表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/29

第6話 リボンの端

 朝の空は、紙を一度丸めて広げたみたいに皺が残っていた。海の色は浅く、港のクレーンが鉛筆の線になっている。昇降口のガラスに手のひらを当てると、内側から曇りが花みたいに広がって、すぐ消えた。今日は呼ばない、と昨夜のメッセージは言っていた。呼ばないでいい。呼ばないことが、誰かを楽にする日もある。分かっているのに、階段を上がる足は落ち着かない。

 教室に入ると、黒板の名前は残っていた。白鐘ユナ。文字の縁は粉にならず、紙に印刷したみたいに滑らかに見える。十七番の席の机の角は、ほかの机より少し丸い。誰かが長く手を置いていた机だけが持つ丸み。机の中の名札は、昨日と同じ角度で、名字だけを前に出していた。

 カリンが先に来ていて、新聞部のノートを閉じたところだった。彼女は顔を上げて、目だけであいさつする。口は結んだまま。結び目の強さで、その日の彼女の固さが分かる。

「今日は、呼ばない、んだよね」

「うん。そう決めた」

「じゃあ、今日はその決めたことを記事にする。呼ばないという選択の理由を、読者に渡す。書かないでいると、誰かが勝手に物語を作るから」

「ありがとう」

「お礼は、書き終わってから」

 彼女はペンを持ち直し、短く息を整えた。呼吸を乱さないままペン先が紙を撫でる。文字が一行、二行。動きは速いのに、乱れない。見ているだけで、落ち着く。

 チャイムが鳴る直前、樫井先生が入ってきた。先生は黒板を一度だけ見て、こちらに向かって頷く。出席はいつも通り。十五、十六。僕は小さく首を横に振る。先生は一拍置き、十八を呼んだ。空気は波を立てず、静かなまま前に進む。昨日よりも、静けさが教室に馴染んでいる。静けさが、ここにいる誰かの呼吸の速さと釣り合っている。

 午前の授業は、普通に進んだ。普通、という言葉は曖昧だけれど、僕たちが守ろうとしているものの形をしている。木下はノートの端に意味のない迷路を描き、浜崎は消しゴムのカスを押し固めて小さな球を作った。倉田は視線を窓の高さに固定して、ときどき瞬きを忘れた。教室の後ろにある掃除用具入れの扉が、少しだけ開いている。金具の音はしない。風もない。

 大休憩に入ると、副校長が教室のドアから顔を出した。顔は笑っているのに、笑いが目に届いていなかった。

「樫井先生、ちょっといいかな」

 先生は廊下に出ていく。僕とカリンは席に座ったまま、教室のざわめきに耳を寄せた。廊下からは、大人の声の密度が薄くなる音だけが入り込む。はっきりした単語は拾えない。文の切れ目だけが伝わる。今日まで、という言葉。対応。地域。慎重に。責任。班長。職員会議。最後に、先生の声。落ち着いた低さ。今日を持たせてください。判断はここにいる生徒たちと一緒にします。

 ドアが閉まると、カリンが立ち上がった。彼女が持っているのは、校内掲示の申請用紙だ。

「昼休みに、掲示板を一枚借りる。新聞じゃなくて、校内アナウンスの代わり。『今日の放課後、教室で話し合います。外部の意見は、いったん置かせてください』って書く。いい?」

「いい。僕も行く」

「じゃ、印刷してくる」

 カリンが走ると、彼女の髪が肩で跳ねて、教室の空気が少し軽くなった。僕は机に座ったまま、十七番の席を見た。空白は、見れば見るほど形を変える。今日は、空白が椅子の背の曲線みたいだった。硬すぎず、柔らかすぎず、体に合わせて曲がってくれる曲線。

 昼休み、掲示板の前にカリンの紙が貼られた。誰が見ても分かる太さの文字で、けれど言葉は強くなりすぎないように整えられている。見た目の強さと内容の柔らかさ。彼女はそれをよく知っている。集まった生徒の中に、昨日の旧市街の女性の姿があった。紙を黙って読み、黙って頷き、職員室の方へ歩いていった。

 放課後、話し合いは教室で始まった。机をできるだけ動かさず、席順はそのまま。これが僕たちの場所だという印のため。黒板の名前はそのまま。樫井先生は前に立たず、教室の真ん中あたりの通路に椅子を置いて腰かけた。

「ルールは三つだ。誰かの言葉を笑わない。他の人の時間を奪わない。誰かが話しているときに、名前を勝手に呼ばない。はい、始めよう」

 最初に手を挙げたのは倉田だった。彼は立たなかった。座ったまま、机の上で両手の指を組んで、解いて、また組み直した。

「書いたのは俺だ。今朝、消さないでくれと言われても、書いたのは俺だ。怒られてもいい。けど、これから先、どうすればいいかは、俺一人で決められない。ここにいる全員で持てるなら、持ちたい」

 木下が続ける。

「俺は正直、どっちでもない。書いても書かなくても、世界は続く。でも、続く中身が違うなら、どっちが好きかは言える。俺は、見えていたほうが好きだ」

 浜崎は、口を尖らせた。

「でもさ、名前って本人のもんだろ。いない人の名前を勝手に使うって、怖いんだよ。俺は怖い。だから、消したくなる。消すと怒るやつがいるのも知ってる。怒らないでほしいけど、怒るなとも言えない」

 驚いたことに、いつもは発言をしない二列目の女子が手を挙げた。吹奏楽部の子だ。彼女は静かな声で言う。

「楽譜を誰かから借りるときは、最後に必ず返す。返すって約束があるから、借りられる。名前も、多分そう。いない人から借りているなら、いつか返す約束が必要なんだと思う。返し方は分からないけど、返す気で持っていれば、持っていられる気がする」

 教室の空気が少しずつ、言葉の重さに合わせて沈んだり上がったりする。沈みすぎない。上がりすぎない。樫井先生は、手を膝に置いたまま、うなずくだけで口を挟まない。

 カリンが手を挙げた。

「新聞部の立場から。私たちは『書かない』という選択を紙で宣言した。書かないでいることが卑怯にならないように、書かない理由をはっきり示したつもり。名前のことも同じで、置く理由と置かない理由をはっきりさせよう。曖昧なままだと、外から来た声のほうが大きくなって、ここにいる誰かが押し出される。今日は『ここで決める』ための時間にしたい」

 最後に、樫井先生が立ち上がった。

「じゃあ、今から十分、書け。『名前をここに置く理由』『置かない理由』『今の自分の立ち位置』。三つを短く。誰にも見せなくていい。見せたい人は、見せてくれ」

 紙の音が一斉に鳴る。鉛筆の芯が紙を押す微かな音が、教室の真ん中に薄く集まって、すぐに消える。僕は、置く理由に『ここで呼吸を合わせるため』と書いた。置かない理由に『外から来る誰かの呼吸を乱すかもしれないから』と書いた。立ち位置に『置くけれど、いつか返す』と書いた。返す、という言葉は簡単で、実行は難しい。それでも書いた。書けば、約束になるから。

 十分後、先生は僕らの顔を一人ずつ見て、頷いた。

「よし。今日の結論は出さなくていい。結論を出す準備ができたという事実だけを、残そう。明日の朝、名簿はこのまま。呼ぶか呼ばないかは、神木に任せる。理由は、ここにいる全員の紙の中にある。それを背負って、呼ぶか呼ばないかを決めろ」

 そのとき、教室の後ろで小さな悲鳴がした。振り向くと、掃除用具入れの扉が重力に負けて少し開き、中からモップの柄が一本倒れて出てきていた。誰もそばにいない。風もない。樫井先生が近づき、モップを拾い上げる。彼は怒らなかった。扉を静かに閉め、金具を整え、振り返って言った。

「明日まで、このまま」

 何でもない出来事が、何でもなく終わらないことがある。僕らは互いに顔を見合わせた。笑う子もいた。笑えない子もいた。どちらも正しかった。

 その日の帰り、裏庭に寄る前に、僕は一人で音楽室に行った。夕方の光。窓に映る空。譜面台は、昨日ずれていた列が正しく戻っている。誰かが直したのか、最初からそうだったのか、判断の材料がない。ピアノの蓋を半分開ける。弦の上の埃は薄い。鍵盤に指を置いて、音を出さないまま時間だけを置く。鍵盤の白は冷たく、黒は少しだけ暖かい。色の違いが温度の違いになるのは、僕の手のせいだろう。僕は目を閉じて、昨日から今日にかけて受け取った言葉をもう一度手のひらに並べた。呼ぶ日と、呼ばない日がある。合わせられない日も、合わせない日も、合わせた日と同じ。返す、という約束。

 扉が軋んで、カリンが顔を出した。

「裏庭、行く?」

「行く」

 並んで廊下を歩く。夕方の校舎は、昼よりも匂いが分かりやすい。誰かのスパイクのゴム、上靴の粉、体育館から抜けてくる木の床の匂い、家庭科室の甘い残り香。すべてが薄く重なって、黄瀬の学校の夕方の匂いになる。

 裏庭では、倉田が先に立っていた。棒は昨日の位置。足元の紙は新しく、同じ筆跡で、こう書かれている。

 返す場所を、さがしてください

 三人で紙を見て、顔を上げた。返す場所。返すという動詞は、宛先を探させる。宛先が分からなければ、返せない。僕らが見渡すと、校舎の影が地面の上に長く伸び、窪みを半分だけ覆っていた。その影の縁に、細い白。糸。昨日拾って風に預けたものと似ている。けれど、違う。違うけれど、同じに見える。

 カリンがしゃがみ込み、指で糸を拾い上げた。糸は軽い。軽いものは、風に弱いけど、記憶には強い。彼女は糸を棒に軽く結んだ。結び目は緩く、ほどけやすい結び方。ほどける前提で結ぶ結び。結んだ瞬間、棒の影の先に、窓の反射で白い斜めがひとつ、ほんの短く現れて、消えた。呼吸を揃えたわけではない。でも、揃った。揃って、すぐ外れた。

「返す場所って、ここ?」

 倉田が言う。僕は首を振る。

「ここは返す場所じゃない。ここは、置く場所。返す場所は、たぶん、もっと遠い。あるいは、もっと近い」

「近い?」

「たとえば、黒板。たとえば、教室の空気の真ん中。たとえば、誰かの手のひら」

 言ってから、自分で驚いた。僕はそんなことを、いつから言えるようになったんだろう。言葉が先に出て、理由が後から追いつく。カリンは笑わないで頷いた。

「じゃあ、明日はそこで探す」

「明日は呼ばないって、昨夜は言ってたけど」

「今夜になったら、変わるかもしれない」

「変わっても、変わらなくても、探す」

 帰り道、掲示板の前にまた紙が一枚貼られていた。手書き。昨日と同じ、既視感のある字。短い。

 呼ばないでいた時間は、呼んだ時間と同じだけ残ります

 誰の字か、僕にはもう分かる気がした。分かったところで、変わるものはないけれど、分かること自体が誰かの呼吸を楽にするなら、それでいい。

 家に戻ると、封筒はなかった。代わりに、固定電話が鳴った。普段は滅多に鳴らない。受話器を取ると、年配の女性の声がした。旧市街の女性だ。彼女は名乗らず、僕の名前も呼ばなかった。

「鐘のこと、少し思い出したので、伝えます。昔の鐘は、鳴らす前に、舌を手で触る習慣がありました。冷たさを確かめるんです。冷たすぎると割れやすいから。触って、少し温めてから鳴らす。誰が始めたか分からないけれど、みんなそうしていました。——返す場所は、そうやって温めてから鳴る場所のことかもしれません」

「ありがとうございます」

「いえ。名前は、出さないでくださいね」

「もちろん」

 電話が切れる。受話器を置く指に、冷たさが残った。温める、という言葉が家の中に薄く広がる。玄関の金具。窓の桟。机の角。冷たいところを手のひらで触る。触って、ため息を一つ落とす。何かが準備されていく感じがした。

 夜、手帳に今日のことを書いていると、窓の外で一瞬だけ雨が降った。大粒。三十秒で止む。ガラスに残った線は、呼吸より短く、言葉より長い。僕はペンを置き、窓に近づいた。ガラスに額を軽く当てる。冷たい。額の熱が少しだけ奪われる。温める場所。返す場所。僕は窓に向かって、小さく言った。

「明日は、呼ばない。代わりに、返す場所を探す」

 言葉はガラスで押し返されて、部屋の中に留まる。留まった言葉は、明日の朝まで残るだろう。残って、僕の喉の奥で形を変えるだろう。

 翌朝、空は薄く晴れていた。雲は高く、港の音はいつもより遠い。教室に入ると、黒板の名前はそのまま。粉は落ちず、線は擦り減らない。十七番の席は空。机の中の名札は、名字だけ。台座の透明が、光を拾って揺れる。

 点呼の時間、僕は立たなかった。立たないで、前を向いた。先生は僕の顔を見て、頷いた。十五、十六。十八。教室の空気は揺れない。揺れないまま、少しだけ温かい。

 休み時間、黒板の前に立つと、チョークの粉に混ざって細い白い糸が一本、黒板の枠の角に引っかかっているのが見えた。触ると、するりと指に絡んだ。昨日、裏庭で棒に結んだ糸とは違う。違うけれど、同じだ。僕は糸を黒板の右下の角、板書が始まらない場所にそっと置いた。置いただけ。結ばない。貼らない。ただ、そこにいる場所だけを与えた。

 午後、資料館に行く予定が入った。司書さんからの電話。鐘の舌の、裏側の刻印が読めたという。カリンと二人で下校ルートを外れ、旧市街へ向かう。商店街を抜けると、匂いが静かになる。人の匂いが薄れ、時間の匂いが濃くなる。資料館の木の扉は、押すと静かに開いた。

 司書さんは僕らを奥へ案内し、布に包まれた細長いものをそっと置いた。折れた鐘の舌だ。錆の色は深く、ところどころに指の跡が新しく付いている。司書さんは小さな懐中ライトを取り出して、舌の裏面を照らした。錆の凹凸の間に、かろうじて読める刻印。

 返響は心に在り

 漢字の取り合わせの古さ。司書さんは言う。

「多分、職人の言葉です。鳴っているのは鐘の金属ではなく、鳴りを返す心のほうだ、という意味でしょうね」

 返す、という文字がここにもあった。返響。響きが返る。返す場所。僕は舌の金属に指を近づけ、触れる前に止めた。冷たさは、触れなくても分かる。冷たさに手を添える作法を、知らないまま真似をする。

「この舌を展示に置くのは、今日までにします。明日、教育委員会の人が来るから」

 司書さんは言った。理由は聞かなくても分かった。紙の上の世界と、紙の外の世界は、ときどきズレる。ズレたまま、うまく噛み合わない。うまく噛み合わないから、どちらかをいったん引っ込める必要がある。引っ込めたものが、完全に消えるわけではない。見えないところで、鳴り続ける。

 資料館を出ると、空は少し暗くなっていた。雲がまた紙みたいにしわを寄せている。学校に戻る途中、掲示板の前に人だかりができていた。近づくと、手書きの紙がまた一枚。

 ここに返しては、だめですか

 返しては、だめ。返す場所を探しているこちらに、問いが返ってくる。ここ、とはどこか。掲示板か、学校か、町か。紙の四隅の画鋲は新しく、指の跡が青い。

 夜、家に帰って手帳を開く。返す場所、返響、冷たさ、糸、名前の縁。書いていくと、言葉の間に空白が増えた。空白は、今日は怖くない。紙に空白があると、そこに息が入る。入った息が、明日の言葉を押し出す準備をする。

 その夜、封筒は来なかった。携帯にもメッセージはない。静かな夜。窓の外を電車が一本だけ通った。遠い踏切の音。程よい規則。規則の最後に、少しだけ乱れ。乱れは、次の規則のための準備だ。

 眠る前、僕は自分の喉の奥に手を当てた。体温。声の前の温度。明日の朝、僕はどうするだろう。呼ぶか、呼ばないか。呼ばないで返す場所を探すか。探すなら、どこで。黒板の右下の糸は、まだそこにあるだろうか。ほどけて、誰かの靴裏に貼りついて、廊下の端に移動しているかもしれない。それでもいい。移動した先が、返す場所なら。

 目を閉じる直前、遠くで鳴った。鐘ではない。風鈴でもない。誰かの笑い声の手前の息みたいな音だった。短く、軽く、残らない。残らないけれど、消えない。僕は布団の中で、名前を呼ばない口の形を作り、呼ばないまま、返す場所のことだけを考えた。

 翌朝、校舎は乾いているのに、空の色は湿っていた。教室の黒板の名前はそのまま。粉は落ちない。文字は消えない。十七番の席は空で、その上を朝の光が斜めに渡る。名札は、名字だけ。透明の台座の角がわずかに欠けていることに気づく。昨日までは気づかなかった。欠けて、残る。残って、光る。

 点呼の時間、僕は立った。呼ぶか呼ばないかを決めるのは僕だ。でも、今日の僕は、別のことをする。

「先生」

「神木」

「今日の十七番のところで、十秒だけ、黙ってもいいですか」

 先生は頷いた。教室の空気が一段落ちる。十五、十六。僕は目を閉じる。十七の前で、十秒だけ黙る。黙る、という選択。黙るあいだ、僕は返す場所を探す。黒板の右下の糸。机の中の名札。資料館の舌。裏庭の棒。掲示板の紙。音楽室の譜面台。すべてが一点で交わって、すぐに離れる。離れた線のどれもを、僕は追い切れない。追い切れないまま、十秒が終わる。

 十八、と先生の声。教室の空気は揺れない。揺れないまま、少しだけ軽い。軽いのは、誰かが重さを持ってくれたからかもしれない。誰か、というのは、ここにいる人の誰かでも、ここにいない誰かでも、どちらでもいい。

 放課後、僕らは裏庭ではなく、教室に残った。返す場所をここで探すと決めたから。十七番の席の周りに集まって、誰も座らないで見た。椅子の背は、やはり少し丸い。机の天板の角には、シャープペンで付いた細い傷がいくつかある。同じ方向に並んでいる。誰かがノートの端を切り離したときの軌跡かもしれない。

「返す場所は、ここだと思う」

 カリンが言った。彼女は名札をそっと持ち上げた。紙を抜かないで、台座ごと。彼女の指の腹が透明に映る。倉田が息を飲む。僕は頷く。

「どうやって、返す」

「返すって言って置く。ここに。置くことは、借り続ける約束じゃなくて、返す約束だって、紙で周りに示す」

 カリンは名札を机の奥に少しだけ押し込んだ。外からは見えにくい。見たい人だけが覗いて見える。置いたあと、彼女は机の天板の右上に小さな点をひとつ、鉛筆で打った。点は、僕が導入の紙の下に打ったのと同じ高さ。同じ意味。僕らの中の黒板。

 そこへ、樫井先生が入ってきた。先生は席の周りに集まっている僕らを見て、目だけで笑った。

「返したのか」

「返す、約束を置きました」

「そうか」

 先生は黒板の前に行き、名前の最後の「ナ」の一部にほんの少しだけチョークを重ねた。線はほとんど変わらない。変わらないように見えるだけで、実は少しだけ強くなっている。そういう重ね方だった。

「明日、教育委員会の人が文化祭の展示を見に来る。鐘の舌は片付ける。代わりに、廊下の余白と瓶と粉と影だけを見せる。何も写っていないものの重さを、見せる。——名簿は、そのまま」

 先生はそれだけ言って、出ていった。

 夕方、掲示板の前に、新しい手書きの紙はなかった。代わりに、昨日までの紙の一枚が剥がれて、足もとで裏返っていた。拾い上げると、裏に小さな字があった。

 ここで息を合わせているあいだは、呼ばないでください

 僕は紙をポケットに入れた。ここ、とはどこか。教室か、町か、誰かの心か。たぶん、全部。全部の上で、僕らは息を合わせたり、合わせなかったりしている。呼んだり、呼ばなかったりしている。返したり、返せなかったりしている。

 夜、窓の外の雲は高く、星は少なかった。手帳に書く。十秒の黙祷。返す約束。名札の位置。黒板の点。鐘の舌の刻印。返響は心に在り。書いていると、紙の上の空白が、音のない鐘みたいに見えた。鳴らないのに、響く。響かないのに、鳴る。両方が、同時に。

 ペンを置こうとしたとき、机の端の写真が少しだけずれた。触れていない。風はない。ずれるということは、誰かがそこにいるという証拠にはならない。けれど、そこに何かがある、という感覚を呼び起こすには十分だった。僕はずれた写真の角をそっと戻し、最後に一行を書いた。

 呼ばないで返すことは、きっと、呼ぶより難しい

 書いた瞬間、胸の真ん中の重い玉が、ほんの少しだけ形を変えた。重さは変わらないのに、持ち上げやすくなる。持ち上げやすくなると、遠くまで運べる。遠くまで運べば、返す場所に近づける。僕は灯りを消して、明日の朝の十秒のことだけを考えた。十秒。短くて、長い。息を合わせるには、ちょうどいい。息を合わせないときにも、ちょうどいい。そんな長さだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ