戻りきれない距離
帰宅して、
部屋の明かりをつけた瞬間。
昼間の静けさが、
遠ざかる。
代わりに満ちてくるのは、
いつもの感覚。
――近づきすぎた。
靴を脱ぎながら、
その言葉が胸に落ちる。
今日の時間は穏やかだった。
怖くもなく、
苦しくもなく、
ただ静かで、
あたたかかった。
だからこそ、
危うい。
心が動いた分だけ、
失う未来が現実味を帯びる。
もし、もっと近づいたら。
もし、
踏み込まれる場所まで行ったら。
その先で、
自分は応えられない。
胸の奥が、
ゆっくり冷えていく。
距離を取ればいい。
少しよそよそしくすればいい。
そうすれば、
また安全な場所に戻れる。
何も始まらなかったことに、できる。
ソファに腰を下ろし、
目を閉じる。
終わらせるなら、今だ。
――なのに。
思い出す。
「助かりました。
本当に、ありがとうございます。」
あの声。
隣に誰かがいても、
何も奪われなかった感覚。
むしろ、
少しだけ楽だった。
息がこぼれる。
こんなふうに感じたのは、
いつ以来だろう。
胸の奥で、
二つの感情が向かい合う。
逃げたい。
でも、失いたくない。
どちらも本当だった。
これまでは、
逃げればそれで済んだ。
けれど今は――
逃げた先に、
小さな後悔が残る気がする。
まだ何も始まっていないのに。
目を開ける。
答えは出ない。
それでも一つだけ、
はっきりしていることがある。
今日の時間を、
なかったことにはしたくない。
長い沈黙のあと、
彼は小さく息を吐いた。
「……まだ、いいか。」
独り言。
進む決意でも、
戻る決断でもない。
ただ、
今すぐ壊すことだけはやめる。
それだけの選択。
部屋は静かだ。
それでも胸の奥には、
消えきらない温度が残っている。
怖さの隣で、
かすかに灯るもの。
彼はまだ、
その名前を知らない。
けれど――
目を閉じても、
消えなかった。




