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名前をつけない感情

次の日も、

朝は同じ形で始まった。


目覚ましの少し前に目が覚め、

同じ順番で支度をする。


変わらない朝。

昨日と同じはずの時間。


――のはずだった。


顔を洗っているとき、

ふと、

何かを思い出しかける。


けれど形にならない。

指先からこぼれる水のように、

すぐ消える。


気にするほどのことではない。

そう判断して、

彼は何も考えないまま

家を出る。


電車の中。

いつもの位置。

同じ揺れ方。


窓に映る景色は、

昨日とほとんど変わらない。


それなのに、

胸の奥だけが

わずかに落ち着かない。


理由は、もう分かっている。


――分かってしまっている。


だから、

考えない。


名前をつけなければ、

存在しないのと同じになる。


それが

彼のやり方だった。


駅に着き、

改札を抜け、

職場へ向かう。


何も変わらない一日が、

また始まる。


そのはずだった。


デスクに座り、

画面を開く。


視線はまっすぐ前へ――

向けたつもりだった。


ほんの一瞬だけ、

無意識に

別の方向へ動く。


すぐに戻す。

何事もなかったように。


誰にも気づかれていない。

問題はない。


それでも、

胸の奥のわずかな違和感だけが、

昨日より

少しだけ

はっきりしていた。


午後の時間は、

静かに流れていた。


キーボードを打つ音。

遠くの笑い声。

誰かが立ち上がる気配。


どれも昨日と同じで、

特別なものは何もない。


彼の仕事も、

いつもどおりの速さで進んでいた。


正確で、

無駄がなく、

感情の入り込む余地もない。


――そのはずだった。


ふと、

指が止まる。


一文字、

打ち間違えただけ。


それだけのこと。


けれど、

その小さな乱れが、

胸の奥の感覚と

どこかで重なった。


静かすぎるほど静かな、

わずかな揺れ。


理由は分かっている。


昨日の、

ほんの短い会話。


思い出すほどのものではない。

意味もない。

特別でもない。


それでも――

消えていない。


その事実に、

彼は気づいてしまう。


気づいた瞬間、

胸の奥が

わずかに冷える。


ああ、

これは――


知っている感覚だった。


近づけば、

形を持つ。


形を持てば、

失う可能性が生まれる。


だから、

ここで止めなければならない。


深く息を吸い、

ゆっくり吐く。


それだけで、

感情は表面から沈んでいく。


長いあいだ

繰り返してきた方法。


間違えたことは、

一度もない。


画面へ視線を戻す。

指を動かす。

仕事を続ける。


もう問題はない。


――はずだった。


胸の奥に、

完全には沈まない

小さな温度だけが残っている。


気づいている。

消えていないことを。


それでも彼は、

それ以上

何も考えない。


考えなければ、

存在しないのと同じになる。


それが

彼の選んできた生き方だった。




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