安全な距離
その日も、
彼は言葉を最小限にして仕事をこなしていた。
落ち着いて見えるのは、
ただ動きを小さくしているだけだと
自分ではわかっている。
余計なことをしなければ、
余計な感情も生まれない。
そう思いながら、
静かな場所に身を置く。
それでも視界の端に、
彼女が入る。
笑う横顔。
誰かの話を聞く姿。
小さくうなずく仕草。
特別ではない。
昨日と同じ、ただの風景。
――それなのに。
胸の奥が、わずかに動く。
視線を資料に落とした、そのとき。
「これ……少しだけ、手伝ってもらえますか。」
すぐそばから声がした。
顔を上げると、
彼女が立っている。
近くも遠くもない、
いつもの距離。
「あ、はい。」
声がわずかに硬い。
彼女は自然な調子で資料を差し出す。
「量が多くて。」
言い訳も遠慮もない、ただ事実。
「……やります。」
椅子を少し動かす。
肩は触れない。
けれど同じ机を囲む距離。
心臓が一度だけ強く鳴る。
聞こえないことを祈りながら、
作業を始める。
紙の音。
ペン先の摩擦。
ページをめくる規則的なリズム。
それだけの時間。
なのに――
胸のざわめきが、
少しずつほどけていく。
怖さも焦りも、
ここには届かない。
ただ同じ仕事をしている。
それだけだ。
ふと、思う。
――安全だ。
その感覚に、
自分で驚く。
彼女は何も変わらない。
求めない。
急がない。
ただ、ここにいる。
それだけで、
緊張が少し緩む。
やがて作業が終わる。
「助かりました。
本当に、ありがとうございます。」
控えめで、まっすぐな笑顔。
胸の奥が、また動く。
今度は逃げる前のざわめきではなく、
静かなあたたかさ。
うなずいて終わることもできた。
それが、
これまでの自分だった。
けれど――
「……思ったより、早く終わりましたね。」
気づけば言葉がこぼれていた。
彼女は少し目を丸くし、
やわらかく笑う。
「はい。
一人だったら、もっとかかってました。」
その言葉が、
胸の奥に静かに落ちる。
特別ではない。
ただ、
一緒だった時間が残る。
沈黙は、もう気まずくない。
彼はまだ
この感情の名前を知らない。
けれど確かに、
昨日よりも少しだけ――
前にいる。




