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穏やかな時間が落とす陰

朝の空気は、まだ少し冷たかった。


店の扉を開けると、

やわらかなコーヒーの香りが広がる。


彼女はもう来ていて、

窓際の席で静かに待っていた。


その姿を見た瞬間、

胸の奥にあった緊張が、

ゆっくりほどけていく。


「おはようございます。」


わずかに震える声。


けれど彼女は、

いつもと同じ穏やかな笑顔で頷いた。


「おはようございます。」


それだけで、十分だった。


向かい合って座る。

湯気の立つカップ。

急がなくていい時間。


特別な話はしていない。


体調のこと。

仕事のこと。

ささやかな出来事。


それなのに、

一言交わすたび、

胸の奥がじんわり温かくなる。


気づけば彼は、

いつもより多く話していた。


言葉が自然にこぼれる。


無理をしなくても、

沈黙が怖くない。


彼女は静かに聞き、

ときどき柔らかく笑う。


そのたびに、

胸の奥の何かがほどけていく。


――安心している。


ふと、そう思った。


こんなふうに

力を抜いたまま

誰かと向き合える時間があることを、

知らなかった。


カップの中身が少しずつ減る。


終わりが近づく。


その事実に気づいた瞬間、

胸の奥が、わずかに揺れた。


けれど最後まで、

時間は穏やかだった。


店を出て、

職場へ向かう道さえ、

どこか明るく見えた。





その日、彼は驚くほど調子がよかった。


頭が冴える。

仕事が進む。

会話も滑らかだ。


自分でも分かる。


理由は考えるまでもない。


――あの時間。


胸の奥に、

まだ温もりが残っている。


思い出すだけで、

少し力が湧いた。



けれど。


夕方が近づく頃、

別の感覚が静かに混じり始める。


――次は、ないかもしれない。


浮かんだ考えを、すぐに打ち消す。


ただのお礼だ。

特別な意味はない。


今日で、終わり。


そう思うほど、

胸の奥がひやりとする。


もう誘う理由はない。


口実もない。


あの時間は、

偶然がくれただけのものだ。


もし――

もう一度望んでしまったら。


その先を想像した途端、

胸がきゅっと縮む。


温かかった記憶に、

影が差す。


――やめた方がいい。


小さく、

聞き慣れた声が囁く。


近づけば、

失うかもしれない。


失うくらいなら、

最初から何もない方がいい。


さっきまでの明るさが、

ゆっくり静まっていく。


彼はただ、

少し距離を戻そうとした。


何も変わらなかったように。


穏やかな時間の余韻だけを胸に残して、

静かに息を整える。


それが正しいのだと、

自分に言い聞かせながら。


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