不器用な一歩
共同作業が終わってからも、
彼の中には
小さな余韻が残っていた。
理由は分かっている。
分かっているのに、
言葉にならない。
ただ一つ、
前よりはっきりしてきたことがある。
――もっと知りたい。
その感覚に気づいたとき、
彼は少し戸惑った。
知ることは、
距離を近づけることだから。
けれど、
胸の奥の温度は
それを否定しなかった。
数日、
何もできないまま過ぎる。
声をかける理由を探して、
見つからずに終わる。
そんな時間が続いた。
ある日の午後。
彼女が一人で
資料を整えていた。
周りに人はいない。
静かな空気。
今なら――
そう思った瞬間、
心臓がわずかに強く打つ。
行くのか。
やめるのか。
短い迷いのあと、
彼は立ち上がっていた。
一歩。
また一歩。
まだ引き返せる距離を越えて、
机の前で止まる。
「……あの」
彼女が顔を上げる。
いつもと同じ、
静かな表情。
それだけで、
胸の奥が揺れる。
用意していた言葉は消えていた。
代わりに出てきたのは、
考えていなかった本音。
「なんで……
いつもそんなにきちんとしているんですか。」
褒めたつもりだった。
けれど、そうは聞こえなかったかもしれない。
言ったあとで、後悔する。
自分でも少し驚く。
もっと違う聞き方があったはずなのに。
彼女は一瞬だけ目を丸くした。
「きちんとしてますか?」
わずかな沈黙。
――なんで、そんなことを聞くんだろう。
その戸惑いが、
ほんの少しだけ表情をよぎる。
けれどすぐに、
いつもの静けさに戻る。
「特別な理由はないですよ。
ちゃんとしてないと、
自分が落ち着かないだけです。」
さらっと言う。
大げさでもなく、
照れもなく。
その自然さが、
彼の胸に残る。
短い沈黙。
けれど今回は、
逃げたくならない。
むしろ――
もう少しここにいたいと思った。
その感覚に、
彼自身がいちばん驚いていた。
視線が、資料の束に落ちる。
言葉を探すより先に、
口が動いた。
「……何か、手伝いましょうか。」
言ってから、
引き返せないことに気づく。
彼女は少し驚いたように目を瞬き、
それから柔らかく笑った。
「いいんですか?」
「はい。」
短く答える。
それ以上考えたら、
きっと言えなくなる気がした。
「ありがとうございます。本当に助かりました。」
その言葉は、思っていたより丁寧で、まっすぐだった。
胸の奥に、小さく灯りがともる。
――こんなに、きちんとお礼を言うんだ。
彼はうなずくだけのつもりだった。
それなのに、口が先に動く。
「いえ……ちょうど手が空いてたので。
こういう整理、嫌いじゃないです。」
少しだけ言い訳めいている。
彼女は気づかないふうに笑った。
「向いてますよね。すごくきれいで、びっくりしました。」
「そうですか。」
「はい。私、けっこう雑なので。」
「そんなふうには見えないですけど。」
言ってから、心臓がわずかに跳ねる。
余計だったかもしれない。
けれど彼女は首をかしげただけだった。
「そうですか? たぶん、外側だけですよ。」
くすっと笑う。
その軽さにつられて、彼も少し笑ってしまう。
――あ、今、普通に話している。
不思議だった。
緊張はあるのに、
逃げたい感じはない。
むしろ、もう少し続けばいいと思っている。
この時間は、
思っていたより心地いい。
ただそれだけのことが、
なぜか少し、怖い。
理由はまだ、
わからないまま。




