沈まない温度
彼の距離が、
わずかに変わったことに
彼女は気づいていた。
冷たくなった、
というほどではない。
ただ少しだけ遠い。
それだけの違い。
けれど彼女は、
そういう小さな変化を
見過ごさない人だった。
嫌われた、とは思わない。
何かをした覚えもない。
そもそも、
まだ何も始まっていない。
だから胸は痛まない。
感情も揺れない。
ただ一つ、
静かな疑問だけが残る。
どうしてだろう。
責める響きのない、
ただの問い。
答えを急ぐわけでもなく、
意味を決めつけるでもなく、
そのまま手のひらに乗せて
眺めているような感覚。
彼は今日も、
きちんと仕事をしている。
言葉も交わす。
態度も変わらない。
それなのに――
どこかだけが遠い。
目に見えない距離。
彼女はその存在を、
静かに確かめていた。
不思議だと思う。
少しだけ、気になる。
けれどそれ以上の
名前はまだ持たない。
ただ、
心のどこかに
小さな問いが置かれただけだった。
日々は、
また同じ速さで流れていった。
特別な出来事は何もない。
距離も、
言葉の数も、
以前と変わらない。
彼女は変わらず、
必要なときだけ声をかけ、
それ以上は踏み込まない。
近づきもしないし、
離れもしない。
ただ、
そこにいる。
その在り方は、
驚くほど静かで、
揺れがなかった。
彼は最初、
その静けさを警戒していた。
次に何かが起こるのではないか。
期待が形になるのではないか。
いずれ失うのではないか。
けれど――
何も起きない。
一日が過ぎ、
また一日が過ぎても、
世界は同じ形を保っている。
胸の奥で張りつめていたものが、
気づかないほど少しずつ緩んでいく。
気づかないほど、
ゆっくりと。
ある日の午後、
ふとした瞬間に
彼は思う。
ああ、
大丈夫なのかもしれない。
根拠はない。
約束もない。
それでも、
そう感じてしまった。
その瞬間、
長く沈めていた感覚が、
ごく小さく水面に触れる。
温度。
名前をつける前の、
やわらかな揺れ。
彼は息を止めるように、
その感覚を見つめる。
逃げるべきか、
閉じるべきか、
判断しようとして
できない。
消そうとしても、
もう沈まない。
代わりに胸の奥へ、
静かに広がっていく。
それは痛みではなく、
恐れでもなく、
けれど――
覚えのある温度だった。
気づいた瞬間、
時間がわずかに止まる。
こんな感覚を、
まだ持っていたのかと
彼は少しだけ驚く。
そして同時に、
どうして今なのかと
戸惑う。
視線を上げる。
遠くない場所に、
彼女がいる。
何も知らないまま、
いつも通りに。
ただ、
そこに在るだけで。
胸の奥が、
もう一度だけ
静かに揺れた。
彼はまだ、
その意味を言葉にできない。
けれど確かに、
何かが始まっていた。




