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建前の勇気

特別な出来事は、何も起きていなかった。


仕事はいつも通りに進み、

会話も必要な分だけ。


近づきすぎることも、避けられることもない。


穏やかな日常。


――それでいいはずだった。




最近、彼女は気づく。


書類を取りに立ち上がったとき。

コピー機の前で待つとき。

誰かの声に顔を上げた、その流れで。


無意識に、彼を探している。


見つけても、何もしない。


声をかける理由もない。


ただ。


そこにいると分かると、少しだけ安心する。


――大丈夫そう。


それだけを確かめて、視線を戻す。


心配なのか。

気にしているだけなのか。


それ以上は、考えない。


まだ名前をつけなくていい。


ただの変化でいい。


けれど。


彼の存在が、以前よりも静かに重みを持っていることだけは、否定できなかった。





日常は変わらない。


距離も、温度も、保たれている。


けれど彼の中では、別の動きがあった。


姿を見れば、落ち着く。

見えなければ、理由もなく気になる。


こんな感覚を、彼は知っている。


だからこそ、怖い。


近づけば、失う。

期待されれば、応えられない。


そうやって、これまでは距離を守ってきた。


それでも。


あの日の言葉を思い出すたび、胸の奥が温かくなる。


何も求めず、

ただ体を気遣ってくれた。


あの静かな優しさだけが、

彼の中で消えずに残っている。


――このまま何も返さないのは、違う。


その思いが、胸の奥に引っかかる。


放っておけない。


けれど。


好意で動くには、怖すぎる。


だから、理由がいる。


好意ではなく、礼儀として。

気持ちではなく、建前として。


そうでなければ、

前に進む形を保てない。


それが彼のやり方だった。




昼休み前、

彼女が席を立つのが見えた。


今しかない。


そう分かっているのに、

足がすぐには動かない。


喉が乾く。

心臓の音が、やけに大きい。


逃げる理由なら、いくらでもある。


それでも。


彼は、逃げなかった。


ゆっくりと立ち上がる。


一歩。


また一歩。


彼女の少し後ろで足を止める。


声をかける。


ただそれだけのことが、

驚くほど難しい。


一度、息を吸う。


「……あの。」


思ったより、声がかすれる。


胸が強く脈打つ。


それでも、言葉を続ける。



「この前は、ありがとうございました。

体調、だいぶ助かりました。」


そこで終われた。


それが一番、安全だった。


けれど。


彼は、わずかに踏み出す。


「もしよければ……

お礼に、コーヒーでも。」


言った瞬間、後悔が押し寄せる。


踏み込みすぎたかもしれない。

困らせたかもしれない。


時間が、止まる。



彼女は、わずかに目を見開く。


驚き。


そして――


やわらかな光。


誘われたことよりも。


彼がここまで来るのに、どれだけ迷ったのかが伝わる。


胸の奥が、静かに熱を帯びる。


けれど浮かれない。


いつもの声で。


「はい。ぜひ。」


それだけ。


その一言で、彼の肩から力が抜ける。




世界は変わらない。


職場の昼休み前。


ただの短い会話。


それでも。


二人の中では、


小さな一歩が、確かに刻まれていた。


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