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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第29話 夏の音

 朝の空は薄く白く、港の白は紙の裏でじっと息をしていた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。角に小さな水滴がひとつだけ残っていて、触れないまま通り過ぎた。教室へ入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並び、粉の短い白は線になりきらない距離で止まっていた。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前に落ち着いている。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ。いつもどおり、から始める。

 十秒は僕。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。

 一限の冒頭、先生は黒板の右下へ歩き、いちばん左端の点の手前に指を置いた。押さえない。置くだけ。置いて、離す。粉の短い白がわずかに揺れて、やっぱり線になりきらない。

 「今日の放課後は音楽室を借りる。——吹奏楽部の“夏前の通し”を、静かに見に行く。見出しは書かない。本文は風の中に残す」

 風の中に残す、という言い方が胸の奥に軽くひっかかった。昨日、僕は坂で風を撮った。今日は音を聴く番だ。撮るのか、ただ聴くのか。決めずにおくと、少しだけ息が楽になる。

 昼休み、新聞部の机でカリンがノートを開いた。細く書く。

 夏の音

 見出しは持たない

 囲いは閉じない。閉じないまま、余白に日差しが薄く座った。彼女は顔を上げ、僕の首から下がるカメラを見た。

 「今日は、それ、どうする?」

 「構えるかは、音を聴いてから決める」

 「うん。——たぶん、どっちでも正しい」

 その言い方が、少しだけ救いになった。

 午後の授業は短く感じた。蝉の鳴き方が日ごとに厚くなっている。窓の高い位置から入る光は白く、粉の線の手前で薄く散って、すぐに消えた。消え方が、良かった。

 放課後。音楽室の前の廊下は少し涼しかった。扉の上の小窓から、譜面台の列が見える。トランペットの銀色が小さく跳ね、クラリネットの黒は静かに座る。木下が入口に立って、手で合図をした。入っていいよ、という合図。並ばずに、各自の位置で中へ入る。僕は一番後ろの壁際に立った。カリンは窓の側に。先生は通路の椅子を持ち込まず、扉の影に。

 チューニングのラの音が細く伸びる。最初はばらついて、やがて揃う。揃いきらない端が、かえってよかった。人のいる音がする。顧問の先生が棒を持ち、話さずに手だけで一度円を描いた。合図は短い。短い合図は、長く効く。

 最初の曲は、町の夏祭りの行進で吹くという短いマーチだった。大げさな華やぎはない。歩幅に合う、前へ運ぶための音。スネアが軽く刻み、低音が床に道を作る。木下はトロンボーンで、目を細めてスライドをやわらかく動かす。彼の音は派手ではない。足元を広くする音だ。僕はカメラを構えない。まだ、聴く。

 次の曲は、海の方角へ向けて吹くために選んだという合奏曲。窓が少しだけ開いて、白いカーテンが端で揺れた。指揮の手が上がり、息が集まる。吸って、吐いて、止める。止めた先で、フルートの入りが水面みたいに光る。トランペットがかすかに外れて、すぐ戻る。戻り方が、良かった。外れた瞬間に、人がいるのが分かる。

 僕はファインダーを覗かないまま、視線で音の通り道を追った。床の白線の上を、低音がやわらかく滑り、壁際で一度沈んで窓の隙間へ抜ける。抜ける音は、港へ行く。行った音は戻らない。戻らない音の方が、残る。

 合奏の途中で、顧問の先生が棒をすっと下ろした。音はふわりと座って、静かになる。止まり方がきれいだと、次が始めやすい。

 「通しをやる前に、一度“外”へ出よう。——音の行き先を見てこい」

 顧問の声は小さいのに、よく届いた。部員たちは楽器を安全な位置に置き、音楽室の外へ静かに出る。僕とカリンも続いた。先生は廊下の角で立ち止まり、合図をしない。ただ見送る目をする。見送られると、足音が落ち着く。

 渡り廊下から校庭を抜け、資料館へ続く坂の上の方角がうっすら見える。港の白は遠く、空は高い。蝉の声が一段下がって、風が代わりに上がる。木下が息だけでトロンボーンの運指をつくり、音は出さない。吹奏楽部の彼女が胸の前で息の形を置き、忘れる。忘れたあと、通りの空気がひと呼吸だけ低くなった。

 顧問は言った。

 「音は、行って、戻らない。それでいい。——戻らないから、手元に残る」

 言い換えは救いになる。僕はうなずいた。カリンも小さくうなずいて、ノートを開かず、空を見た。空はいつも通りなのに、今日だけは少し広い。広いと感じられるのは、多分、音のせいだ。

 音楽室に戻ると、通しが始まった。椅子はきちんと並び、譜面はすぐ読める角度に立っている。合図は短い。最初の音が出た瞬間、僕はようやくカメラを構えた。構えた理由はうまく言えない。ただ、今を残したいと思った。

 ファインダーの向こうで、木下の頬がわずかに赤い。トランペットの二年が口を引き締め、クラリネットの一年が指を迷い、すぐ戻す。戻し方が良い。顧問の左手が空に見えない輪郭を描き、右手が拍の前で一瞬止まる。止めて、走らせる。走り方は、あまり速くない。速すぎないほうが、遠くまで届く。

 僕は一枚撮った。カシャ。音の合間に消える。消えるのに、残る。次の小節、窓の向こうで風がカーテンを一度だけ持ち上げた。その瞬間、もう一枚。カシャ。今度は胸の奥で鳴った音が、写真の白に薄く混ざる感じがした。

 楽章が移って、静かな主題に入った。港の昼を思わせる、薄い光の並び。フルートとクラリネットが少し重なり、ホルンが遠いところから踏み固める。木下の低い音が、床を広くする。僕はファインダーから目を離し、耳で聴いた。ユナの名前は呼ばない。呼ばないまま、存在の形が薄く立ち上がる。立ち上がって、風に混ざる。混ざったものは、戻らない。それでいい。

 合奏は大きくなって、やがて小さくなり、最後の一拍が空に置かれて止んだ。止み方は丁寧で、誰も動かなかった。一秒、二秒、三秒。顧問が軽く息を吐いた。吐いた合図で、音楽室がふつうに戻る。戻り方が上手いと、誰も無理をしない。

 「もう一度、最後だけ」

 短い復唱。今度は少し柔らかかった。終わりの白が一段薄くなり、余白が広がる。広がる余白の方が、長く持つ。顧問は棒を下げ、手を叩かない。拍手のいらない見せ場だと、みんなが分かっていた。

 休憩のあいだ、木下が僕のところへ来た。

 「今の、撮った?」

 「少しだけ」

 「変な顔してなかった?」

 「してた。でも良かった」

 木下は笑って、肩を一度だけすくめた。

 「頼むから、記事にするなら写真は選んでくれ」

 「記事にはしない」とカリンが言った。「今日のは“風の本文”だから。——新聞は余白だけ借りる」

 「よく分からんけど、助かる」

 彼は戻っていった。吹奏楽部の彼女が譜面を閉じ、窓の方へ歩く。窓の外、渡り廊下の先に小さな影が見えた。一年の女子が名札代わりの紙を両手で持ち、校庭の隅で十秒をやっている。吸って、吐いて、止める。止めた先で、紙が少しだけ明るくなった。明るくなる、で十分だ。

 夕方、顧問が言った。

 「最後に、屋上で一曲。——音は遠くへ行く。近所迷惑にならない程度で」

 笑いが小さく起きて、すぐ止んだ。止め方が上手い。僕らは楽器を大切な位置で持ち、屋上へ向かった。扉を開けると、港の白が広がっていた。四角は見えない。見えないまま、位置ははっきりしている。風は高い。高い風は、音を遠くへ連れていく。

 顧問は棒を持ち上げ、誰も見ない空へそっと指先を伸ばした。合図は短い。音が出る。最初はかすかで、すぐに広がる。屋上の縁から海の方角へ、細い帯が伸びる。帯は誰のものでもない。誰のものにもならない。だから、強い。

 僕はカメラを構え、まずは港を撮った。白の上に、音の影は写らない。写らないけれど、光の返し方がいつもと違う。次に、吹いているみんなの横顔を撮った。息を吸う前の顔、吹き始めた顔、吹き終えた顔。どれも似ていて、どれも違う。違い方が、それぞれの夏だ。

 曲の終わりが近づき、顧問がわずかに手を沈めた。音は一段薄くなって、そのまま遠くへ投げられる。港の白の上を、見えない帯がするすると抜けていった。僕は最後の一枚を撮った。シャッターの音は風にすぐ消えた。消える音の方が、残る。

 終わったあと、誰も声を上げなかった。屋上の床に影が伸び、蝉の声が戻る。戻る、で十分だ。顧問は棒を仕舞い、軽くお辞儀をした。部員たちも頭を下げ、ゆっくりと扉の方へ歩く。歩幅はそろえない。そろえないのに、列になる。列になるのに、呼ばない。呼ばない列は、強い。

 屋上に残ったのは僕とカリン、先生だけだった。先生は通路の椅子を持ってきていない。持ってこない方がいい日は、そうする。

 「撮れたか」と先生。

「はい。——風までは分かりませんけど」


 「分からなくていい。分からない写真の方が、あとから読める」

 先生はそれだけ言って、屋上の柵の影に指をそっと置き、すぐに離した。離し方が丁寧だった。

 帰り道、坂の手前で叔父さんが待っていた。帽子はなく、手ぶら。影は薄い。薄い影は長く残る。

 「屋上の音、港まで来たよ」

 「聴こえましたか」

 「聴こえた気がした。——それで十分」

 彼はいつも通り、僕の肩を一度だけ軽く叩いた。

 「白鐘はね、音が見えるってよく言った。『見えないものを、そのまま見えると言っても構わない』って。——君の写真も、そうであればいい」

 「見えないものを、見えると言う」

 口に出してみると、言葉は軽かった。軽いのに、落ちない。僕はうなずき、カメラを胸の前で持ち直した。重さは、昨日より少しだけ合っている。

 家に帰って、暗くなる前に現像を始めた。トレイの中で紙が眠りから起きるみたいに白んでいく。屋上の端、木下の横顔、カリンの指先、顧問の手の止まり方、港の白。どれも少しずつ滲んで、境目がやわらいでいく。やわらいだ境目の向こうに、うすい帯が確かにあった。音の帯か、風の帯か、区別はつかない。区別がつかないほうが、長く持つ。

 部屋の時計が鳴って、それきりしばらく静かだった。静かな時間は、息が楽だ。手帳を開いて、短く書く。

 夏の音

 戻らないから残る

 見えないものを、見えると言う

 灯りを消す前、壊れかけのカメラのシャッターを指でやさしく撫で、切らずに手を離した。切らない音のほうが、今日は似合う。耳の奥で薄い音が一度だけ鳴って、止まった。止まった場所へ十秒を置く。置いたまま目を閉じる。

 翌朝。港は白く、空は高い。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室へ入ると、九つの点はそのまま。粉の短い白は、やっぱり線になりきらない距離で止まっている。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前に立って目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。

 ホームルームの終わり、新聞部の机に白いメモが三枚あった。名前はない。

 屋上の音が港まで来た

 並ばないのに前へ進んだ

 音が見えた気がした

 カリンは笑わずにうなずき、メモを重ね直した。ノートの余白に細く書く。

 夏の音は、風の本文

 囲いは閉じない。閉じない余白に、今日の風が薄く座った。座り方が、良かった。僕は胸の中で小さく言う。

 大丈夫。半分のままで。見えないままで。——見えると言って、いい。

 声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに放課後を迎えた。ふつうの中に、静かな見せ場はいくつも立っている。拍手はいらない。拍手のいらない見せ場を、今日も通り過ぎる。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整い、九つの点は点のまま、粉の短い白は線になりきらないまま、確かに明日へ残っていた。


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