかぶった、がっしりとした体型の男が立っていた。
「……お父さん。このお客様がこのチラシのケーキ、作ってほしいって」
雪はカウンターを出た。そして、大柄でごついコックを見てその迫力に驚き、身動きを止めた男の手からチラシを引き抜いた。ごついコックはそれを受けとり、視線を向けた。店内は甘い匂いにみちているのに、ひどく居心地の悪い時間だった。ごついコックがなかなか口を開かないので、男は身を強ばらせ、半ば上目遣いでごついコックを見上げる。
「……店長!!そんなの悩むことないっすよ!!さっさと断って下さいよ。ホテルの真似しろっておかしいじゃないすか。……どうせ二万も払えないから、安く似たようなの手に入れようって魂胆っす。この店バカにするヤツは許せないっすよ」
海が沈黙に耐えかねたように言った。店長と呼ばれたごついコックは返事をしない。
ショーケースの前で立つ男の横にいた雪は、何かに気づくと自分の父を見た。
「お父さん、作ってあげて」
海と男は驚いて雪を見た。
「ユキさん!?何言って──」
「分かった」
海の叫びを店長の静かな声が遮った。
「店長!?」
「うるさいぞ、海。雪の言葉が聞こえなかったか」
それを聞いて海は頭を抱えた。店長は一見いかつく、暴力団組長にも見えないこともない風貌を持つ。しかし愛娘のこととなると全くの別人に変貌する。いわゆる親バカというものだ──しかも極度の。だが本人はそのような自覚はなく、仮に指摘したとしても否定するだろうから、海はなす術がなかった。
「いつまでに作ればいいんだ」
憮然とした表情で店長は男を見た。男はところどころ白く汚れてはいるが、結構上品なコート着ていた。けれども風に乱れた髪や情けなく縮こまった姿は、ひどく滑稽に見えた。
「あ……あの、ありがとうございます……。出来れば今日の──」
「今日中!?突然やってきてそれかよ!!店長、ムリっすよ──」
「海。もう一度、はない。静かにしろ。……で、今日のいつだ」
店長の凄みのある声に、思わず口を挟んだ海は表情を凍らせた。男は恐縮しきった様子で答える。
「出来れば……六時までには……」
海はまた口を開こうとしたが、店長をちらりと見やり、力なくうなだれた。
「二時間半か……」
壁にかかった鳩時計の長針が、三時過ぎを指していた。店長はチラシを持ったまま男に背を向けた。
「まずスポンジで一時間だな。その後手伝えよ」
その言葉を残し、店長は厨房の奥へと消えて行った。海の苦々しげな舌打ちが、小さく響いた。
「はい、紅茶です」
「ああ……ありがとうございます」
「何でそんなやつ……そんなお客さんに茶なんか出すんすか、ユキさん!!」
広くはない店内の片隅に小さな喫茶スペースがある。三つ置かれたテーブルの一つに男が座っており、そこへ雪がティーポットを持って現れた。テーブルには既に小さなケーキが一つ置かれている。雪はティーポットをテーブルに置くと、自分も男の向かいの椅子に座った。それを視界にとらえた海はすぐさま飛んでくると、自分も椅子をとってテーブルを囲んだ。奇妙な正三角形が出来上がる。
「カイくんてば……。お客様はお客様でしょ。あ、失礼ですが、お名前は」
雪がやわらかな笑みを浮かべた。男は懐をさぐり財布を取り出すと、小さな紙片をその中から引き抜いた。
「幸野三太です、サチノサンタ。今年二十三になって、仕事は外資系に――」
「そこまで聞いてねぇ……聞いてないっすよ、サチノさん。ねぇ、ユキさん」
海は男――こと、三太の言葉を遮り、雪に笑顔を向ける。三太は海の態度の変わりように驚きながらも、微笑ましいな、とでもいうような優しい笑みを浮かべていた。
「サンタさん……いい名前ですね。プレゼント欲しいわ」
雪は海の言葉を気にも留めず、嬉しそうに名刺を見つめている。その様子を見た海は面白くなさそうに膝を組み、椅子にふんぞり返る。そこではたと思いだしたように三太を指差した。
「ユキさん、だいたい何でこんなヤツ……サチノさんの依頼受けたんすか。そりゃ爽やか系かも知れないけど特にかっこいいってわけじゃないし……なんか損した気分っすよ」
「いいえ。カイくん。だってサンタさんはあのケーキちゃんと買ってらっしゃったもの。ですよね?それで……どこかでダメにしちゃったんでしょ」
雪はにっこりとほほ笑んだ。海は一瞬それに見とれながらも、心の中では――名前で呼ぶなぁ!!――と悲痛な悲鳴を上げていた。けれどもそれには一向に気づかない様子で、雪はエプロンのポケットに名刺をしまう。
「な……何でわかったんですか。確かに僕、買ったんです。今朝早くから並んで、ちゃんと……。だけど急いで家に帰ろうとしていたら、人にぶつかって。箱が……」
悲しそうに視線を伏せる三太。それでも海は可哀想だなんて思いもしなかった。いい気味だ、とでも言いたげな表情をしたが、雪が三太に同情するのでそれを大袈裟に表わすことはしなかった。
「まずそのコート。せっかく上質なものなのに白くしちゃって……生クリームでしょ。私もよくやっちゃうんです。それでもだいぶ拭き取ったのかも知れないけど、ズボンの裾にもはねてますよ」
雪は小さく笑ってテーブルの下の足を見た。確かに黒のストライプスーツの裾に白い塊がいくつか付着している。
「さすがユキさんすね。けど、どうしてぶっ飛んだもので服汚れるんすか」
海は細く鋭い眉を少しひそめる。だが心配しているわけでも、本当にその質問の回答が気になっているわけでもなかった。雪の洞察力に感心しながらも、そんな細部までこの男のことを見ていたことにわずかながらも嫉妬していたのである。
「いや、その……慌てて箱拾いあげたんですよ。そしたらぼろぼろ……っと中から出てきて。道路に苺は散らばるし、服は生クリームまみれだし、散々でした。でもそんなことはいいんです。僕はどうしてもあのケーキ持って帰らなきゃいけなかったのに」
三太は大きくため息をついた。そして腕時計をちらりと見やる。乱れた髪を整え、少し落ち着いた様子の三太は十分魅力的な青年だった。温和そうな顔に、よい身なり。誠実そうな人柄。海は激しく気に食わなかった。何より気に食わないのが、自分の目の前で向き合う二人はなかなかお似合いなのである。
「誰かにプレゼントされるつもりだったんですか」
雪が首を少し傾けて聞く。三太は力なく頷いた。
「クララ――あ、僕の彼女なんですけど、今日一緒に食べようと思ってたんです。どうしても食べたい、って。あれじゃなきゃいやだって言ってきかなくって。限定五十個だから必死に買いに行ったのに、駄目にしちゃいました」
「クララ……かわいい名前ですね。いいなぁ、そうやって頑張ってくれる人」
雪が自分の紅茶をすすりながら、目を細めた。海はというと一層眉をひそめる。すでに深いしわが眉間に一本、縦にはしっていた。
「よくそんなワガママな彼女の言うこときくんすね。あんなバカ高いホテルのなんかより、うちのケーキの方がずっとおいしいっすよ。なんてったって元フランス一流ホテルのパティシエ、柊創が腕をかけてるんすから」
自慢げに言う海に対して雪はちょっと眉をひそめた。
「そんな言い方ってないでしょ、カイくん。あそこのケーキもおいしいわよ。それにお父さんの経歴話すのダメって言ったじゃない。お父さんは肩書きなしにこの"Berry wishes"で頑張っていこうって決めてるんだから」
三太は今更ながらにこの店の名を知った。そして目の前にある小ぶりだが、とてもおいしそうなショートケーキにフォークを伸ばす。一口食べて、驚いたように目をみはった。
「とっても……おいしいです。うわ、びっくりしたなぁ。僕本当はあまり甘いものとか好きじゃないんですけど……でもこの味すごい好きです。クララも喜んでくれるかな。ああ、そうだ、カイくん。クララは我がまま。それは確かだけど、それって僕のせいなんだよ」
――俺の名も呼ぶな!!
心の中で叫びながらも、三太がケーキを認めたことは嬉しかった。その飾り付けは俺がしたんだぞ、と言いかけて雪に自慢することを咎められるのを恐れ、口をつぐんだ。
「サンタさんの?」
雪が尋ねる。その顔はすごく嬉しそうだった。ケーキをほめられたのがとても嬉しいんだろう、と海は考えた。そう頭では分かっているのに、雪が自分以外の男に笑いかけるのは激しい苛立ちをもたらした。
「はい。僕、企業に勤めてるって言いましたよね。そこ給料はそんないいわけじゃないんですけど、すごくやりがいを感じられる場所なんです。本当に自分が好きで選んだ職場だから働くことが嬉しくて……僕にとって、仕事って一番なんです。クララのことも好きなんですけど、それでも仕事が絡むと没頭しちゃって、ついほっといてしまうんです」
三太は形のよい眉じりを下げ、悲しそうに言った。
「でもクララはそんな僕のことを責めたりしないんです。だけどこの間、デートすっぽかして……あの日、ちょうど重大な仕事が入って、どうしてもその日のうちに終わらせたくて。気づいて慌てたときには日付が変わってました。なのにクララ、待ち合わせ場所で待ってたんです。それで驚いたんですけど、嬉しくて駆け寄ったら思いきり平手打ちされました。で、あのケーキを買ってこい、と」
海は目の前の男をまじまじと見つめた。へらへらとした奴で、とても真面目に仕事し続けるようには思えなかった――少なくとも海の目では。
「しかし、そのクララって女、名前も変すけど、よくそんな待ってたっすね。しかもそれで別れないってサチノさん、その外人になんかすごいことでもしてるんすか」
「外国人?違うよ、カイくん。クララは日本人。名前も漢字で――」
三太は懐からペンを取り出すと、テーブルにあったナプキンにさらさらと字を書いた。
――久楽々。
確かに、漢字である。
「うへ、すごい珍しい名前っすね。っていうかその話だったらクララさん、別にワガママじゃないっすよね」
「素敵な名前ね」
海の疑問をよそに雪はナプキンに描かれた流麗な字に見入っている。いや、名前を見ているのだろうが、三太の字はそれだけでも価値ありそうな整った字だった。
「うん。それは僕が悪いし、だからケーキ買いに行ったんです。それじゃなくて……なんていうかな、僕も原因は分かってるんだけど、クララは高価なものを欲しがるんですよ。宝石やバッグ、家具、色々とね」
雪と海は驚いたように三太を見る。待ち合わせ場所でずっと健気に待っている女性とは、とてもつながりが見えなかった。あまりのイメージの変わりように二人とも顔を見合わせ、首を傾げる。それを見て三太はあいまいに微笑んだ。
「クララ、それを買ってやっても使うわけじゃないんですよ。ずっととっておいてあるんです。最初は無駄だな、って思ってたんですけど……。付き合い始めの頃はそんなことなかったんです。些細なことやものでもすごく喜んでくれて、だけど僕の仕事が忙しくなってからそんな風に。趣味が変わったのかな、って思ったこともあったんですけど」
三太はさびしげな微笑を浮かべ、雪と海の顔を見た。
「そうじゃないみたいなんです。最近は外食もフランス料理の一番高いフルコースとか行くんです。だけどクララ、ちっとも嬉しそうじゃないんです。自分で行きたがったのに、いかにもおいしくないー、って顔で必死に料理ほおばるんですよ。おいしくないの、って聞いたら首振るんですけどね。でもそのあとに喫茶店でデザート食べない、って聞いたら」
――どうしても食べたいなら……付き合ってあげてもいいわよ。
「って。いざ行ってみたら、フランス料理よりよっぽどおいしそうにパフェ食べてるんです。それで無理してるのかな、って」
三太が一度口を閉じると、雪と海はそれぞれ考えにふけった。久楽々は一体何を考え、そんな行動をとるのか。けれどいくら考えても二人ともその答えは見つからなかった。無言でじっと考え込む二人を見て、三太は苦笑しながら口を開いた。
「そんなに難しいことじゃなかったんです。クララも以前、一度僕を責めたことがあるんです。仕事ばっかりじゃなくて私のことも考えてよ、って。そんなにお金や仕事が大事なの、って聞かれました。でも僕お金に特別興味があるわけじゃないんですよ。だからそんなに欲しいわけじゃない。将来家を建てられるぐらいには欲しいけど、って答えました。そうするとクララはちょっと笑って、じゃあ今はそんなに困んないわね、って。そう言った直後ぐらいから少しずつ高いもの買うようになったんです」
長くしゃべったあと、三太は紅茶を飲んだ。ほどよい甘さに心地よい温かさ。普段はコーヒーや緑茶を好む三太にとって、嬉しい驚きだった。
そんな発見に喜ぶ三太に対し、雪と海は難しい顔をしていた。
「つまり……」
海が口を開いた。
「クララさん、サチノさんにかまって欲しかっただけなんすね。何をしてもかまってくれないならせめて、働いて貯めた金使ってやる、って感じで。でもそれって金なくなったサチノさんが余計仕事しちゃうだけなんじゃないすかね」
「そうだね。僕もそう考えたんです。でもクララ、なんだかぎりぎりの線読んでるみたいなんですよ。僕も幸い今はそれなりに稼げてる方なので……まあ毎日精一杯、彼女放って仕事してればこそなんですけどね」
「クララさん、素敵。サンタさん、もっと大切にしてあげなきゃダメですよ。でもクララさんのお願い聞いてケーキ買いに行くなんて、彼女もきっと喜びます」
「でもケーキなら他にも高いやついくらでもあるじゃないっすか。なんでわざわざあのケーキなんすか」
嬉しそうに微笑む雪とは逆に、海は機嫌悪そうにぼやいた。三太はそんな海を見てちょっと微笑んだ。
「うん……ああ、その待ち合わせほったらかしにしたせいで、ケーキを買うことになったんですけどね。あのケーキ買ってこなきゃ別れる、って言われまして。いや、それまでに別れ話は僕から何度も切り出してたんです」
「はい!?」
雪と海は同時にまじまじと三太を見た。こともなげに言った本人はあまり自覚していないようだが、彼の言葉は二人に衝撃を与えた。
「何度も別れ話、って……何でっすか。あんたの方がいろいろしてもらってんのに」
「だからなんですよ。だから、いつも大切にしてやってない自分が情けなくて、もっといい人が他にいるよ、って言ったんです。でもクララはいつも首を横に振るばかりで。彼女の友達にも別れてくれ、って何度も言われてるんです。可哀想だ、って。でも……。それで今回、彼女の方からそう言われて、本当は別れた方がいいんでしょうけど、いざクララから言われるとなんだか辛くて」
情けないです、と言って三太は表情を暗くした。
海は初めて目の前の男が哀れに思えた。なんて不器用な奴だろう、と。けれどほんの少し同情してやっても、たとえ彼女がいたとしても、雪になれなれしくするのは許せなかった。少しだけ態度を軟化させ、椅子に座りなおすと海は言った。
「でもつまり、あんた別れたくないんすよね。だったら頑張るしかないっすよ。それにうちの店長が作るケーキ食べて、クララさんが納得しないわけないっす。あんた、クララさんと結婚したいんでしょ、結局」
三太はぽかん、と口を開けて海を見た。そしてしばらくしたあと、少し頬を赤らめた。
「結婚……したいんでしょうかね、僕。よく分からないんです。クララを幸せにしてあげられる自信がないんです。でもクララがいなくなるのはさびしい。そうは言っても辛い思いはさせたくない。仕事に没頭してしまうのは本当に申し訳ないけど、いつも無我夢中になって……」
困ったように言う三太に、雪が声をかけた。
「サンタさん、大丈夫ですよ。クララさんもそれはきっと分かってます。だから責めたりしないんです。だからこそケーキ一つで許してくれるんですよ。クララさんもきっと結婚、望んでます。……あ、せっかくのクリスマスなんだから、指輪でもプレゼントしたらどうですか。サンタさんからのプレゼント、きっと喜びます」
雪の言葉に三太は驚く。その口が小さく"ゆびわ"と動く。おもむろに財布を取り出し、中身をちらと確認する。そして大きく嘆息した。
「三万円……クララにあげられるような指輪、買えそうにもありません。それによりによってこんな日にカードも忘れてしまったみたいですし。だいたい、迷惑だなんて思われたら嫌ですし、最近のクララの趣味もよく分かりませんし」
「指輪もらって喜ばない子はいないですよ。私だって嬉しいです」
雪が少しはにかんだ笑みを浮かべた。それを見た海は口の中で小さく舌打ちをした。
海の財布には十人の諭吉がいた。それはけして彼が金持ちだから、という理由ではない。今日"偶然に"持っていたのである。全くもって、誰かにプレゼントを買うためではない、と彼は心の中で何度も繰り返した。そして目的もない金なのだから、目の前の哀れな男に貸してやろう、と思う。だがその一方で、雪の恥ずかしそうな笑みがちらつき、つい自分が"プレゼント"したくなる衝動にもかられた。けれども結局、彼の理性が勝利した。
「貸してやりますよ。倍返しっすから」
海はポケットからブランド物の財布を取り出すと、乱暴に札を引き抜き、テーブルに叩きつけるように置いた。三太と雪はそれを目を白黒させながら見る。そっぽを向いた三太をちらりと見てから、雪は一万円が十枚もあるのに気付き驚いた。
「カイくん、十万円も……持ってたの?」
「何か買うつもりじゃなかったんですか」
三太の質問に海は噛みつくように答えた。
「そんなんじゃねぇ……ないっすよ。別に誰もプレゼント買うなんて言ってないっす。俺、あげる相手なんてそんな、いるわけじゃないし。だからあんたに貸すって言ってんすよ。男だったらしっかり決めろっての。道路挟んだ向かいにちょうど宝石店あるから、今から買ってくればいいじゃないっすか」
投げやりな言い方にこもるものに気付いた三太は、目を細めて海のコック帽をかぶった後頭部を見た。そして嬉しそうに微笑む。
「……ありがとうございます。倍、とはいきませんけど必ず返します。ああ、そうだ。ユキさん、一緒に見に行ってもらえますか。どんな指輪を女性が好むのか分からなくて……」
「え?」
十万を大事に財布にしまった三太は、雪に問いかけた。戸惑いながらも三太と久楽々の助けになるなら、と雪は頷きかけた。もちろん、それを黙って見過ごすわけにはいかなかったのは海である。
「ちょっと待て!!俺が行く」
「カイくんが?サンタさんと指輪見に?」
雪が大きな目をさらに見開いて、勢いよく立ちあがった海を見上げた。海はかぶっていたコック帽を椅子に置くと、三太のコートを引っ張った。
「そうっす。こう見えても俺、センスありますからね。ユキさんはいつも俺のデコレーションの腕見てるでしょ。もうすぐスポンジ出来るはずだから店長手伝ってやって下さい。こういうのはやっぱり指輪見なれた奴が行くべきっすから」
口早に告げる海に雪は首を傾げた。
「指輪、見なれてるの?」
海はそう尋ねられ、思いきり赤面した。そしてそれを隠すように背を向けて扉を開く。カウベルが楽しそうに、からん、ころん、と響いた。
「そういうわけじゃないっすけど、とにかく行ってきます。店任せました。あんた、ほら行くぞ」
三太はずりずりと海に引きずられていく。だが彼が浮かべた表情はけして不快そうなものではなく、むしろ嬉しそうに微笑んでいた。
二人を不審そうに見送ったあと、雪は厨房に足を運んだ。父親はちょうど焼きあがったスポンジをオーブンから取り出しているところだった。
「ああ、ごめんね、お父さん。手伝うわ」
「ああ。……話は聞いていた。なかなか大変そうだな、あの二人」
父親はふんわりと焼けたスポンジを置くと、冷蔵庫から苺を取り出した。
「生クリーム泡立ててくれ」
「わかったわ。でも、二人……?サンタさんと……カイくん?カイくんも大変なの?」
その質問に店長である父親は答えなかった。不思議に思いながらも雪はボールに生クリームをそそぎ、ほどよく砂糖を混ぜて泡立て始める。その音で雪に声が届かなくなった頃、父親は小さく呟いた。
「大変だろうと、まだ嫁にはやらん」
「いらっしゃいませ」
そう迎えられて、ひどく自分達が場違いだと海は気づいた。クリスマスともあって高級そうな宝石店の店内は、カップルばかりである。それなのに自分の横にたつのは男、そして自分も男であり、しかも服装はパティシエのそれのままだ。明らかに不審な二人ににこやかな笑みを浮かべた店員たちが、少し固まった気がした。
けれどもそんな空気に気づかないのか、三太は颯爽とショーケースに近づくと物色するように指輪を眺め始めた。海は嫌々ながらも、その傍へ寄る。
店員が笑顔をこわばらせながらも話しかけてきた。
「何かお探しでしょうか」
「指輪です」
三太はそう言いながらも視線はショーケースから外さない。その器用さに半ばあきれながらも、自分も少し見てみようかと海がケースに近づいた時だった。
「ご結婚なさるんですか」
バカ、何言ってるの。と他の店員が小さな声で叱咤するのは遅すぎた。
「ざけんじゃねぇ!!なんで俺がこんな野郎と結婚しなきゃなんねぇんだ!!」
海が憤慨し、激しく怒声を浴びせた。フロア中の客が驚いて振り返る。そしてびくびくと視線をそらした。三太はそんな海の袖を引っ張って、落ち着こうよ、と言う。
「冗談に決まってるじゃないですか、カイくん。そんな風に怒鳴っちゃ駄目ですよ。ごめんなさい」
やわらかな物腰で三太は店員に頭を下げた。それを見た店員は頬を赤らめながら首を振る。それを見た三太は、またケースに視線を戻した。
「被害者はこっちだっつーの」
海はぼやくように言った。しばらく指輪に見入っていた三太だったが、ふと視線を上げ、海を見た。
「やっぱりカイくんはユキさんの前と、そうでないのでは全然態度が違うんですね。失礼かも知れませんが、どういうご関係か聞いてもいいですか」
誰が、とはねつけようと思った海だったが、なんとなく口を開いた。別にこいつに話してやりたくなったわけじゃない、と海は自分に言い聞かせた。話してやりたいわけじゃないが、よく分からないその場の雰囲気が自分の口を開かせるんだ、と思った。
「俺、別に柊家の一員でも何でもねぇんだよ。……一年前のちょうどクリスマスの頃。親離婚して、色々うまくいかなくて俺だいぶキレててさ。何度も警察に捕まるようなことやったし、完全に不良ってやつだった。それから遊びだけど付き合ってた女に振られて、完全頭きて人ぶん殴りまくったんだ。暴行加えた、ってやつで。けどどんだけ殴っても気晴れねぇし、逆に苛々して……そんなときに"Berry wishes"にふらっと立ち寄った。理由なんてなかった。ただ、なんとなく。ケーキとか甘いもんなんて気持ち悪いと思っていたのに、だ。それで入ると笑顔で迎えてくれたのが……ユキさんだった」
海はショーケースに両手をつくと、小さく息をついた。三太は彼をじっと見守っている。――そして、店員もいつの間にか聞き入っていた。
「去年の俺は今じゃ信じらんねぇくらい荒れてて、伸ばしっぱなしの金髪に、ピアスじゃらじゃら開けて、だらしない学ラン着てさ――あ、俺高校一年ダブってる十九歳ね。眉もずっと薄くて、煙草くさくて最低な感じだったろうに、ユキさんは笑顔だった。いらっしゃいませ、ご注文は。って聞かれたけど、面倒で答えずに椅子に座った。明らかに迷惑な客なのにユキさんは笑って……あんたにしたみたいに、紅茶とケーキ出してくれたんだ。いらねぇ、って言う俺に、一口でいいから、って。結構タイプな女だと思ったし、なんでかわかんなかったけど苛立ちがいつの間にか消えてたんで、本当に一口だけ食べた。自分でも信じられなかったけど、めちゃくちゃうまかった。気付いたら全部食ってて……。で、はずいけど、泣いてた。わけわかんねぇけど泣いてた。それをユキさんは笑顔で見てた」
海はちらりと三太を見ると、口の端を釣り上げるだけの笑みを見せた。
「家出なんてしょっちゅうで、しかも親が離婚してごたごたしてたのをいいことに俺は本当に家を出た。それであの店に居候。これが俺とユキさんの関係。……納得かよ」
吐き捨てるように終えた海に、店員が拍手を送る。
「なんでてめぇが聞いてんだ!!」
海は思わず怒鳴ると、店員はびくりと一歩後ずさった。
「カイくん、せっかくいい話したあとなんですから、そんな風に怒鳴っちゃ駄目ですよ。彼女怯えてるじゃないですか。それより、いい話ついでにもう一つ聞きたいんですけど」
三太がにこりと笑む。海は激しく眉をひそめた。
「カイくんだったら、どの指輪をユキさんに買います?」
「ふっざけんな!!だから、誰がユキさんとけ……結婚なんて、まだ第一付き合ってすら……じゃなくて、なんでてめぇにんなこと言わなきゃなんねぇんだ!!」
店中の人間が海を一斉に見る。激しい剣幕で怒鳴る海を猛獣でも見るような視線で追ったあと、再びびくびくと一様に見なかったふりをした。
「カイくん、落ち着いてくださいって。だいたいカイくんが指輪選び手伝ってくれる、って言ったんじゃないですか。それなら意見聞くのも当然でしょう?」
三太が言うと、海は痛いところをつかれた、というように顔をしかめた。そして無言でショーケースを見渡すと、即座に一つの指輪を指した。
小さなダイヤが花を形作っており、小ぶりな、けれどもかわいらしい指輪だった。三太はそれを見てやわらかく微笑む。さっき食べたケーキみたいだな、とも思った。
「かわいらしいですね。ユキさんによく似合いそうです」
「だからなんでてめぇはユキさんと繋げるんだ。俺なりに選んだだけなんだから、いちいちそうやって繋げてんじゃねぇ。てめぇも気に入るならそれをさっさとクララに買えばいいじゃねぇか」
ぎろりと三太を睨むと、海はそっぽを向いた。くすり、と笑いながら三太は言った。
「いいえ。これだけは買わないことにします」
海は振り返ると、喧嘩売ってんのか、と三太の胸倉を掴んだ。お客様……と弱気な店員の声が響く。
「だってその指輪、あなたがいつかユキさんに買うべきものでしょう。クララに買うものとかぶるの嫌だったんです。お互い、大切な彼女にはたった一つのものあげたいでしょう」
余裕ぶった笑みは最初に見た三太のものとは大違いで、海は呆気にとられた。自然と手から力が抜けている。
「てめぇもだいぶ二重人格だな」
「いいえ。かなり気が動転していただけです」
そう言うと、三太は再びケースに目を戻した。そしてしばらくすると、一つの指輪を選んだ。
「これに決めます」
そう言って三太が指さしたのは、銀の輪に螺旋状にダイヤがはめこまれたものだった。
「十二万八千円です」
店員はそう言いながらケースから指輪を取り出す。
「花のもかわいいじゃねぇか」
面白くなさそうに呟く海に、三太は言った。
「そうですけど……値札見ました?」
言われて海は先ほど自分が選んだ指輪を見た。00000。五つの丸。……先ほど見たときよりゼロが一個増えていないか……海は目をこすってもう一度値札を見たが、やはりそれは三十万だった。
だまりこんだ海を横目に見ながら、三太は小さく微笑んだ。
「いつか、買ってあげて下さい。絶対に喜びますよ」
「言われなくても」
海の小さな呟きは、三太の耳には届かなかった。
からん、ころん。
カウベルが響いたのを耳にして、雪はカウンターから出てきた。
「お帰りなさい。買えましたか」
「はい」
嬉しそうに笑う三太を見て、雪も笑みを返した。なんとなく照れくさい海は、椅子に置いたコック帽をかぶると厨房に入って行った。 不思議そうにその背中を雪が見送る。
けれど海はすぐ戻ってきた。
「おい……じゃなかった。あんた、指輪ちょっと貸してくれないっすか」
海の変貌に忍び笑いを噛み殺しながら、三太は指輪の入った箱を海に手渡した。何の考えも持たずに渡してしまったが、海は何を思ったか指輪を中から取り出すと、それだけ持って厨房に戻って行く。
「ちょっと──」
慌てた三太は一歩厨房に近寄った。
「海。だからお前はどうしてそうやって俺のケーキに細工するんだ」
「まあまあ。面白いからいいじゃないっすか」
中から不思議な会話が聞こえる。雪と三太が中に入ると、スポンジを重ね、生クリームを塗る作業をする店長を海が"邪魔"していた。気づけば彼が持って行ったはずの指輪はない。
「海くん、指輪」
三太の声に海はにやりと笑って、ケーキを指差した。
「こん中っすよ」
「え!?カイくん何してるのよ。サンタさん困っちゃうじゃない。せっかくの指輪を」
雪が言うと、海は小さく笑った。
「たまにはこういうベタなのもいいかな、って思ったんすよ。どうせそいつはクララ……さんに指輪渡すときにためらうに決まってるじゃないすか。だったらケーキ食べたら入ってた!!って方がよっぽど感動的っす」
海の言葉に三太は苦笑した。雪はため息をつき、店長は黙々と作業を進める。あとはデコレーションだけであるようだった。
「海、プレート書いてくれ」
「はい……なんて書くんすか」
「……ベリーメリークリスマス、だ」
厨房の奥のやり取りを聞きながら、雪と三太はまたテーブルの所にいた。
「カイくん、本当に手先が器用なんですよ。別に今までなにかやってたってわけじゃないし、この店手伝ってくれるようになってまだ一年なのに……私、だいぶ追い越されちゃいました」
少し口を尖らせる雪に三太は笑った。そしてふと窓辺の写真たてに目を向けた。店長らしき男性と雪、そして綺麗な女性が一人写っていた。
「失礼ですが、お母様は」
「亡くなったんです、五年前に。……この店、本当はお母さんがすごく望んでいたものなんです。でも完成を待たずに逝ってしまって。私当時十五歳で、どうしていいか分からなくて……でもお父さんはホテルの仕事やめて、お母さんの気持ちを継ぐためにこの店を守ってるんです」
強い表情を浮かべる雪をまぶしそうに見た三太は、小さくかぶりを振った。
「ごめんなさい、悲しいこと思い出させました」
雪は優しく微笑んだ。
「いいえ。もう大丈夫です。それに……この店にいたらいつでもお母さんが見守っていてくれように感じるんです。なんてったって"Berry wishes"だし」 雪の言葉に三太が首を傾げた。
「その名前って……?」
「ああ。お母さんの名前、実果っていうんです。それで実果は果実、果実はベリー……っていう単純な。"願い"は父がつけたものですが」
「笑うところじゃないだろ」
雪が楽しそうに笑っていると、厨房から店長が現れた。その後ろには海が立っていた。
「お客さん、完成しましたよ。これでいいですか」
そう言いながら店長は大きな白い箱を三太の前に置いた。そっと開くと、ホテルのものほとんどそのままの──しかしどこか暖かみを感じるケーキがあった。三太はそれを見ると、すぐに立ち上がり店長の手を固く握って言った。
「すごい無理を言ったのに……本当にありがとうございました。こんな素晴らしいケーキを見たのは初めてです。実物を見た僕だから言いますけど、僕は向こうのケーキよりこちらの方がずっとおいしいと思います」
鳩時計が六時を告げる。時間ちょうどだった。
「礼は雪に言え。雪がいなかったらこんな仕事引き受けなかった」
店長はそう言うと、厨房の方へ姿を消した。
「包装しますね」
雪は箱を閉じると、大事そうにカウンターの裏へ持って行った。その背中を三太と海は見送ると、椅子に腰を下ろした。嬉しそうにしている三太を見て、海はコック帽をテーブルに置くと偉そうに言った。
「感謝しろよ、本当に。あんたのために仕事一日潰したんだから。うまくやらねぇとぶっ飛ばす」
視線は合わさず、早口で言った海が、三太は嬉しかった。けれど、どうしてもからかいたくなってしまい、海に顔を寄せると小声で囁いた。
「カイくん。もっと素直に生きないと、ユキさん逃げちゃいますよ」
言った途端に顔を赤らめて振り返り、海は怒鳴りかけた。
「ふっざけんなよ!!てめえに言われる筋合いは……」
言いかけて、海は動きを止める。
そしておそるおそるカウンターの方を見る。雪が笑顔で海を見ていた。どこか凄味のある、真顔よりもよほど怖いものだった。
「カイくん……サンタさんはお客様よ。仲いいのは悪くないけれど、もっと落ち着いてね」
「はい……」
海は力なくうなだれた。それを気の毒に思いながらも、三太は小声で海に話しかけた。
「ユキさん、カイくんの言葉づかいには驚かないんですね」
海は機嫌悪そうに頷き、腕を組んで答えた。
「当然っすよ。あの頃荒れまくってた俺を更正させたのは、ユキさんっすから」
呟くような言葉に、三太は小さく頷いた。
「はい。サンタさん、おまちどおさま」
雪が綺麗に包装された箱を紙袋に入れ、三太に手渡した。白い箱に淡いピンクと黄緑のリボンがかかっており、金色のシールが"Merry Christmas"の字を輝かせていた。それを見た三太は嬉しそうに笑って、一つお辞儀をした。
「本当にありがとうございました、ユキさん、カイくん。おかげで助かりました。僕、頑張ってきます……絶対にクララを逃したりはしませんから」
決意を新たに表情を引き締めた三太はかっこよかった。海は嫉妬をおぼえながら立ち上がり、三太の背を押して扉の方へと連れていく。そのあとを雪が追いかける。
からん、ころん。
カウベルがやわらかに鳴る。道に向かって大きく開けた扉を三太は一歩くぐり、雪と海を振りかえった。手には大事そうに紙袋を提げ、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。では、急いで帰ります」
「今度は誰かにぶつかっちゃダメですよ」
雪がほほ笑んだ。三太は恥ずかしそうに頷く。
「決めてこいよ、バカ野郎。……もう二度と来るなって感じっす。もし来てもなぐさめてなんかやらないっすよ」
海が三太を一瞥して言った。三太は深く頷いた。
「はい。カイくんも頑張って下さいね。――あの誓い、果たして下さい、きっと」
ふん、と鼻を鳴らすと海は店内へと戻って行く。慌てる雪と、海の背を見て三太はやわらかく笑った。
「では、失礼します。ユキさん、メリークリスマス」
「あ、サンタさん。メリークリスマス。頑張って下さいね」
三太は一つ頷くと、粉雪がちらつきはじめた道を歩いていく。少し肌寒い風に吹かれ、戸口で見送っていた雪も店へと戻った。
カウベルが一つ、からん、ころん。
「やべ!!」
雪が店内に戻ったとき、海が何か紙切れを手にして叫んだ。雪が近づいてその紙を見ると、三太が残していったあのケーキのチラシだった。
「どうしたの、カイくん」
不安そうに海を見上げると、雪はもう一度チラシをのぞきこんだ。何か失敗したのだろうか、と思う。でもあのケーキの見た目は完璧だったはずだ。
「ここ……」
海の震える指先が指したのは、ケーキに乗ったチョコのプレートだった。
「プレート?」
「はい……これ、"Very Merry Christmas..."って書いてあるじゃないすか」
雪はチラシをよく見て、確かに茶色のプレートに白の流麗な英語でそう書かれてあるのを確認する。
「そうね。でもカイくんの英語、いつも通り綺麗だったし、何の問題もなかったと思うけど」
「違うんす……やべぇ、俺ミスっちまったっす。ここ"Very"でドットは三つなのに……。俺いつも店名書くくせのせいで"Berry"って書いちゃったんすよ。ドットも一つ足りなかったし……うわぁ、クララさんにすぐばれるじゃないっすか」
海は頭を抱えた。テーブルに手をつき、落ち込んだ様子を見せる海の肩を叩き、雪は優しく声をかけた。
「大丈夫よ、カイくん。そんなに細かくは見ないわ、きっと。それに私……たぶんそれがなくてもクララさんは気づいちゃうと思うの」
「何でっすか。あんな完璧なのを店長は作ったのに」
すぐさま切り返す海に笑いかけ、雪はくるりと背を向けた。そしてそのまま口を開く。
「女の勘、ってやつよね」
海は間抜けた表情をしたあと、小さく笑った。
そして、本当に――本当に少しだけれど、三太が幸せになれればいい、と思った。
からん、ころん。
カウベルが明るい音をたてる。
「いらっしゃいま――サンタさん!!」
カウンターに立っていた雪は、扉から入ってきた客を見て嬉しそうに声を上げた。その声を聞きつけたのか、厨房から不機嫌そうな顔をした海が現れる。
――あれからまだ一か月しか経ってないじゃないか。あっさり振られやがって。
小さく舌打ちしながらカウンターに顔を出した海は、驚きに目をみはった。雪も口を押さえ、小さく息を呑む。
三太の後ろに小柄な女性が一人、寄り添うように立っていた。
「お久しぶりです、ユキさん、カイくん」
幸せそうにほほ笑む三太を見て、雪は不意に自分の涙腺がゆるむのを感じた。あの日はたった一日の出来事だったが、三太には深く同情し、あれから彼の恋の成就を祈り続けていた。
「んだよ、あんたもう帰ってきやがって」
海は不満げに言いながらもカウンターから出て、三太と女性の前に立った。その後ろを雪がついていき、同じように対面する。三太の後ろに立つ女性は栗色の巻き毛に、派手めなメイクをしていた。けれどきつい印象は受けず、ある雑誌の読者モデルに似ているな、と海は思った。
「それはごめんよ、カイくん。でも今日はどうしても頼みたいことがありまして」
そう言うと三太は隣に立った女性を見やり、少しほほ笑んだ。
そこで雪は一歩踏み出すと、その女性に手を差し伸べた。
「初めまして。柊雪です」
その言葉に女性はすらりとした腕を差し出し、雪の手をとって握手した。
「初めまして。臼井――違ったわ。幸野久楽々です」
照れたようにほほ笑む女性――クララは、とても幸せそうだった。雪はついにぽろぽろと泣き出した。
「良かったですね、サンタさん」
久楽々は雪の頭を二、三度優しく叩くと、海にも握手を求めた。
「初めまして」
「……どうも。那戸海っす」
不機嫌そうに三太を見やりながら言うと、久楽々は赤い紅をひいた唇を、にやりと歪めた。
「あなたがカイくんね。サンタによく聞きました。その節は――夫がお世話になりました。でも一つだけあなたに文句があるんです」
少し頬を膨らませ、眉をひそめて久楽々が言う。初対面なのに一体なんなんだ、と海が怪訝そうに相手を見ると、久楽々は左手を海の目の前に掲げた。その薬指にはきらきらと、あの日三太が選んだ指輪がきらめいていた。
「ああ、それっすか。それがちゃんとクララさんのもとに届いたのは俺のおかげだと思うんすけど。何でうらまれなきゃいけないんすか」
「あなたがケーキに入れてくれちゃったせいで、私思いっきり噛んじゃったのよ。おかげでダイヤが少し欠けちゃったの」
「はい!?」
海は大きく目を見開く。
――ダイヤが欠けた、って……。それ悪いの俺じゃなくて、明らかに硬過ぎるあんたの歯なんじゃ……。
言いかけて、三太の目が笑っていないのに気付いてやめた。彼もその光景を目の当たりにして、恐ろしい思いをしたのだろうか。けれど、何も言うな、とその視線が海に訴えかけていた。
「す……すんません」
やっと声を振り絞ると、久楽々は小さく笑った。
「まあ、いいわよ。それより今日のお願いっていうのはね」
「ウェディングケーキ、お願いしたいんです」
久楽々の言葉を三太が継ぐ。
雪と海は同時に顔を見合わせ、驚いたように目の前の二人を見た。
「私、あのケーキがホテルのものじゃないってことはすぐ分かったのよ。でも本当にそっくりで、それを用意してくれたサンタの気持ちが嬉しくて。しかもあの日本当は大事な会議があったのに、それをそっちのけで頑張ってくれたと思ったら、全部許せちゃって。あれから一か月だけど、ずっと一緒にいたいな、って思ったの」
頬を赤らめ、少し視線を伏せて久楽々が言った。
「それでウェディングケーキはぜひ、ここにお願いしたいなって思って」
三太が幸せそうな笑みを浮かべる。
「でも……そんな大きなもの、お父さん作れるかしら」
心配そうに雪は厨房の方を見やった。そんな彼女に久楽々が優しく言う。
「いいのよ、大きくなくても。私、もうお金がかかったものはいらないの。サンタが私を見ていてくれるなら、本当はお金なんていらなかったわ、ずっと。だからケーキは本当に素敵なものなら、どれほど小さくても構わないの」
そう言ってほほ笑む彼女は妖艶で、ものすごく美しかった。幸せそうなその笑みに、雪も自然と笑顔を返した。
「ご注文、承りました」
雪が静かに頭を下げる。
「おいおい、ユキさん。店長に確認しなくていいんすか」
「うん。私が言えばお父さん、ダメとは言わないもの」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて言う雪に、海はかなわないな、呟いた。そんな二人を見て、三太と久楽々は笑みを交わす。
「じゃあカイくん、十万円、本当にありがとう」
おもむろに取り出した封筒を三太は海に渡した。それを見て海は慌てて久楽々を見る。
「こんなところで返してもいいんすか」
「ええ。この人、あったことは全部話してくれたもの。私本当にあなたたちに感謝しているのよ。今まで仕事に没頭したらなかなか相手してくれなかったサンタが、目の前に紅茶を置いたら一休みするようになったの。私本当にびっくりして――ケーキも食べてくれるようになったし。私すごく幸せなのよ」
なんだか犬でもしつけているような言い方に、雪はくすりと笑った。そんな雪を見て、久楽々は海の耳元に口を寄せた。
「カイくんもしっかりしないと、こんなにユキちゃんかわいいなら、誰かにとられちゃうかもしれないわよ」
「だからっ!!あんたがた二人はなんでそうおせっかい――……ええと、ご忠告ありがとうございます……」
怒鳴りかけた海を久楽々が冷ややかに見つめ、三太がその肩を押しとどめ、雪が不思議そうに見つめた。無理やり鎮められた海は面白くなさそうにそっぽを向いた。
「じゃあ詳しい話はあらためてしにくるわ。今日は一緒にデートなの」
そう言って久楽々は三太の腕に抱きついた。三太は嬉しそうに彼女の顔を見る。
海は大きく舌打ちしようとしたが、横で雪が小さく
「いいなぁ」
と言ったのを聞き逃しはしなかった。
「それじゃあ今日のところは失礼します。元気そうでよかったよ。ウェディングケーキ、よろしくお願いしますね」
三太が言った。
「はい」
雪が頷く。
そして三太と久楽々は先ほど入ってきた扉の前へと立った。雪と海は見送りに出る。扉を開いた外は道路が一面真っ白に染まっており、やわらかなぼたん雪が降る街は静かだった。久楽々は赤い傘を大きく広げ、それを三太に手渡した。三太はそれを掲げると雪達の方へ向き直った。
「では、失礼します。また近いうちに来ますね」
「またね」
久楽々がほほ笑んだ。
「はい。またお会いしましょう」
雪が小さく手を振る。海はポケットに手を突っ込むと、つっけんどんに言った。
「勝手にお幸せに、っす」
それを見た久楽々はにやりと海に笑いかけた。
「カイくん、英語の間違いには注意ね。大事なところでミスっちゃうと、大事な彼女逃すわよ。サンタはぎりぎり間に合ったみたいだけどね」
美しいその笑みに海は赤面した。見惚れたとかいうものではない。
――この女にも話しやがったのか、三太の野郎。しかも俺のミスに気付いてんじゃねぇか。
苦々しげに顔を歪める海に、三太と久楽々が手を振った。
「Berry Merry Christmas!!」