鈍る世界の色
笑って流したはずの言葉が、
胸の奥に小さな棘のように残り続けていた。
――誰にでも優しいから。
――勘違いしちゃうよね。
あの場では、ただの冗談だった。
彼女も笑っていたし、周囲も気にしていなかった。
それなのに、
時間が経つほど、その言葉だけが静かに重さを増していく。
――やっぱり、そうなんだろう。
自分だけが特別だと思いかけていた感情を、
心の奥でそっと否定する。
否定しなければならない、と感じてしまう。
期待は、裏切られる前に手放したほうがいい。
そうすれば、傷は浅くて済む。
彼はそれを、経験として知っていた。
だから距離を測り直す。
少しだけ遠くへ。
気づかれない程度に、静かに。
けれど――
離れようと意識した瞬間、
胸の奥に鈍い痛みが走る。
それは拒絶された痛みではない。
自分から手放そうとしている痛みだった。
どうして、こんなに苦しいんだろう。
彼女は何もしていない。
ただ、いつも通り優しくて、まっすぐで、温かいだけだ。
悪いのは全部、自分だ。
勝手に期待して、
勝手に特別を感じて、
勝手に傷つきそうになっている。
――やっぱり、自分には無理なんだ。
その結論は静かで、妙に落ち着いていた。
絶望というより、諦めに近い。
手に入らないものを望まなければ楽になれる。
最初から何もなかったことにすればいい。
そう思うほど、
彼女と過ごした何気ない時間が鮮明になる。
名前を呼ばれた声。
ふと向けられた、やわらかな眼差し。
自分でも気づかなかった変化を、当たり前のように見つけるところ。
――あれも、誰にでも向けているものなんだろうか。
その問いが浮かんだ瞬間、胸がきしむ。
近づけば、失う。
ならば、近づかなければいい。
理屈はどこまでも正しい。
けれど感情だけが、静かに抵抗している。
離れようとするほど、
心は彼女のほうへ引き戻される。
その矛盾に耐えきれなくなったとき、
彼の中で、もう一段深い回避が始まった。
――最初から、何も感じていなかったことにしよう。
そう決めた瞬間、
世界の色がわずかに鈍くなる。
感情の輪郭を、自分でぼかしていく感覚。
楽になるための選択のはずなのに、
胸の奥で、静かに何かが沈んでいく。
それでも彼は、気づかないふりをした。
気づいてしまえば、戻れなくなるから。
彼女が最初に気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
彼は何も変わっていない。
声の調子も、言葉の選び方も、態度も。
表面だけを見れば、これまでと同じ。
それなのに。
視線が、ほんの少しだけ手前で止まる。
言葉を交わす前の、あの一瞬の間。
名前を呼ぶときの、わずかな温度。
以前なら意識もしなかった差が、
胸の奥に静かに引っかかる。
――気のせい、だよね。
そう思おうとする。
理由なんて、思い当たらない。
彼は優しい人だ。
不器用だけれど、まっすぐで、誠実で。
もし何かあるなら、
きっとわかる形で示してくれるはずだと、どこかで信じている。
それでも。
会話が途切れたあと、
以前より少しだけ早く背を向けられる。
隣に並んだとき、
ほんのわずか距離がある。
指摘するほどの変化ではない。
笑って否定されてしまう程度の、本当にかすかな違い。
だから、何も言えない。
言葉にしてしまえば、
自分がどれだけ彼を見ているのか、知られてしまう気がした。
それは、まだ知られたくない。
ここは職場で、
周りには人がいて、
自分たちはただの同僚で。
守らなければいけない距離を、
彼女は誰よりも知っている。
それでも心は正直だった。
もし本当に、少しだけでも離れようとしているのだとしたら――
どうして?
その問いが浮かんだ瞬間、
胸の奥に小さな痛みが走る。
責めたいわけじゃない。
理由を求めたいわけでもない。
ただ。
何も知らないまま、
静かに遠ざかっていくことだけが、怖い。
――私、何かしたかな。
答えのない問いを、そっと繰り返す。
思い当たるものはない。
ないはずなのに、不安だけが形を持ちはじめる。
気づかないふりをすれば、
今まで通りでいられる。
でも。
このまま何もせずにいたら、
本当に届かない場所まで離れてしまう気がした。
その予感だけが、
静かに、確かに、胸の奥へ沈んでいく。




