溶けはじめる距離
それから数日、
何事もなかったかのように
日常は続いていた。
言葉も、距離も、
以前とほとんど同じ。
むしろ彼のほうが、
わずかに遠い。
けれど彼女は、
それを追いかけなかった。
ただ――
見ていた。
忙しい時間帯、
彼が少し無理をしていること。
体調がまだ万全ではないこと。
以前より、
ほんの少しだけ
言葉が少ないこと。
何も言わずに、
受け取っていた。
昼休みの終わり。
席へ戻る途中、
彼女は足を止める。
ほんの一瞬の迷い。
それでも次の瞬間、
自然な動きで彼の机に近づいた。
「……これ」
差し出されたのは、
個包装の飴がひとつ。
「喉、まだつらそうだったので」
それだけ言って、
すぐに離れようとする。
彼は――
すぐには受け取れなかった。
胸の奥が、
静かに揺れる。
ただの飴。
ただの気遣い。
それなのに。
どうして、
こんなにも動けなくなるのか。
怖い、と
思った。
以前よりも、
ずっと静かな形で。
けれど。
指先は、
わずかに前へ出た。
そして――
受け取った。
「……ありがとうございます。」
それ以上は、言えない。
彼女は
いつもの静かな笑顔で頷く。
「よかったです。」
それだけ。
追わない。
踏み込まない。
確かめない。
ただ、置いていく。
彼女が去ったあとも、
彼はしばらく
飴を見つめていた。
こんな小さなもので、
心が揺れるなんて。
距離は、まだ保っている。
回避も、終わっていない。
それでも――
胸の奥の温度は、
前より消えにくくなっていた。
時間は静かに流れる。
特別な出来事はない。
近づくことも、
大きく離れることもないまま、
同じ日々が重なる。
彼は必要なことだけを話す。
整った距離。
整った態度。
けれど。
視線が、
ほんの一瞬だけ
彼女に触れることがある。
すぐに逸らされる、短い時間。
それでも、
存在を消そうとはしない。
それが、小さな変化だった。
彼女は何も変えない。
特別に優しくもしない。
距離も詰めない。
同じ声で、
同じ速さで、
そこにいる。
気づけば、
一ヶ月が過ぎていた。
ある朝。
いつものように席に着き、
いつもの景色を見る。
その中で、
彼はふと思った。
――前より、怖くない。
大きな決意ではない。
ただ、
胸の奥の緊張が
少しだけ薄れていることに
気づいただけ。
理由を、
はっきりとは考えない。
ただ、
息が前より
深く吸える気がした。
回避は終わっていない。
けれど確かに、
どこかが
変わり始めていた。




