第2話
まさか、いきなり飲んでみる、という事はしない。そんな冒険は死ぬ時にしよう。
僕は、そのビンを押入れの中の収納ボックスに隠した。とりあえず隠した。また後で、ゆっくり考えよう。先に朝練の準備をして学校へ行かなくちゃ。
原田たいら、中学2年生。テニス部の王子様でも何でもない、普通の部員だ。朝練、すなわち朝の練習へ出かける前に、妹や親たちにさりげなくあのビンの事を尋ねてみたが、みんな知らないと言う。
やはり闇の世界から来た代物なのだ。にわかには信じられないが、ビンは本物だ。なぜ、それがそこにあるのか、説明がつかない。
「行ってきます」僕は押入れのビンにはそれ以降、触れる事もなく。中学2年生という残り半年が過ぎて行った。
中学3年生の春。今年から『受験』というキーワードに、段々と敏感になってくる。そんな矢先、クラスメイトの田島が僕に声をかけてきた。
「原田。ちょっと来いよ」
田島は僕より背が高く、大きい。バスケ部でレギュラーだ。そういえば前、女子の着替えをノゾキ事件で連行されたと校内の噂で聞いた事がある。連中はグループを作っているわけだが、たぶん田島がボスだ。田島の周りには常に数人の男子生徒が集まっている。
そんな田島が、僕に何の用?
僕は呼び出され、田島の後ろについて行った。着いた先は、体育館の裏。
体育館の裏……。
まさか、とは思ったけど、そこには先客の男子が3人居た。違うクラスの奴も居て、田島と合わせて4人。彼らと数メートル距離を置き、僕は立ち止まる。
田島たちは僕をジロジロと舐めるように見て、少しニヤついていた。そして1人が言う。
「ちょっと、金貸して」
トンカツ……じゃない、カツアゲだ。さっきから思っていた「まさか」は、ズバリ的中した。
「何で、嫌だ」
相手は4人。力で勝てるわけがない。分かっていても、退かなかった。
「優等生くう〜ん」
誰か1人が、そう甘い声を出した。「生意気だね。おしおきが必要?」
さっき即、口答えをしたのがまずかったのかもしれないのか? それとも金より、単にうっぷんを晴らしたかっただけなのか。
僕はその後、ボコボコにされてしまった。
抵抗はしたけど、所詮ムダだったようだ。僕が気を失う寸前、田島が笑った。
「次、呼び出すまで金、また準備しておけよ。先生とかにチクッたら、家燃やすからな」
僕の学生カバンから、財布を取り出し札だけを抜きとっていた。朦朧としていた意識の中で、田島の笑いだけが頭に響いていた。
先生とかにチクると家を燃やすぞ、と……。
言いやがったな。やってみろや。
……と、どっかの自分が虚勢を張っている。だが実際は、田島の笑い声が僕を取り囲み。先生にチクるなんて事、恐ろしくてできない。できなかったのだ。
……それ以来、僕の不幸は始まった。
体中にできたアザを隠し、例え親に気づかれても「ちょっと部活中ドジっちゃって」と笑ってゴマカし、後日アザが治りかけた頃にまた田島に呼び出され。
今度は、バスケのゴールにされた。
両腕で円の形を作り、その中に田島たちがボールをシュートしていくわけだが。もちろんわざとだ。ボールはほとんど僕の顔や足などに当てる。
僕が痛さや辛さで泣き出すと、グループの1人が「金払えば勘弁してやるよ」と言った。
僕は怯えた手で、財布から2千円を出した。これは今度『探偵花園カレンQ』という単行本やグッズを買うためにとっておいたお金だ。
奴らは素早く取ると、「じゃあな。また頼むわ」と談笑しながら去って行った。
……さようなら、カレンちゃん……。
涙がポタリと落ちた、と思ったら、地面に落ちたのは口から切れて出た血だった。
さすがに、帰宅したら母が聞いてきた。「顔が腫れてるわ。学校で何かあったの?」
僕は笑いながら、「さっきそこで自転車ごと転んじゃって。……湿布とか、ある?」と返した。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
5歳年下の妹が、階段から下りて来て僕の顔を見た。
可愛いやつめ。怪しい意味では、ない。
「何もないよ。ちょっとドジっただけ。そうだ母さん。こないだの模試の結果が出たんだ」
僕がカバンから出した結果表を母に渡すと、母は段々ニコニコと顔がほころんだ。
「また学年トップ? 偉いわ、たいらちゃん。この調子で頑張ってね」
「うん。さて、塾に行かないと」
……これでいい。今の僕は受験に集中だ。母さんの機嫌をとって、妹の面倒もみる。そんな中学、3年生。明日も中学3年生。
……たかだか、中学3年生だ。……いつまでも我慢が続くわけが、なかった。
幾度も田島に呼び出され、いじめを受け、金を取られ、先生や親の目をゴマカし、勉強を続け、妹の前では兄らしく振る舞い……。
限界だ。
もう生きていたくない……。
爆発しそうな心身をとどめる事が、呼吸困難になってきていた。
しかも、机に向かってイスに座りっぱなしがたたったのか、尻から血が出てきた。切れ痔というやつだ。
熱く、辛く、苦しい、痔……。
もうたくさんだ。
いっそ、シニ……。
……。
……。
……その時。頭の中の片隅に、置き去りにされていたキーワードが思い起こされた。
『何かにきく薬。まさかいきなり飲んでみる、という事はしない。そんな冒険は』
僕は、部屋の押入れをガラッと開けた。
『死ぬ時にしよう』
確か、この収納ボックスにしまったはず。
『死ぬ時に』……
ガサゴソ。あった。このビンだ。中身は透明なままだな。
引っ張り出してきた記憶の中のビンが今、手にあった。勢いでフタをねじって開ける。中は無色無臭だ。ただの水に見える。いや、本当はただの水じゃないのか?
ゴクリ。
息を呑む。緊張が走る。
猛毒だったら、どうしよう? 苦しむのではないだろうか? ……それは嫌だ!
「……田島にこれ以上、苦しめられるくらいなら」
どうせ死ぬのなら。
……賭けに出よう。
……僕は、ゆっくりと、その液体を飲んでいった。
《第3話へ続く》