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数センチの後退

日常は、穏やかに続いていた。


何も起こらないまま、

今日も同じ時間が流れていく。



彼女は変わらない。


声の調子も、

距離の取り方も、

向けるまなざしの柔らかさも。


すべて、これまでと同じ。



けれど。


彼女の中では、

小さな確信が静かに息づいていた。


――このままでいい。


進まなくてもいい。

言葉にならなくてもいい。


彼がここにいて、

壊れずに一日を終えられるなら。


それだけで、十分。


そう思おうとしていた。




昼休み。


彼の背中を遠くに見つける。


声はかけない。

ただ、そこにいることを確かめる。


胸の奥が、

やわらかく温かくなる。


それと同時に。


ほんの少しだけ、

細くなる。



以前の自分なら、

きっと近づいていた。


もっと話したい。

もっと知りたい。

もっと隣にいたい。


その衝動を、

今は静かにしまい込む。


好きだから。


強く引き寄せるより、

そっと待つほうが難しいと知っている。


けれど――


待ち続けることは、

思っていたよりも、少しだけ体力がいる。



彼女は、

ほんの少しだけ距離を変えた。


誰にも気づかれないほどの、

静かな後退。


朝の挨拶の声の高さも、

仕事中の言葉遣いも、

笑顔の形も変わらない。


ただ。


彼に向ける視線だけが、

以前より、わずかに

長く留まらなくなった。


心を守るために。


無意識が選んだ、

数センチの選択だった。



彼は、すぐには気づかなかった。


回避の中にいる彼にとって、

世界はもともと少し遠い。


だからその違いは、

最初は誤差のようだった。


けれど。


数日が過ぎたころ。


説明のつかない空白が、

胸の奥に生まれ始める。


彼女は変わっていない。

何も失われていない。


それでも確かに、

何かだけが前と違う。




午後。


ふと視線が重なる。


彼女は、やわらかく微笑む。


――大丈夫ですよ。


そう言うように。


けれどその視線は、

以前よりもほんの少しだけ

早くほどける。




その瞬間。


心の奥が、静かに軋んだ。




――このまま、

本当に何も起きなかったら。


――彼女は、

自分のいない未来へ進んでしまうのではないか。



その想像は小さい。

声にもならない。


けれど確かに、

回避の殻を内側から削っていく。


怖い。


近づくことも。

失うことも。


どちらも同じくらい。



それでも。


胸のいちばん深い場所に、

消えずに残るものがあった。




彼女の隣にいたい。




その願いはまだ、

行動になるほど強くはない。


けれど以前よりも、

はっきりと形を持っている。


静かに。

壊れそうなほど静かに。


それでも――


もう、なかったことにはできない形で。


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