正しい距離
翌朝も、
世界は何事もなかったように始まった。
決まった時間に目を覚まし、
決まった順番で支度をする。
窓の外の光も、
通勤路の風景も、
昨日と変わらない。
変わっていないはずなのに、
胸の奥だけが、
うまく呼吸を思い出せずにいた。
職場に着くと、
いつもの音が迎える。
キーボードの規則的な打鍵。
短い会話。
紙の擦れる気配。
すべてが昨日までと同じ距離にある。
――ただ一つを除いて。
彼女のいる場所だけが、
意識に触れないよう、
静かに輪郭をぼかされていた。
彼は席に座る。
パソコンを立ち上げ、
画面に向かい、
淡々と作業を始める。
視線はまっすぐ前だけを見る。
横に流さないのではなく、
最初から選択肢に入れない。
仕事上のやり取りは必要になる。
資料の確認。
進行の共有。
短い質問。
そのとき彼は、
きちんと彼女を見る。
声も、言葉も、態度も変わらない。
むしろ、
少しだけ丁寧なくらいだった。
だから周囲には、
何も起きていないように見える。
けれど――
会話が終わると同時に、
視線は迷いなく離れる。
余白が、残らない。
以前ならあった、
ほんの一瞬の静かな間が、
もう存在しなかった。
彼女は、その変化に気づいていた。
はっきりした出来事は何もない。
冷たい言葉もない。
避ける態度もない。
拒絶もない。
それでも――
距離だけが確かに遠い。
触れようとすれば、
触れる前に静かに退かれるような感覚。
理由を、
彼女は自分に向けなかった。
何かしてしまったのか、
嫌われたのか。
そういう発想ではない。
ただ一つ、
胸に残る疑問がある。
何かがあったのだろうか。
彼の中で。
彼女の知らないところで。
昼休み。
いつもなら、
同じ空間のどこかに
互いの気配を感じていた。
今日は――
感じない。
意識しなければ、
同じ職場にいることさえ
曖昧になる距離。
それは拒絶ではない。
けれど、
優しさよりも静かに、
確実に心を遠ざける距離だった。
彼は気づいている。
自分が少しずつ線を引いていることに。
けれどそれを、
間違いだとは思わない。
近づかなければ、失わない。
期待しなければ、壊れない。
そうやって保たれてきた
静かな均衡へ戻るだけだ。
正しい場所に。
それでも。
画面の端で、
彼女が立ち上がる気配を、
無意識に探してしまう瞬間がある。
気づいた直後、
呼吸がわずかに止まる。
そして、
何もなかったように
視線を固定し直す。
その小さな揺れだけが、
彼の内側にまだ残っている
温度の証だった。
静かな回避が、
日常の形を借りて広がっていく。
誰にも知られないまま。
声にもならないまま。
ただ――
二人のあいだの空気だけを、
少しずつ変えながら。




