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目を向ける彼女

彼女は、よく周りを見ている人だった。


何かを探しているわけではない。

ただ、目に入ったものを

そのまま受け取っているような――

静かな見方だった。


朝の光の色や、

誰かの小さなため息や、

机の上に置かれたままの

少し曲がった書類の端まで。


意味を持たせるでもなく、

見過ごすでもなく、

ただそこにあるものとして

受け止めている。



彼に気づいたのも、

きっと同じだった。



特別な瞬間はない。

きっかけもない。


ある日ふと、

「あの人は、いつも静かだ」と

思っただけ。


それだけのこと。


けれど一度そう思うと、

不思議と目に入るようになる。


同じ時間に席に着くこと。

余計な言葉をほとんど持たないこと。

誰にも気づかれない速さで、

仕事を終えていること。


静かな人だった。

驚くほど、静か。


その静けさの奥に、

何があるのか――

知りたいと思ったわけではない。


ただ、

少しだけ気になった。


理由のない、

小さな温度のように。


彼女の心は、

いつも穏やかに動いている。


強く打つことはない。

けれど止まることもない。


ゆっくりと、

確かに流れている。


その流れの中に、

いつのまにか

彼の姿が混ざっていた。


まだ名前を呼ぶほどではない。

特別でもない。


それでも――

昨日より、

ほんの少しだけ近い存在として。


その日も、

仕事はいつもと同じ速さで進んでいた。


大きな出来事は何もなく、

時間だけが静かに過ぎていく。


午後の光が少し傾きはじめた頃、

彼女は手元の書類を見つめて、

ほんの少しだけ考えた。


分からないわけではない。

誰に聞くほどのことでもない。


それでも――

なぜか、

あの人の顔が浮かんだ。


理由は、ない。

ただ、自然に。


彼はいつものように、

静かに席に座っている。

周囲の音から

少しだけ離れた場所にいるように。


彼女は立ち上がり、

ゆっくりと歩いた。


特別な一歩ではない。

ただの、仕事の続き。


机の前で止まり、

いつもと同じ声の高さで言う。


「すみません、

 ここだけ確認してもいいですか。」


彼は顔を上げる。


ほんの一瞬、

視線が合う。


それだけのこと。


驚きも、

ときめきも、

何も起きない。


ただ――

静かな時間が、

そこに触れただけ。


短い説明を聞き、

彼は簡潔に答える。


それで会話は終わる。

本当に、それだけ。


彼女は「ありがとうございます。」と言って、

自分の席へ戻る。


振り返らない。

立ち止まりもしない。


けれど胸の奥に、

ごく小さな温度が残っていた。


名前をつけるほどではない、

かすかなあたたかさ。


一方で彼は、

何事もなかったように

再び画面へ視線を落とす。


――落としたはずだった。


数秒後、

理由のない違和感だけが

静かに残っていることに気づく。


けれど考えない。

考えないようにする。


それは、

長いあいだ

身につけてきた習慣だった。


午後の時間は、

また同じ速さで流れはじめる。


何も変わらない一日。


まだ――

何も始まっていない。

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