怖い、と言えた夜
変化に気づいてからも、
彼はしばらく何もできなかった。
声をかけようとして、やめる。
理由を探そうとして、目を逸らす。
これまでと同じように振る舞えば、
きっと何も壊れない。
そう思っていたのに――
何も壊さないまま、
大切なものだけが遠ざかっていく気配があった。
ある日の帰り際。
職場の灯りは半分ほど落ちている。
彼女は静かな手つきで机を整えていた。
その横顔は穏やかで、優しくて、
そして――少しだけ遠い。
このまま何も言わなければ、
今日も終わる。
昨日と同じように。
きっと明日も同じように。
何も起こさないまま、
すべてが終わってしまう気がした。
怖かった。
言葉にすれば、戻れない。
拒まれるかもしれない。
困らせるかもしれない。
何より――
自分にはその資格がないと、
ずっと思ってきた。
それでも。
彼女のいない未来を想像した瞬間、
胸の奥で何かが崩れた。
守ってきた殻ではなく、
閉じ込めていた本音のほうが。
気づけば、
彼は一歩近づいていた。
ほんの一歩。
それでも、越えられなかった距離だった。
「……少し、いいですか?」
たったそれだけの一言。
けれどそれは、
恐れよりも失う怖さを選んだ瞬間だった。
「……前より、あんまり話さなくなったなって。」
遠回りな言葉。
本当は違う。
でもいきなり核心には触れられない。
それが彼の精一杯だった。
彼女は少し目を細める。
「……はい。」
責めるでもなく、
ただ事実を置くように続ける。
「ただ、話さなくなった、というより……
話せなくなってるのかなって、思っていました。」
心臓が強く鳴る。
図星だった。
否定すれば、終われる。
「そんなことない」と言えば、
何も起きなかったことにできる。
――いつもみたいに。
でも。
彼女は続けた。
「無理に話さなくてもいいですよ。」
少し間を置いて。
「でも……
もし話したいのに話せないなら、
待ってます。」
胸の奥がひび割れる。
――待ってる。
優しいのに、
逃げ道を塞ぐ言葉。
責められるより、ずっと苦しい。
本当は怖い。
話した瞬間、
すべてが変わる気がする。
今のままなら、
まだ失っていないことにできるから。
それでも。
家で崩れた夜を思い出す。
あのまま終わりたくなくて、
ここに来たはずだった。
「……俺」
声がかすれる。
逃げろ、とどこかが囁く。
今ならまだ間に合う。
でも彼女は急かさない。
待っている人の沈黙だった。
理屈も否定も、
もう役に立たない場所まで来ていた。
「……怖いんだ。」
こぼれた。
短くて、遅すぎる言葉。
言った瞬間、
取り返しのつかない扉が開く。
彼女は驚かなかった。
慰めない。
軽く流さない。
ただ、息をやわらかくして、
「……うん。」
それだけ。
その「うん」は、
理解しようとする音で、
否定しない音で、
置いていかない音だった。
胸の奥がまたひび割れる。
今度は痛みと一緒に、
わずかな温度が混じる。
ここで止まったら、
また同じ場所に戻る。
家で崩れた夜も、
ここまで来た勇気も、
全部、無かったことになる。
唇が震える。
それでも――
もう一度、息を吸った。




