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渇きのはじまり


距離を取れば、

静かになると思っていた。


期待も、ざわめきも、

時間と一緒に薄れていくはずだった。


けれど現実は逆だった。


見ないようにするほど、

意識はそこへ向かう。


聞かないようにするほど、

遠くの気配に敏くなる。


彼女が笑ったのか。

誰と話しているのか。


――関係ない。


何度もそう言い聞かせる。


それでも、


昼休み、姿が見えないだけで

胸がわずかに沈む。


退勤間際、

今日は顔を見ていないと気づいた瞬間、

理由のない焦りが生まれる。


距離を取ったのは、

自分のはずなのに。


望んだ静けさの中で、

心だけが落ち着かない。


それはまるで、

水を断ったあとに知る渇きに似ていた。


求めていないはずなのに、

失って初めて知る感覚。


彼は薄く気づき始めていた。


これは、

消えていく感情ではない。


むしろ――

距離の中で形を持ち始めている。


けれど、

その名を考える前に思考を止める。


認めてしまえば、

戻れなくなる気がした。


だから何も気づかないふりをする。


昨日よりも、

少しだけ不器用に。




一方で彼女は、

小さな変化に気づいていた。


挨拶のわずかな遅れ。

減った視線。

言葉の温度。


決定的ではない。

けれど確かに、昨日とは違う。


普通なら、

理由を自分に向けるのかもしれない。


けれど彼女の思考は、

そこへは進まなかった。


思い当たることがないからだ。


だから結論は、

静かな場所に落ちる。


――何か、あったのかな。


責めない。

決めつけない。


ただ少しだけ、

やわらかな心配が残る。


彼女は距離を変えない。


近づきもしない。

遠ざかりもしない。


同じ場所に、

同じ温度で立ち続ける。


必要なときは声をかけ、

不要なときはそっとしておく。


特別なことは、何もしない。


けれどその「何もしなさ」は、

静かな強さを持っていた。


揺れない距離。

変わらないまなざし。


それはまるで、

彼の内側が揺れても、

世界は急には壊れないと

示しているようだった。


そしてその在り方は、

彼の渇きを、

さらに深くしていく。


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