第28話 風を写す日
朝の空は、昨日より少しだけ低く見えた。
港の白は乾いて、光を跳ね返すというより、吸い込むように輝いている。
七月の終わり。校舎の裏では蝉が鳴いて、音が空気の形を押し広げていた。
僕は壊れかけのカメラを机の上に置き、そのまま触らなかった。
シャッターを切らなくなって、もう何日が経っただろう。
教室の隅の壁には、カリンが描いた小さな見出しが残っていた。
「続け方の地図」。
黒板の粉が流れても、そこだけは拭かれずに残っている。
それを見ていると、まだユナの声が風の奥で響く気がした。
だけど、もう“聞こう”とは思わない。
聞かなくても、思い出せる。
それで十分だと、昨日やっと思えた。
放課後、先生が部室の前で言った。
「夏休みの記録は、自由参加にする。町のアルバムは一区切りだ。——あとは、それぞれの場所で続けていい」
それを聞いて、僕は不思議と寂しくなかった。
みんなの“場所”がもう決まっているのを感じたからだ。
木下は吹奏楽部の撮影係を引き受けたらしい。
カリンは、新聞部の夏特集で「坂と白の記憶」という特集をまとめている。
一年の女子は、名札のない机を整えて、日直の代わりに花瓶の水を取り替える役目を自分から選んだ。
みんな、それぞれのやり方で“記録”を持っている。
だけど、僕だけが何もしていなかった。
家の机の上には、埃をかぶったカメラと、使い終えたフィルムケースが並んでいる。
シャッターの感触は指に残っているのに、撮る理由がない。
レンズの向こうにユナがいない世界では、僕の記録は、ただの風景だ。
そんなとき、叔父さんから手紙が届いた。
封筒の端が濡れていて、開ける前から懐かしい匂いがした。
中には短い文が一枚だけ。
——坂の上、風が戻ってきた。お前のカメラで撮っておけ。
差出人の名前はなかった。
けれど、筆跡の癖は叔父さんのものだとすぐにわかった。
「坂の上」。
それだけで、あの日の“返す儀式”の場所を思い出す。
白い帯の上で、僕らが“呼ばない名前”を返した、あの坂だ。
次の日。
僕はカメラを首から下げて坂へ向かった。
空はやけに高く、雲が薄かった。
蝉の声が途切れた瞬間、風が吹き抜けた。
海の匂いがして、あのときと同じように光が帯をなぞった。
坂の中腹で、カリンが待っていた。
白い帽子を片手に、風に逆らうように立っていた。
「来ると思った」
彼女は笑って言った。
「叔父さんから?」
「うん。手紙で」
「やっぱりね。私にも来た」
彼女の封筒には、たった一行だけ書かれていたという。
——風を写す日、君の番。
「“風を写す”って、どういう意味だと思う?」
僕が尋ねると、カリンは少し考えて、答えた。
「多分、“動かないものの中にある動き”を撮れってこと。風って、見えないでしょ? でも、写すことはできる」
その言葉を聞いて、僕はカメラを構えた。
シャッターの感触は懐かしい。
ファインダーの中には、カリンの髪が揺れ、白い帯が光を弾いている。
風の動きは映らない。
だけど、そこに確かに“いた”人の気配が映っている気がした。
カシャ、と一度。
音が鳴った瞬間、僕は少しだけ泣きそうになった。
ようやくシャッターを切れた。
撮る理由を失ってから初めての写真だった。
「どんな風に撮れた?」
カリンが覗き込む。
「わからない。でも、多分、写った」
「そう思えるなら、それでいいんだと思う」
彼女はそう言って、帽子を被った。
その姿が、やけに大人びて見えた。
僕らは坂の上まで歩いた。
途中、港の白がちらちらと見える。
「これで“記録者”の役目は終わり?」
カリンが聞いた。
僕は少し考えてから答えた。
「終わりっていうより、“形が変わる”だけだと思う。これからは、撮った写真を誰かに渡す側になるんだ」
「渡す側?」
「うん。ユナが残した記録を、次の人に伝える役目。僕があの夜、受け取ったみたいに」
カリンは少し黙って、それから頷いた。
「……そうだね。じゃあ、私も新聞部で続ける。町のこと、坂のこと、ちゃんと“残す”」
「うん。それがいい」
坂の頂上に着くと、白い帯はほとんど消えかけていた。
それでも、陽の光に照らされると、微かに浮かび上がる。
僕はカメラをもう一度構え、ファインダーを覗いた。
風が通り抜ける瞬間、ユナの笑い声が聞こえた気がした。
錯覚かもしれない。
でも、もしそうなら、写真を撮る価値がまた一つ増えた気がする。
カシャ。
もう一度、シャッターを切った。
その日、僕は初めて「誰かのため」ではなく、「今の自分のため」に写真を撮った。
それは記録でも追憶でもなく、“再生”の一枚だった。
夕方、帰り道でカリンが言った。
「夏の特集、あなたの写真を使っていい?」
「好きに使って」
「ありがとう。きっと、いい記事になる」
彼女の声はまっすぐで、風の音と混ざった。
校舎の見える場所まで戻ったとき、吹奏楽部の音が聴こえた。
「ほら、木下たちだ」
カリンが言った。
窓の向こうで、誰かがトランペットを吹いている。
音は少し外れて、でも明るかった。
夕陽が差し込んで、校舎の壁に光が跳ね返る。
そこにも風があった。
「……やっぱり、撮る」
僕はカメラを構えた。
カリンが笑って言った。
「撮って。ほら、ちゃんと“風”がいるよ」
カシャ。
その瞬間、僕はようやくわかった気がした。
記録とは、誰かを思い出すためだけじゃなく、
“これからの誰かを信じるため”に残すものだということを。
その夜、現像した写真は、どれも少しだけ白っぽかった。
坂の帯も、カリンの笑顔も、港の光も、輪郭が滲んでいる。
でも、それがいいと思えた。
僕の中に、もう“風”が写っていたから。
翌朝。
学校の昇降口で先生が僕を見て言った。
「いい顔をしているな。もう記録者の顔じゃない」
僕は笑って言った。
「そうですね。——今は、ただの風景を撮る人です」
先生は少し笑って、うなずいた。
「風を写す人か。いい名前だ」
外に出ると、夏の風が強かった。
空が高くて、港の白がかすかに滲んでいる。
僕はカメラを構え、シャッターを押した。
音は小さく、風の中にすぐ消えた。
だけど、ちゃんと残った。
僕の中に。
記録は終わらない。
記録者はまだ、夢を見ている。




