第5話 呼吸の位置
朝、雨は降っていなかった。だけど校舎の壁は薄く濡れているみたいに見えた。雲の境目が分からない空の色は、誰かが消しゴムで軽くこすったあとみたいだ。昇降口のガラスは冷たく、指先を当てると少しだけ曇った。呼ばない、と昨夜は決めた。決めて眠ったはずなのに、足は教室に近づくほど重くなる。呼ばないことは、黙っていることじゃない。呼ばないでいる、と言い続けることだ。
教室に入ると、黒板の名前は残っていた。白鐘ユナ。昨日より線が落ち着いている。粉は乾き、指でなぞればあっという間に消えそうなのに、そうは思えない厚みがあった。十七番の席は空のまま。机の中の名札は、昨日見たときと同じように、名字だけが差し込まれている。誰かの手が、夜のうちに触れた気配はない。
カリンが僕の後ろから入ってきて、傘を畳んだ。傘立てには水滴が落ちる音。彼女は黒板を見上げ、ゆっくり息を吐いた。
「今日は呼ばない、んだよね」
「うん」
「分かった。あたし、間に立つ。呼びたい人がいても、そうじゃない人がいても、今日は神木が決めたことを守る」
「ありがとう」
「お礼じゃない。取材の基本」
彼女は笑いかけて、笑わなかった。笑いの形だけが目尻に浮かんで、すぐに消えた。席に戻った彼女はノートを広げ、ペンを置く。書くことは決まっていないのに、準備だけは整えておく。そういう人だ。
チャイムが鳴り、いつもの時間が始まる。樫井先生は入ってくると、黒板の名前に目をやり、頷いた。そしていつも通りに出席を取る。十五、十六。目線が斜めに動く。僕を見る。僕は小さく首を横に振る。先生は一拍だけ空白を置き、そのまま十八を呼んだ。教室の空気は揺れなかった。揺れないという事実が、昨日より大きく感じられた。
点呼が終わると、先生は黒板の左の問いを軽く手の甲でなでた。昨日のまま残っている文字。名前は誰のものか。呼ばないことは許しなのか暴力なのか。記録と忘却の境目はどこにあるのか。三つの問いは白い線で繋がって、細い三角形を作っていた。先生はそこへ、新しく短い線を一本足した。
呼吸は、どこに置くべきか
チョークの先が軽く鳴った。先生は振り向き、言った。
「今日の授業の最初の十分、これについて書け。自分の言葉で。誰にも見せなくていい。見せたい人は、あとで見せろ」
ざわめきがすっと引いて、紙の音だけが残る。僕はペンを握り、紙に書く。呼吸は、点呼の前に置く。呼吸は、呼んだ後に置く。呼吸は、名前の前にも、後にもある。僕たちはどこで息を合わせるのか。合わせないでいることは、呼吸を止めることではない。別の拍を持つことだ。机の上の言葉はうまく並ばなかったけれど、紙の上の乱れは、今朝の体温と同じ形をしていた。
提出はない。先生は、皆がペンを置いたのを確かめてから言った。
「今日は、これでいい。続きは放課後に回す。午前中は、普通にやる」
普通、という言葉はいつもより柔らかかった。柔らかい普通は、よく伸びる。授業は進み、いつものように笑い声が端のほうで生まれて、前へ流れていく。木下はノートの端に落書きをし、浜崎は消しゴムのカスを丸め、倉田は目を閉じたり開いたりしている。十七番の席は、空のまま、空の形だけをきれいに保っていた。
昼休み、廊下がにぎやかになった頃、教室のドアがゆっくり開いた。見慣れないスーツ姿の男性が立っていた。顔は晴れているのに、靴は濡れていない。副校長だ。後ろに、生活指導の先生がひとり。
「樫井先生、少しいいかな」
先生は立ち上がり、二人を廊下に出した。ドアは閉じない。隙間から声が入ってくる。
「文化祭の展示について、地域から意見が出ている。否定的なものも肯定的なものも。あと、名簿に関しては、いったん消すのが妥当ではないかという話が」
先生はしばらく黙り、低く答える。
「妥当と正当は違います。今は、クラスで持っている。授業で扱っている最中です。今日まで待てますか」
「今日まで」
「今日まで」
副校長は頷いた。生活指導の先生は黒板の名前に視線を投げて、わずかに眉をひそめるだけで何も言わなかった。廊下の空気が、少しだけ硬くなる。ドアが閉まる。クラスのざわめきは、何もなかったみたいに戻った。でも、何かが立った。見えない柱のようなものだ。
午後の授業が終わると、カリンが僕の席に来て、小声で言った。
「今日、裏庭、行ける?」
「行ける」
「資料館の司書さんから連絡があって。鐘の舌のこと、先生が置いていったんだって。あれ、回覧板の裏書きに、名前があった。白鐘の、ね」
胸の中の何かが、軽く跳ねた。名前に触れるたび、体のどこかが反応する。反応は拒みでもあるし、受け入れでもある。どちらにしても、呼吸が速くなる。
放課後、裏庭へ向かう前に、僕たちは一度音楽室に寄った。ピアノの蓋は閉じている。誰もいない。譜面台が整列している。その規則正しさが、今日だけは頼もしく見えた。ベルの代わりみたいに、整列したものは人を落ち着かせる。窓を開けると、海の匂いは薄く、風は涼しい。カリンは鍵盤の上に手を置き、音を出さずに一オクターブ分の間をそっと撫でた。
「裏庭に行く前に、言っとく」
「なに」
「記事を、いったん止める」
彼女の言葉は早くも遅くもなかった。
「次の号に、名簿のことの続きから書くつもりだった。でも、いま書くと、あたしの言葉が誰かを押し出しちゃう。今は紙に空白を置く」
「怖い?」
「違う。紙に空白を置いたときのほうが、届くときがあるって昨日知った」
「分かった」
「ただし、止めるって宣言はする。止めたことを隠すと、勝手に書かなかったみたいになるから」
言葉を止める宣言。言わないことを言う。紙の上でだけできる勇気だ。彼女は鞄を背負い直し、僕と並んで廊下を歩き始めた。
裏庭に降りる階段の途中で、見覚えのある背中が立ち止まっていた。倉田だ。僕たちに気づくと、少し照れたように笑う。
「行くの、裏」
「うん」
「俺も行っていい?」
「もちろん」
三人で階段を降りる。裏庭は夕方の光で長い影を落としていた。窓の反射は柔らかく、空の層は薄い。鐘楼があったと先生が言った位置は、土が少し盛り上がって見える。昨日と同じ窪み。今日は、そこに細い棒が一本、斜めに差し込まれていた。黄色いテープが巻かれている。誰かが目印を置いたのだろう。近づくと、棒の足もとに小さな紙片があった。拾い上げる。紙は湿っていない。最近置かれたものだ。文字は短い。
ここで息を合わせて
カリンが紙に触れ、僕を見た。
「合わせる?」
「合わせよう」
三人で、何を、と言葉にはしなかった。合わせるという言葉が、十分だった。僕は静かに息を吸い、吐いた。カリンも、倉田も、それに合わせた。三人の呼吸が重なったところで、窓の反射に薄い白が斜めに揺れた。リボンの角度。その角度は、ほんの一瞬で消える。見えたのは、角度だけだったのに、胸の内側の温度が確かに変わる。
「聞こえた?」
倉田が小さく言う。僕は首を振る。聞こえなかった。だけど、聞こえなかったと言い切れない何かがある。聞こえたふりではない。聞こえないのに、耳が覚えている感触。風の糸が耳の穴に触れて、すぐ離れたときの、あの感じ。
「神木」
背中で声。振り向くと、笹原先生が立っていた。手ぶらだ。先生は棒の位置、土の窪み、僕たちの立ち位置を順に見て頷く。
「呼吸の場所を決めたか」
「決めた、のかもしれません」
「なら、そこで当分やれ。毎日一度でいい。三人でも、二人でも、一人でもいい。合わせる。合わせるという作業は、記録に勝つ」
「勝つ、って」
「記録が負けることがある。負けるときは、たいてい正確さにこだわり過ぎたときだ。合わせる作業は、正確さの前にある。写す前に、聴け」
先生の声は少し掠れていた。眠れていないのかもしれない。彼は足もとに視線を落とし、小石をひとつ蹴った。小石は窪みの外に出て、草に引っかかった。
「それと、副校長が名簿を消したいらしい。今日まで、という約束はした。明日の朝、お前がまた決めろ。呼ぶか、呼ばないか。残すか、消すか」
「消す、は」
「選択肢に入れとけ。消すことでしか守れないものも、世の中にはある」
先生はそれだけ言うと、肩を回して校舎の影へ消えた。影は伸びて、先生を隠した。隠して、戻さなかった。僕たちは棒の前でまた息を合わせ、一度だけ合わせない呼吸も試した。合わない呼吸は、合うより苦しいわけじゃない。ただ、長く続かない。続かないものは、残らない。残らないものは、痛みにならない。痛みにならない記憶は、軽くて、遠い。
日が落ちかけた頃、三人で昇降口へ戻る途中、掲示板の前に人が集まっているのが見えた。地域の人、下校する一年生、先生。紙が一枚、新しく貼られている。手書きの文字。既視感のある字だ。
呼ぶ日と、呼ばない日がある
あれは、茶封筒の中の手紙の筆跡だ。僕は立ち止まり、紙から目を離せなくなった。カリンが小声で言う。
「匿名の人、だよね」
「うん」
「掲示板に出した。紙で言った」
「紙で言ったね」
倉田が横で、肩を軽くすくめた。
「俺、よく分からないけど、今日はそのほうが落ち着く」
落ち着く、という言葉は、鎮めるとも、蓋をするとも違う。沈むわけでも、沈めるわけでもない。ただ、収まる。収まり切らない分だけ、明日が残る。
家に帰ると、ポストに小さな封筒が入っていた。差出人はない。宛名は僕の名前。開けると、一枚の写真。白黒。校舎の四階の窓。夕方の薄い光。窓の隅に、ほとんど見えない細い白。裏には、短い文字。
あしたは、呼んで
昨日は呼ばないで、今朝は呼んでよかった、そして明日は呼んで。声は揺れているようで、揺れていない。揺れているのは、こちら側だ。僕は写真を手帳に挟み、机に置いた。呼ぶ、呼ばない、どちらにしても、決めることが仕事だ。決めて、責任を持つことが仕事だ。紙の上の言葉は、まだ乾かない。
夜、ベッドに寝転がって天井を見る。木目は暗く、目は慣れず、耳の穴だけが風の位置を覚えている。眠りの手前で、短い夢を見た。学校の裏庭、棒の前、三人で呼吸を合わせる。そこへ、もうひとつの呼吸が重なる。誰のとは分からない。重なって、外れる。外れて、戻る。その戻り方が、僕の知っている誰の歩き方とも違う。夢から覚めると、部屋は静かだった。
翌朝、空は晴れていた。校舎の壁は乾き、ガラスは高い音で光を返していた。教室に入ると、黒板の名前はそのまま。粉は乾き切って、もはや誰の指でも消せないもののように見えた。十七番の席は空。机の中の名札は、名字だけのまま微妙に角度を変えて差し込まれている。誰かが触れたのだ。触れて、戻した。
先生が入ってきて、点呼が始まる。十五、十六。僕は立ち上がる。空気は静かで、靴の底のゴムが床を擦る音さえ大きく感じる。
「十七番」
呼ぶ前に、一拍。昨日書いた問いが頭の片隅で灯る。呼吸は、どこに置くべきか。僕は息を吸う。教室全体がわずかに動いた気がした。紙の端がのび、鉛筆の芯が震え、誰かの喉がひっそり鳴る。
「白鐘ユナ」
言った。壁は近づかない。鈴も鳴らない。椅子の温度は変わらない。何も起きない。昨日の何も起きないと同じはずなのに、違う。同じ空気が、違う重さを持っている。僕は目だけでカリンを見る。彼女は頷いた。彼女の頷きは、呼びかけに似ている。
その瞬間、窓の外で鳥が鳴いた。短い一声。誰かの手のひらで鳴って、空に返されたみたいな音。教室の誰も、その鳥の種を言えない。言えないことが、今日はいい。名簿の名前の最後の点のところに、太陽の反射が一瞬だけ当たって、小さく光った。
放課後、僕たちはもう一度裏庭へ行った。棒はそのまま。紙片は新しいものに変わっている。同じ筆跡で、こうあった。
合わせられない日も、合わせない日も、合わせた日と同じ
僕たちは立ち位置を決め、昨日より少しだけ呼吸を長くした。来なかった。来ない、ということが、昨日より静かに受け取れた。倉田が目を閉じ、カリンが小さく歌い、僕は空気の重さを測るみたいに両手の指先を開いた。僕らの三つの呼吸の輪は大きさを変え、少しだけ重なる。重なったところで、風がひとつだけ方向を変えた。
「レン」
カリンの声。振り向くと、音楽室の窓の内側で、譜面台の列のいちばん手前だけがわずかにずれていた。誰かが動かしたのだ。動かして、戻しきれなかったのだ。見間違いかもしれない。見間違いなら、それでいい。見間違いのまま残ることを、今日は許す。
その夜、封筒は来なかった。代わりに、携帯にメッセージが届いた。連絡先は表示されない。本文は短い。
あしたは、呼ばなくていい
呼んで、呼ばないで、呼んで、呼ばなくていい。表は揺れていて、裏はまっすぐだ。裏にあるのは、誰の呼吸なのだろう。僕は返事を打たなかった。返事をしないことも、呼吸の位置の一つだ。
ベッドに入る前に、手帳を開いて書いた。呼んだこと。何も起きなかったこと。鳥が鳴いたこと。棒の足もとに新しい紙があったこと。譜面台がずれていたこと。封筒が来なかったこと。メッセージが来たこと。明日は呼ばないこと。書いていると、紙の匂いが強くなり、現像室の赤い光の気配が、ほんの少しだけ部屋に満ちた。
灯りを消す直前、机の上の写真がわずかにずれた。風はない。窓は閉まっている。写真の端が他の紙に引っかかっただけかもしれない。引っかかっただけの出来事は、記録するには小さい。でも、今日の最後の行に足すには十分だった。僕はペンを取り、書いた。
ずれる、ということ
ペン先が紙を押す感触は、昨日より軽い。軽いのに、残る。残るのに、やわらかい。明日の朝、黒板の名前が残っているかどうかは分からない。消えていたら、そのとき考える。残っていたら、また呼ぶか呼ばないか考える。どちらにしても、呼吸の位置を確かめる。確かめることは、誰の代わりにもならない。僕の仕事だ。
目を閉じると、遠くで何かが鳴った。鐘の音ではなかった。鐘の舌は、昨日、廊下の片隅で布に包まれていた。鳴らないもののそばで、別のものが鳴る。鳴って、止まる。止まって、また鳴る。僕はその合間に、明日の点呼の声を小さく口の中でなぞった。名前を呼ばない声は、声の前の呼吸だけを持っていた。呼吸だけの声は、しずかに、長く、残った。




