宙を翔ける者 第三章 勃発
6月27日午後8時
喫茶店「月光」は、大西第三大学から徒歩10分程の距離にある。この時間帯は、客もそこそこ入っており、八割は席が埋まっている状態だった。諸岡と佳恵は、一番端の、最もレジから遠い席に向かい合って座っていた。
「諸岡さん、あなたはあたしのこと買い被り過ぎなんじゃない?あのおっさんがあたしの言うこと聞くわけないじゃない」
佳恵はテーブルに頬杖をつきながら言った。
「買い被ってなんかいない。そもそも、須藤は橋川さんと仲がいいんだからこそ君に頼んでいるんだ」
諸岡はホットコーヒーの入ったカップを片手に持って言った。さっきからずっとカップを持っているが、まだ一口も飲んでいない。
「あの頑固じじいがそんな話に乗るとは思えないけどねえ…」
佳恵はロイヤルミルクティーを飲んだ。彼女はロイヤルミルクティーが大好きである。
「いやあ、この味は何度飲んでも飽きないわ」
「まず、部外者にこの話を持ち掛ける時点で、俺は一か八かの大博打に出てるようなもんだ。もしJAXAの機密情報をだだ漏れさせていることがJAXAにばれたら、ただじゃ済まない。だからこそ、君に首を縦に振ってもらわないと困る」
「よくもまあ、あたしが承諾することを無条件に前提としてこんなことをしに来たわね。機密情報を漏らしてるのは諸岡さんの独断でしょ?あたしには関係ないわ」
「どうしてそんなに嫌がる。橋川さんのことがそんなに嫌いなのか?」
橋川さんとは、警視庁捜査一課警部橋川知則 (はしかわ とものり) のことで、佳恵の叔父に当たる。彼と佳恵がどれほど親しいのかは諸岡も把握していないが、二人が話しているところは以前何度か見たことがある。
「別に嫌いってわけじゃないけどさ。今は学園祭の準備で忙しいの。率直に言うと、面倒だわ」
「日本の宇宙開発事業と君の大学の学園祭を天秤にかけたら、学園祭の方が優先になるのか」
「そうよ、宇宙開発なんてあたしにはなんの関係もないじゃない。それに、仮にその時限爆弾とやらの話が本当だったとしても、叔父は捜査一課の人間よ。捜査一課って何するところか知ってる?殺人事件とかを扱う部署よ。叔父がそれを快諾してくれたとしても、どうすることも出来ないわよ、多分」
というのは、今諸岡と佳恵が話し合っているのは、例の脅迫状の件についてで、橋川を通じて非公開で警視庁にこの件を対処してくれるよう頼んでほしい、というのが諸岡の話だった。つまり、佳恵に橋川にこのことを頼んでほしい、ということだ。それに佳恵は難色を示した。そもそも佳恵は脅迫状の件を信じているかどうかも危うい。
「どうしても嫌なのか」
諸岡はやっとコーヒーを一口飲んで言った。
「嫌というか、無駄な気がするから」
「まあ確実とは言えないだろうけど、今回の事件は下手すれば国際事件に発展するかもしれない。既にこちらは内閣府にこのことを伝えるかを検討している」
「じゃあ全て内閣府に任せればいいじゃん」
「そうもいかないんだよ。内閣府も暇じゃない」
「ていうか、どうしてそんなにこのことを公にするのを嫌がるの?」
「それはこっちの都合だ。それより、橋川さんのことを頼む。な、お願いだ」
諸岡はテーブルに両手をついて頭を下げた。
「まあ別にそこまで言うならいいけど……期待はしないでよ」
佳恵は少し困惑した表情で言った。
なぜ諸岡がここまで必死なのかが気になるのであろう。
「でも、最悪のケースも考えておいてね」
佳恵が言った。
「…何が?」
「諸岡さんは叔父にこのことを話したら、協力してくれるか、してくれないかとニ択だとおもってるでしょ。でもそうじゃないの。もしかしたら、叔父はそれを警視庁の署長に言うかもしれない。まあ口で言っただけじゃ信憑性の低い話かもしれないけど、万が一そうなれば、内密に収束どころじゃなくなるかもしれないからね。その上、諸岡さんが無断で機密情報を部外者に漏らしたこともJAXAには秘密にしておかなきゃいけないんでしょ。あたしから言わせてもらうと、不可能に近いわよ」
「そんなことはわかってる」
「本当に、危ない賭けね。どうなっても知らないから、あたし」
「ああ、結果がどうであろうと、須藤に責任を回すつもりはない」
「当然よ」
佳恵はふんと鼻を鳴らした。
どうしてこんなに嫌がるのだろう、と諸岡は思った。さっきは面倒だから、と流していたが、とてもそうには見えない。何か隠しているように見える。佳恵の顔を凝視していると、彼女はそれに気付いて、怪訝な表情を作った。
「何?あたしの顔に何かついてる?」
「顔を見られると女性は決まってそう言うよな。決まり文句ってやつだ」
今度は諸岡が鼻を鳴らした。
「どうでもいいけど、もうこれで話は終わり?あたし、早く学園祭の準備に戻りたいんだけど」
「随分学園祭が気になるんだな」
「当然よ。あんな軟弱で草食系でヘタレで不器用な男どもに任せてたら千年経っても準備なんて出来っこないわよ」
「君の後輩かい?」
「そうよ。それはいいとして、もういい?」
「いや、最後に一つだけ」
諸岡はそう言うと、カップのコーヒーをぐいっと一気に飲み干した。
「何?」
立ち上がりかけていた佳恵は、もう一度座ろうとした。
だが諸岡は、佳恵が座り直す前に言葉を放った。
「これで借りはまだ全部じゃないからな」
佳恵は仏頂面になった。
「わかってるわよ」
佳恵は無愛想に言い放つと、スポーツバッグを肩に担いだ。彼女は常にこのスポーツバッグを持っている。何故かは知らない。
「諸岡さんが出してくれる?こういう展開では、男が払うのが普通だから」
佳恵が言った。代金のことだろう。
だが諸岡はそれには答えずに、こう言った。
「期待してるぞ」
佳恵は表情を変えず、
「期待するなって言ったじゃない」
と言った。
まったく、この女はあの借りのことに少しでも話が触れると不機嫌になる。
諸岡は佳恵に続いて立ち上がり、スーツケースを持つと、テーブルの上に置いてある伝票を掴んだ。
午後9時40分
勝浦宇宙通信所前。一台のライトバンから三人の男が降りた。全員スーツで身を包んでおり、夜の闇に溶け込んでいるようだ。一人は大きなキャリーバッグを持っている。
「サワマツさん、最初はここですか?」
男の一人がサワマツという男性に聞いた。
「ボスが最初に指定してきた場所はここだ。さっさとやるぞ」
サワマツと呼ばれた男性は早口で言った。
「はい」
そう言ってもう片方の男が、キャリーバッグを開けて大きな黒い塊を取り出した。
「では、やります」
「なるべく速やかに終わらせろ。それに……」
サワマツと呼ばれた男は一旦言葉を切り、こう言った。
「誤爆させるなよ」
今回はすこし短く感じた方もいるかもしれません。本文の長さは毎回コロコロ変わると思うので、その辺はご了承ください。