揺れた境界線(彼女視点)
最初に気づいたのは、
ほんの小さな変化だった。
視線が合わない。
それだけ。
昨日まで自然に交わっていたものが、
ふと、すり抜ける。
忙しいのかもしれない。
考えごとをしているのかもしれない。
理由はいくらでもある。
けれど。
人は、
気にしていない相手を
ここまで丁寧に避けたりはしない。
嫌われた、とは思わなかった。
むしろ――
思い当たるのは、
あの日の穏やかな時間。
楽しかった。
少しだけ、近づいた気がした。
もし変化があるのなら、
理由はそこにしかない。
何かがあったのだろうか。
自分ではなく、
彼の中で。
近づこうとしてしまう心ーー
気づいてしまった以上、
何もしないままではいられなかった。
大げさなことではない。
声をかける回数を、
ほんの少し増やすだけ。
体調は大丈夫ですか。
この資料、お願いします。
ありがとうございます。
どれも自然な範囲。
それでも――
彼の反応は静かだった。
丁寧。
誠実。
けれど、遠い。
前よりも、
半歩だけ下がっている。
拒まれてはいない。
でも、届かない。
その曖昧さが、
胸の奥に小さな波を立てる。
どうして、
こんなに気になるのだろう。
ただの同僚なら、
放っておけばいいのに。
答えは、
もう見えている。
けれど、
まだ口に出せない。
自覚しかけた瞬間、
心は少し前に出る。
もう少し話したい。
もう少し知りたい。
その分だけ。
彼は、下がる。
半歩。
静かに。
気づかれないように。
距離は縮まらない。
わずかに、広がる。
彼女は責めない。
ただ、少し困っていた。
どうすればいいのか、
分からないから。
帰り道、
今日のやり取りを思い返す。
うまくいかなかった会話。
それでも。
彼の言葉はやさしかった。
態度は遠いのに、
思いやりは残っている。
終わってはいない。
ただ、
迷っているだけ。
胸の奥にある温度を、
そっと確かめる。
消えていない。
まだ、ここにある。
なら――
もう少しだけ。
この距離に、
付き合ってみよう。
そう思えた夜だった。




