近づく前に
数日が過ぎても、
何かが変わったようには見えなかった。
朝は同じ形で始まり、
仕事は同じ速さで進む。
彼も、
これまでと同じ距離を保っていた。
――保てているはずだった。
その日の午後、
彼女は小さく迷っていた。
迷うほどのことではない。
急ぎの用件でもない。
けれど、
聞くなら今が自然な気がした。
立ち上がり、
静かに歩く。
前と同じ距離。
同じ速さ。
ただ一つ違うのは、
胸の奥に
わずかな温度があることだった。
机の前で止まる。
「少しだけ、いいですか。」
前よりも
ほんの少しだけ柔らかい声。
それだけの違い。
本当に、それだけ。
――なのに。
その一言が届いた瞬間、
彼の内側で
何かが大きく動いた。
危険、
という言葉に近い感覚。
けれど
まだ何も起きていない。
ただ声をかけられただけ。
前と同じ、業務の延長。
分かっている。
理解もしている。
それでも思考は止まらない。
もし距離が縮まったら。
もし期待が生まれたら。
もし壊れる日が来たら。
一瞬で、
まだ存在しない未来まで
想像が走る。
胸の奥が
静かに冷えていく。
――ここで止めなければ。
彼はごく短く答える。
必要な情報だけを、
感情を混ぜずに。
それで十分なはずだった。
けれど彼女は、
前より少しだけ長く
そこに立っていた。
沈黙は数秒。
ただの空白。
それなのに彼には、
逃げ道のない時間に感じられる。
次の瞬間、
彼は視線を画面に落とす。
会話を終わらせる、
いつもの合図。
仕事は、
問題なく終わった。
ミスもなく、
遅れもない。
いつもと同じ一日。
周りから見れば、
何も変わらない。
彼自身も、
そう思おうとしていた。
けれど胸の奥だけが、
静かにざわついている。
原因は、もう明白だった。
ほんの少し、
声の温度が違った。
それだけのこと。
それだけなのに――
心が反応した。
気づいてしまった時点で、
もう遅い。
このまま進めば、
いつか形になる。
形になれば、
終わりが生まれる。
終わりは、
必ず痛みを連れてくる。
それを
彼は知っている。
知ってしまっている。
だから、
ここで止める。
近づく前に。
期待が生まれる前に。
壊れる未来が
現実になる前に。
静かに距離を戻す。
何もなかった場所まで。
それが
一番正しい。
一番安全で、
一番誰も傷つかない方法。
――本当に?
胸の奥で、
小さな声がする。
けれど彼は、
その声を聞かない。
聞いてしまえば、
戻れなくなるから。
帰り道、
夜の空気は静かだった。
世界は
何も変わっていない。
変わってしまったのは、
自分の内側だけだと――
気づかないふりをする。
それもまた、
彼が長く続けてきた
生き方だった。




