夜の選択
家に戻っても、
重さは抜けなかった。
熱はない。
けれど芯の疲労だけが残る。
着替える気力もなく、
椅子に座ったまま動けない。
机の上の鞄。
その中にある、小さな瓶。
昼に渡された栄養ドリンク。
視界に入るたび、
胸の奥が静かに揺れる。
礼は言った。
それで十分なはずだった。
社会人として、過不足はない。
それなのに。
終わっていない。
あの一言だけでは、
何かが足りない。
何が――とは言えない。
けれど、このままにしてはいけない気がした。
昨日の静かな部屋を思い出す。
誰にも知られず終わった誕生日。
その直後の、あの一本。
偶然のはずなのに、
どこかで繋がっている気がする。
ただの親切で終わらない。
彼の中だけで、
意味が膨らんでいる。
明日、直接言う。
考えただけで、胸が固くなる。
言葉が続かない。
距離を誤る気がする。
だから――無理だ。
それでも、
何も伝えないままではいられない。
携帯を手に取る。
職場の連絡画面。
彼女の名前。
個別の画面を開く。
心臓が、一度だけ強く鳴る。
白い入力欄。
指が止まる。
長いのは不自然。
短すぎても足りない。
消して、打って、
また消す。
整えすぎないように。
でも、雑にならないように。
時間をかけて、
数行。
「今日はありがとうございました。
体調まだ万全じゃなかったので、
すごく助かりました。」
送信ボタン。
指が、止まる。
ここまでは来た。
けれど最後の一押しが遠い。
送れば、何かが動く。
それが怖くて、
これまで戻ってきた。
昼間の声を思い出す。
「無理しないでくださいね」
やわらかい温度。
遠ざけても、消えなかった光。
彼は小さく息を吸う。
――送信。
既読がつく前から、
胸が落ち着かない。
後悔ではない。
不安とも少し違う。
ただ、
知らない場所へ
一歩踏み出してしまった感覚。
戻れないほどではない。
けれど、
昨日までと同じ場所でもない。
暗い部屋。
携帯の画面だけが、淡く光る。
その光を見つめながら、
彼はまだ名前を持たない感情を、
胸の奥に抱えていた。




