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声にしてしまった

ある日の午後。


一日の半ばを過ぎた光は、

午前よりも少しだけ疲れている。


窓から差し込む色も、

どこか柔らかく、

長い時間の途中を思わせた。



彼女は、

いつもと同じ席に座っている。


姿勢も、表情も、

大きくは変わらない。


けれど――

ほんのわずかにだけ、違った。


気づく人は、きっといない。


視線を向け続けている者でなければ、

分からないほどの差。



指先の動きが、少し遅い。

画面を見る時間が、少し長い。

息を吐く回数が、ほんの少し多い。


それだけのこと。


本当に、

それだけのことなのに。



胸の奥が、静かにざわつく。



疲れている。


理由は分からない。

聞く資格も、まだない。


それでも――

分かってしまう。


分かってしまうことが、

少しだけ怖い。



助けたい、と思った瞬間、

いつもの声が追いかけてくる。


踏み込むな。

お前の役目じゃない。


慣れすぎた制止。



けれど今日は、

それだけで終わらなかった。



彼女が席を立つ。


給湯室へ向かう、短い距離。


戻ってきたとき、

手にあるのは温かいカップ。


自分の分だけ。


当たり前の光景。

何も特別ではない。



なのに――

胸の奥に、小さな痛みが生まれた。


自分は、何もできない。


その事実が、

静かに刺さる。



仕事の区切りで、

彼女がふと顔を上げる。


視線が、偶然こちらに触れた。



一瞬の沈黙。


いつもなら、

すぐに逸らしていた。


けれど今日は――

逸らせなかった。



「……大丈夫ですか。」


気づいたときには、

声になっていた。



彼女は少しだけ驚き、

それからやわらかく笑う。


「はい。

 ちょっとだけ疲れてるだけです。」


軽い言い方。

周りに向ける、いつもの調子。


けれど彼には分かる。


“ちょっとだけ”ではない。



それでも、

それ以上は言わない。


言えない。



短い沈黙。


そのとき彼女が、

思い出したように続けた。



「でも――」


ほんの少しだけ、

声の温度が変わる。



「〇〇さんがいると、

 安心します。」



時間が、止まった。



恋の言葉ではない。


特別な意味も、

きっと彼女にはない。


ただ思ったことを、

そのまま口にしただけ。



それなのに。



胸の奥の、

いちばん深い場所に届く。


まっすぐに。



守りたい、と思う。


同時に――

壊したくないという恐れも、

同じ強さで広がる。



息が、浅くなる。


それでも彼は、

逃げなかった。



「……そうですか。」


たったそれだけ。


不器用な返事。


けれど、

声は震えていなかった。



彼女は気づかない。


その言葉の裏で起きている、

小さな揺れに。


静かな崩れと、

静かな始まりに。



午後の光は、

何も知らないまま机を照らす。


世界は変わらない。


けれど――


彼の中だけが、

確かに

昨日とは違っていた。


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