戻れない逃げ場所
翌日も、
その次の日も、
二人は同じ店でコーヒーを飲んだ。
特別な約束はない。
時間も決めていない。
それでも不思議と、
どちらかが先に着き、
もう一人があとから扉を開ける。
最初から決まっていたみたいに。
会話は多くない。
仕事のこと。
天気のこと。
どうでもいい小さな話。
ときどき沈黙が落ちる。
けれどそれは、
以前のような気まずさではなかった。
一緒にいられる静けさ。
ただそれだけで満ちる時間。
彼は戸惑っていた。
こんな時間を、
自分が受け取っていいのか分からない。
壊れる前提で生きてきた。
失う前提で距離を取ってきた。
なのに今は、何も壊れていない。
それどころか――
少しずつ、満たされている。
それが怖い。
幸せに近づくほど、
失う未来が鮮明になる。
笑った分だけ、
あとで痛む気がする。
温かさに触れるほど、
消えたときの冷たさを想像してしまう。
(もう、戻れない)
ふと、胸をよぎる。
彼女を知らなかった頃の
静かな孤独には。
何も感じないふりをしていた場所には。
それは希望ではなく、
新しい種類の恐怖だった。
彼女は、その変化を言葉にしない。
彼の視線が、以前より長く留まること。
沈黙のあと、呼吸が深くなること。
笑う回数が、少しずつ増えていること。
全部、分かっている。
嬉しい。
けれど同時に知っている。
ここから先が、
いちばん壊れやすい場所だと。
近づきすぎれば、彼は逃げる。
離れすぎれば、彼は戻らない。
だから何も変えない。
同じ距離。
同じ声。
同じ朝。
それを、静かに守る。
ある朝。
コーヒーを飲み終える時間になっても、
彼は立ち上がらなかった。
カップの底を見つめたまま、
わずかに息を止めている。
胸の奥で何かが揺れている。
言葉になる前の感情。
このまま穏やかに続けば、
きっと幸せになってしまう。
それが怖い。
――それでも。
壊れる未来より、
彼女がいない未来のほうが
少しだけ怖くなっている。
その事実に、
彼はまだ気づかないふりをしていた。




