消えない温度
完全には戻っていなかった。
熱は下がった。
けれど身体の奥に、
鈍い重さが残る。
少し歩くだけで息が浅い。
関節の違和感も消えない。
本当なら、
もう一日休むべきだと分かっていた。
それでも――
家を出る。
誰かに負担がかかる。
その想像が、
じっとしていることを許さなかった。
職場の空気は、少し冷たい。
席までの距離が長い。
挨拶をする。
声は思ったより弱い。
それでも、
表情だけは整える。
――大丈夫に見えるように。
少し離れた場所から、
彼女はそれを見ていた。
顔色が悪い。
動きも、遅い。
まだ戻っていない。
胸の奥が、きゅっと縮む。
けれど足は動かない。
ここ数日の、静かな距離。
あれを思い出すと、
踏み出せなかった。
声をかければ、
また彼を遠ざけてしまうかもしれない。
だから――
見ているだけ。
昼休み。
彼は席を立たない。
食事も取らず、
水だけを飲んでいる。
その背中が、少し小さく見えた。
彼女は視線を落とす。
迷いが、胸に残る。
翌日。
様子は変わらない。
無理をしている静けさ。
それを見て、
彼女は息をひとつ吐いた。
大げさなことはしない。
踏み込みもしない。
ほんの少しだけ。
午後。
彼女は机のそばに立つ。
「これ、よかったら」
一本の栄養ドリンク。
それだけ。
彼は、一瞬止まる。
自分に向けられたものだと
理解するまで、わずかな時間。
胸の奥が揺れる。
回避よりも先に、
驚きが来た。
ゆっくり受け取る。
「……ありがとうございます。」
声が少し、かすれている。
「無理しないでくださいね。」
やわらかい声。
それ以上は言わない。
返事も待たず、
静かに去っていく。
踏み込みすぎない距離のまま。
机の上の、小さな瓶。
彼はしばらく、それを見つめる。
胸の奥が、あたたかい。
熱とは違う温度。
遠ざけたはずの光が、
また届く。
今度は――
拒めなかった。




