第30話 夢の外で、また
朝の空は白く高く、港の白は紙の裏で静かに光っていた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。角の水滴は今日は三つ。触れないまま通り過ぎた。教室に入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並び、粉の短い白は線になりきらない距離で止まっている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前に落ち着いていた。先生は通路の椅子を持って来ず、黒板の前で目だけの合図をひとつ。いつもどおり、から始める。
十秒は一年の女子。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐ落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。
一限の冒頭、先生は黒板の右下へ歩き、いちばん左の点の手前に指を置いた。押さえない。置くだけ。置いて、離す。粉の短い白がわずかに揺れて、やっぱり線になりきらない。先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。それから僕らをゆっくり見渡し、低く言う。
「今日は“おしまいの練習”をやる。——終わるために、続くやり方をひとつだけ決める。見出しは書かない。本文は、それぞれの帰り道に置いてくる」
おしまいの練習、という言い方が胸の奥の固いところにやわらかく触れた。終わらせるために、何かを始める。カリンは新聞部のノートに細く「おしまいの練習」と書き、囲いを閉じずに止めた。木下は筆箱の消しゴムを角で立て、支えずに見つめる。吹奏楽部の彼女は胸の前で息の形を短く置き、すぐに忘れた。忘れ方が上手い日は、長く持てる。
二限の途中、理科準備室から短いメモが届いた。窓は無事。封筒は見えない。見えないままでよい。理科の先生は一行だけ足していた。
油紙は開けないで置いておく
開けないで置いておく、は今日の見出しの代わりみたいだった。
昼休み、昇降口の白を見に行く。見出しは下枠に挟まったまま、角は昨日より少し明るい。二階の踊り場の布は揺れず、理科室の擦りガラスの白は低く座っている。僕はそれぞれの前で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、胸の奥の重さがひとつ減った。減った場所に、夏の薄い風が座る。座り方が、よかった。
午後、資料館からのメモが届く。白い紙に三行。
灯台の四角は今日は見える
坂の帯は薄いまま
——叔父は港の手前
見える、と書かれる日は少ない。少ないほうが、準備は静かにできる。五限の終わり、先生が言った。
「港へ行く。列は作らない。——“開けなかった記録”を、それぞれの場所で“終わるために置く”。坂は、最後に寄る」
放課後。港への道は白く、風は低い。灯台の白が遠くに立ち、四角は晴れた紙の端みたいに見えた。僕とカリン、木下、吹奏楽部の彼女、一年の女子、先生。叔父さんは四角の手前、転回場の壁の影に立っていた。帽子はなく、手ぶら。足音は小さく、影は薄い。薄い影は、長く残る。
「来たね」
「来ました」
叔父さんは僕らを見ず、四角を見ていた。近いのに遠い。遠いのに、位置はここだとわかる。
「今日は、おしまいの練習だって?」と叔父さん。
「はい」と先生。「——渡して、返して、忘れて、それでも残るやり方を、ひとつだけ場所に置いて帰る」
僕はポケットの黒い筒に軽く触れた。触れて、離す。離したあと、掌の中の重さが半分だけ軽くなる。軽くなる、で止める。止めた先で、四角の白が一瞬だけ柔らかく明るくなって、すぐ戻った。戻り方が、よかった。
先生は声を上げず、顎で短く示した。並ばない。各自の場所のまま、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、四角の前の空白に見えない椅子が一脚置かれる。昨日置いた空席とは別の、今日のための椅子だ。座るのは風。座った風は音を立てない。
一年の女子が先に歩き、扉の手前で胸の前に名札代わりの紙を半分だけ持ち上げ、空へ戻した。戻し方が丁寧だった。木下は防波堤の境で靴底を一度鳴らし、音を残さない。吹奏楽部の彼女は胸の前で息の形を置き、忘れる。忘れたあと、波の端がひと呼吸だけ低くなった。
僕は黒い筒に触れず、扉の前の空白に向かって頭を下げた。声は出さない。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、筒の重さの半分だけを今日の空席へ置く。置く、と言っても、何も下ろさない。置いた事実だけが、僕の中で位置を決める。位置が決まると、息が通る。
「白鐘はね」と叔父さん。「終わらせ方の練習をよくした。『終わることは、置いていくことだ』って。——置けたら、続く」
置けたら、続く。言い換えはよく効く。僕は頷いた。先生は扉に触れず、扉の金具の影に指先を一瞬だけ置いて、離した。離し方が、よかった。
港を離れて、僕らは坂へ向かった。途中、アーケードの天井の蛍光灯はすべて点いていて、明るさは浅い。豆腐屋の前の水は細く流れ、傘屋の布は光を返す。透明の地図はもう見えない。見えないけれど、足の運びは勝手に揃う。揃うのに、並ばない。並ばない列は、強い。
坂の下で、カリンが白い帽子を手に持って立ち止まった。白い帯はほとんど消えかけている。消えかけているのに、位置は強い。
「ここで、何を置く?」とカリン。
「“名札のない日にも呼吸できるやり方”」と一年の女子が言った。声は出さず、目だけで。
「“音が見えると言っていいやり方”」と吹奏楽部の彼女。
「“外さないで外れて、戻れる歩幅のやり方”」と木下。
カリンは笑わずにうなずき、新聞部のノートを開かない。開かずに、帽子の影を短く回して止めた。止めた影の縁が、帯の上で見えない線みたいに揺れた。
僕はポケットの黒い筒に軽く触れ、触れたことを忘れる。忘れる、で止める。止めた先で、坂の風がわずかに低くなり、また戻った。戻り方が、よかった。
「じゃあ、順番は作らないで、各自の場所のまま置いていこう」と先生。「——十秒ずつ」
最初は一年の女子。胸の前で両手を合わせ、机の手前に置くみたいに空に指をそっと触れ、すぐに離した。離し方が、よかった。次に吹奏楽部の彼女。息の形を短く置いて、忘れた。忘れたあと、坂の白が一瞬だけ浅くなって、また深くなった。木下は靴底で帯の端を軽く鳴らし、音を残さない。残さない音の方が、長く残る。
僕の番が来た。黒い筒には触れず、胸の中の空席をひとつ坂の上に置いた。置いた空席は誰のものでもない。誰のものにもならない。だから、次の人が座れる。
最後にカリンが、帽子を持った手を帯の上へゆっくり重ね、指先を離した。離す瞬間、風が帽子のつばを軽く持ち上げ、すぐ戻す。戻すのは風の仕事だ。カリンは帽子を被らず、手に持ったまま僕を見た。
「終わらせるために、続ける。——やれる?」
「やれる」
言ってみると、声は軽かった。軽いのに落ちない。彼女は小さくうなずいた。
解散の合図の前、叔父さんが坂の上に現れた。帽子はなく、手ぶら。足音は小さい。彼は僕らを見ず、帯の上を見た。消えかけた白の上に、見えない地図が薄く座っているのをたしかめるみたいに。
「白鐘は最後に、こう言った。『夢の外で、また』。——夢の中じゃなくて、外。外で会う約束は、忘れていい約束だ。忘れていいのに、よく残る」
夢の外で、また。口に出さなくても、合う言い方だった。カリンはノートの余白に細く書いた。
夢の外で、また
忘れていい約束
囲いは閉じない。閉じない余白に、今日の風が薄く座った。
学校へ戻る途中、用具倉庫の影に寄った。半分地面に埋まった錆びた小さな箱。角は丸く、音は長い。木下がしゃがみ、指で角を軽く叩く。からん、という細い音がして、すぐ止む。止まり方が、よかった。
「掘る?」と一年の女子が目で聞く。
先生は首を横に振る。
「掘らない季節は、掘らないままで終わっていい。——終わらせるための『置いておく』も、やり方のひとつだ」
僕は影の端で十秒を持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、影の濃さが一瞬だけ薄くなり、すぐ戻る。戻る、で十分だ。
夕方、音楽室の前で最後の十秒。鍵盤の端の白は扉越しに薄く光り、譜面台は揃っている。吹奏楽部の彼女が息だけの旋律を短く置き、忘れた。忘れたあと、扉の前の空気がいちどだけ薄く鳴り、静かになった。静けさは長く続く。長く続く静けさの方が、強い。
昇降口に戻ると、見出しは下枠に静かに座っていた。角の白は浅く明るい。先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。通路の椅子は今日も要らない。先生は黒板の右下の九つの点に目を向け、短く言う。
「見出しは書かない。——『おしまいの練習』は、ここまで」
ホームルームの終わり際、新聞部の机に白いメモが四枚。名前はない。
坂の上で呼吸がしやすかった
港の前で空席に座れた
掘らないで終われた
約束を忘れて、残った
カリンは笑わずにうなずき、メモを重ね直した。僕は胸の中で小さく言う。
大丈夫。半分のままで。線になりきらない白のままで。——夢の外で、また。
声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに笑い、ふつうに帰り支度をし、ふつうに坂を降りた。坂の白い帯は消えかけているのに、位置ははっきりしている。はっきりしているものは、触らなくていい。触らないで、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、夏が薄く終わり、風は静かに座った。
夜。机の上で壊れかけのカメラが静かに座っている。シャッターは切らない。切らない音の方が、今日は合っている。手帳を開き、短く書いた。
終わらせるために置く
忘れていい約束
夢の外で、また
灯りを消す直前、ポケットの黒い筒に軽く触れ、触れたことを忘れた。忘れると、持てる。持てると、渡せる。渡せると、返せる。返せると、息ができる。簡単な順番だ。簡単なのに、練習が要る。
目を閉じる前、ユナの笑い声が遠くでした気がした。錯覚でもよかった。錯覚の方が、長く持つ。胸の中で小さく言う。
ありがとう。半分のままで。風のままで。白のままで。線になりきらない白の手前で。——夢の外で、また。
翌朝。港は白く、空は低い。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室に入ると、九つの点はそのまま。粉の短い白は昨日よりわずかに短く見えた。短く見えるのは、光のせいかもしれない。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。
「今日からは“続きのない続け方”だ」と先生。「見出しは書かない。本文は、風の中に残す」
僕はうなずく。黒板の右下の点は点のまま、線は線になりきらないまま。呼ばない名前は、静かに座っている。ユナの席はどこにもない。どこにもないから、どこにでもある。僕はカメラを胸の前に持ち、構えずに下ろした。構えない写真は、あとから撮れる。
昼休み、カリンが帽子を手にやって来る。
「ねえ、夏の特集、最後のページどうする?」
「余白でいい」
「そう思ってた」
彼女は笑って、帽子の影で僕の目を短く隠してから、すぐに引いた。引き方が、よかった。
放課後、僕らは別々の道で帰った。港へ向かう道、坂へ向かう道、アーケードへ向かう道。どの道にも透明の地図が薄く残っている。足音で完成する地図。完成しても、名前はいらない。
坂の途中で立ち止まり、ポケットの黒い筒に軽く触れる。開けないで持つ。持ったまま、胸の中の空席をもう一度確かめる。空席は今日も座り心地がいい。座り心地がいい椅子は、次の人のために空けておける。
夕暮れ、港の白は紙の裏で静かに光り続けていた。灯台の四角は遠く、見えるとも見えないともつかない。見えないままで、位置ははっきりしている。僕はシャッターを切らず、風の中で十秒を持つ。吸って、吐いて、止める。止めた先で、世界がいちど薄く静まり、またふつうに戻った。戻り方が、よかった。
——記録は終わらない。
記録者はまだ、夢を見ている。
でもそれはもう、夢の外側で見る夢だった。




