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踏みとどまる

職場に入った瞬間、

空気が切り替わる。


並んで歩いていた距離も、

同じ建物に入っただけで

元の位置へ戻る。


それはいつものこと。


なのに今日は、

ほんの少しだけ違った。


さっきまで確かにあった温度が、

指のあいだから零れ落ちていくようで。



席に着き、

パソコンを立ち上げる。


画面の光は、

朝の余韻を断ち切るには

十分すぎるほど冷たい。



――楽しかった。


遅れて、感情が追いつく。


同時に、

聞き慣れた声が隣で囁く。


続くはずがない。

期待するな。


近づけば、壊れる。



指先が止まる。


考えなくても出てくる結論。

何度も選んできたやり方。


距離を取る。

それが一番安全だ。



そこまで思考が進んだところで、

胸の奥が、わずかに軋んだ。



今までと同じにしてしまって、

いいのか。



コーヒーの時間。

向かい合った静けさ。

あの、やわらかい声。


思い出すだけで、

胸が温む。


それごと切り離すのかと、

もう一人の自分が問う。



仕事の文字が、

うまく入ってこない。


苛立ちがかすかに浮かぶ。


けれど――

完全に閉じる決心も、

今日はできなかった。



視界の端に、

彼女の姿が映る。


ただ仕事をしているだけ。

特別なことはない。


それでも、

胸が反応する。



離れろ。


という声と、


もう少しだけ、このままで。


という、ごく小さな願い。


二つが静かにせめぎ合う。



これまでなら、

答えは決まっていた。


迷いはなかった。



けれど今日は――


彼は、何もしないことを選ぶ。


近づかない。

避けない。


ただ、

同じ空間にいる。



前に進んではいない。


けれど、

繰り返してもいない。



昼の光が、窓から差す。


穏やかで、

退屈で、

壊れない時間。


その中に、

朝の温度がまだ残っている。


消えていない。


閉じてもいない。



胸の奥で、

とても小さな何かが

位置を変えた。


逃げるでもなく、

踏み込むでもなく。


怖さを抱えたまま、

ここにいる。


それだけの選択。



誰にも気づかれないほど、

わずかな変化。


けれど彼にとっては――

初めての静かな踏みとどまりだった。


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